- 私の舞踊史 13
柴﨑政夫 前回末尾で、その後の経歴を述べた。 そこまでの心理と決意に至った自分なりの精神放浪過程を説明しよう。 人生開拓面での気弱さ・後悔を抱え続けている今の子なら聞いてくれそうだから。 **************** […]
- 私の舞踊史11
柴﨑政夫 大学の方はというと、理論物理専攻ながら、いつまでも安い授業料で居座る学生を追い出し、新入生には高めの設定をして受け入れるという経営案に従わざるを得なかった。 前年、教育実習を都内で希望したが、郷土の方がよい […]
- 歴史的エッセイ「春また巡り来て、山河あり」
柴﨑政夫 現代は、あのスタ-リンとモロトフ外務相の時代を彷彿とさせます ノ-メンクラ-ツと呼ばれた新興富裕層が出現した都市部に対し、農村部の貧困は深まりました。 その反省が自然とある映画にあふれ出てしまい、大人気を […]
- 私の舞踊史Ⅹ(10)
柴﨑政夫 たまたまだが、高専卒→テレビ局勤務から、大卒資格取得→大卒後NHKへ転職希望という人物と知り合った。(理系専門知識はOKで一般知識が鍵) 話をすると、制作側では、番組責任の判断は視聴率。継続企画かどうかは周 […]
- 私の舞踊史Ⅸ
柴﨑政夫 当時、私の所属する所と劇団四季だけが創作子どもミュ-ジカルに意欲的に挑戦。互い違いに、夏休み番組として放映された。 その企画代表が私の師Tであり、イ-ゴリ・モイセエフ・バレエを手ほどきした人。 「パルチザン […]
- 私の舞踊史Ⅷ
柴﨑政夫 後になって気づいたことだが、半年ごとの養成所のカリキュラム計画と発表については、後になって、娘がロシア留学した際に出題されたものと極似する内容だった。 歌唱発表、抜粋場面の演技発表、肉体表現、論文発表。そし […]
- 私の舞踊史Ⅶ
柴﨑政夫 俳優生活も新年度に入った。突然「柴﨑君、君の声は遠くまで通る。すぐに使えるよ。」と言われた。続けて「一つチャンス逃したけどね。」→「何のことですか。」→「いや終わったことだからいいんだ。」 これが我が師Tと […]
- 私の舞踊史Ⅵ
柴﨑政夫 私が所属した俳優協同組合付属養成所では、様々な先生の指導を受けることができました。ここは日本を代表する声優達が有名。声の技法に関してトップレベル。だから売れる売れないに関係なく、その技法を学ぼうとしました。 […]
- 私の舞踊史Ⅴ
柴﨑政夫 不本意入学ながら、大学生活が始まった。 学徒援護会で間借りを探した。ここの交差点対面側には警察の駐在所があって、ある漫画家が署員の個性や性格を拡大して書くこともあった。地下鉄を利用すれば早稲田から神 […]
- 憂国の士、市ヶ谷事件についても読める「私の舞踊史Ⅳ」
柴﨑政夫 幸か不幸か父から書道の手ほどきは受けていた。 小学校5年生からは臨書に取りかかり、虞世南、欧陽詢らの書風にふれながら、千字文を習っていた。 これは強制だったため、弟妹はすぐに離脱。後々これがなぜか、学校掲 […]
- 昭和の時代も懐かしい「私の舞踊史Ⅲ」
柴﨑政夫 昭和20~26年の間、アメリカ進駐軍指導の下、日本は再生してきた。 華族制度の廃止、マサチュ-セッツ州制度を基本とした義務教育の整備。外国語の推奨。しかし、直ぐ実現できるわけもなく、努力する体制で教育推進が […]
- 私の舞踊史Ⅱ
舞踊教育法研究家 柴﨑政夫 続いて、私の所属する寺院檀家も紹介します。 秩父札所16番 無量山 西光寺~四国八十八箇所霊場の本尊模刻の回廊堂が建つ。 …この回廊を巡ると、四国八十八箇所を巡るのと同等の功徳が得られ、観 […]
- 私の舞踊史Ⅰ
舞踊教育法研究家 柴﨑政夫 まもなく71才となる私ですが、舞踊歴に至るまでの紆余曲折を少し長くなりますが、述べます。理由は、日本における舞踊発展の歴史上、今日の大学院卒業者や舞踊評論家は数名を除き、私以後の世代 […]