矢崎秀行
スサノヲと中上健次①
1998年8月、吉増剛造は小説家の中上健次(1946~92)の和歌山県新宮市でいとなまれた七回忌に出席して、心のこもった追悼の詩を朗読した。以下の通りである。(わかり易いように少し簡略化して、全文を掲載する。)
白いようなこの夏に彼の声がふと聞こえる気がする
中上健次さん七回忌に新宮、熊野をたずねて
吉増剛造 Yoshimasu Gozo
——道・・・・・・
不思議な道を〝あなた″はつくった
そこに、夏芙蓉が、道端に、咲いているのか、どうか.....
だが、〝甘い(「息をとめられるような....」)香り(the sweet stifling fragrance-リービ・英雄さん訳)は
確かに、していた
「冷たそうな川じゃね」〝と″〝、″〝秋幸″も、また・・・.
あきゆきもまた天上の音楽であったことを知る
荷坂峠を越えると〝おおよ″—〝あなた″の海の坂、土地となり
なんとはなしに、ハンドルを左右に振られて、眠くなってきていた
わたくしたちの
死は、わたくしたちの
死を、見詰める他者の
瞳の、深い、瞳の色の底ニ、
ふかまり、ひろがる・・・・・
と、不図(速戸?速吸ノ?ナミノトガフットヒラクカノヨウニ・・・・・)
粒焼居手居多(ツブヤイテイタ)・・・・・
速玉?
〔貴方の暴暴(あらあら)しくってsweetな心のはなの茎が揺れている―
だから・・・・・
〔貴方の耳には、常世で聞いた〝浪ノ音″が、響いていたんだね
それが残された作品の途方もない静けさ、穏かさから、よく判る
〔貴方は、奇蹟の海の子/ウラシマゴ(浦島児)だった・・・・・
だから・・・・・
〝だから・・・・・″って何なんだ、判らない・・・・・
〝からだ・・・・・″肯、そうだったのかも知れなかった
今夜が終って明朝帰るとき、浮島に逢いに行きます
そうか
〝浮島″が〝常世の浪の音″の化身なのかも知れませんね
――道・・・・・・
〝不思議な道″を、あなたは、つくった
そこに、夏芙蓉が、道端に、咲いているのか、どうか・・・・・
〝だから・・・・・″
〝甘い(「息もとまるような・・・」)香り(the sweet stifling fragrance-リービ・英雄さん)が、確かにし
ていた
有難う・・・・・・。
(1998年8月2日正午頃。紀伊、湯の川恵比寿旅館にて)
吉増剛造の詩は一般には難解と言われているけれども、この中上健次を悼んだ詩はある意味で極めてストレートだ。何よりも吉増剛造が中上健次に何を見ていたか、彼の何が大切なものと考えていたかがよく感受できる哀切な詩編となっている。
吉増は、新宮に通じる《荷坂峠》を越えると“眠くなる”という。そして中上健次に“浦島児”と呼びかける。浦島子は現世と竜宮という異界を往還し、時間の旅をした人物である。では、中上健次もその《路地》を通って時空の旅をしたということだろうか。
そしてこの詩の最後は中上に会いに《浮島》に行くつもりだという。
浮島は新宮市内、駅近くにある文字通りの水に浮いている島で、南の植物と北の植物が混生し、泥と植物が絡んでぷっかり浮いている極めて珍しい島である。中上が暮らした《路地》、春日地区にもほど近い。江戸時代後期に上田秋成(1734~1809)がこの浮島の森の中の“穴”に住む蛇に飲み込まれたと言う少女の伝説(おいの伝説)を基に『蛇性の婬』を書いたことでも有名だ。この浮島については南の海から流れてきて、熊野川を遡上して、その支流(浮島川)に入り込み現在の浮島になったという不思議な言い伝えがある。有名な“ごとびき岩”のある神倉神社の行者たちは、古くからここを聖地として崇めてきたという。一種の立ち入ってはいけない聖地・禁足地と考えられてきたことはほぼ確かなようだ。
吉増剛造は、この詩で死んだ中上健次は海坂を越えて“常世の国”に往った存在と考えていたことは明らかだろう。黄泉比良坂(よもつひらさか)を越えて行く死穢の黄泉の国ではなく常世の国である。そこは人間の生と死をともに包含する“根源的な国”根の国である。
現代日本という合理と能率が覆うこの社会で、中上健次は我々の原郷である常世に至る困難な《道》を、その文学的な営為で切り開き1992年8月12日に46歳で死んだ。そのことにこの追悼詩で吉増は深い感謝の言葉をささげている。この詩の最後の言葉は、追悼に付きものの「さようなら」ではなく、「有難う」である。負の刻印を背負った路地から続くこの“不思議な道”の傍らには《夏芙蓉》の花がゆらゆらと揺れ、どこかエロティックで甘い香りがただよっている。
スサノヲと中上健次②
現代日本を代表する小説家の中上健次には専門家によるおびただしい評論があるわけだから、門外漢の私が文学論を提示するのはおこがましい。また吉増の追悼詩は『白いようなこの夏に彼(中上健次)の声がふと聞こえる気がする』というタイトルであり、中上健次にまつわる《声》に焦点があてられている。ならばここではその声、さらには音楽ということについて少し考えてみたい。
中上健次は魅力的な歌声を持っていたと言われている。中学高校時代は合唱部で、担当の教師から東京の音楽学校への進学を勧められたほどである。もっとも両親の大反対でこれは実現はしなかった。彼の伝記によれば、中上の自宅を訪ねてきたこの教師は、両親にけんもほろろに追い払われたそうである。
学校の成績は振るわなかったようだが、文学と音楽(クラシック)に打ち込んだ高校時代を経て1965年に上京後は、モダンジャズにのめり込む。新宿のジャズ喫茶に入り浸ったこの時代のことは、エッセイ集(『路上のジャズ』『破壊せよとアイラーはいった』など)も出版されているのでよく知られている所だろう。
同時代のフォークやロックをパスしたかに見える中上が1970年代後半にのめり込んだのは、カリブ海に浮かぶ島・ジャマイカの音楽《レゲエ》だった。レゲエと言うよりもレゲエの世界的なカリスマ、ボブ・マーリー(1945~81)という方が正確かもしれない。80年代に入ると韓国のパンソリやサムルノリ(四物遊撃)、演歌の都はるみ(1948~)に熱を上げることになる。そのリズムや振動、ヴァイブレーション、何よりもそれにまつわる生の声に深く没入することになった。
《声》ということでは、中上健次があたりをはばからず“号泣”したことが2回あると伝えられている。
ひとつは、1992年7月、末期の腎臓ガンであった中上健次が東京の病院での治療を切り上げ、古里・熊野に飛行機で戻った時である。機内から熊野の森、山、新宮の街、熊野の海が見えたとき、中上健次はあたりをはばからず、号泣したという。これは文学関係者の間では有名な出来事であるようで、私は当時の自宅近く西早稲田のギャラリーで偶然知合った小説家の宮内勝典氏(1944~)から中上が死んだまさにその1992年8月にこの話を直接聞いた。夭折を望まないのに夭折した小説家が、繰り返し物語の舞台にした熊野を最後に上空から見たときに示した哀切なエピソードだ。
あと一回は、1981年5月、当時滞在していた韓国・ソウルでレゲエのボブ・マーリーが36歳でガンで死んだことを知ったときである。好きだったサッカーの怪我からメラノーマになってしまった。
中上は「ソウルの路地をウォーと声を上げて泣きながら走り抜けた」(いとうせいこう)とされる。少し伝説化されたエピソードだが、おそらく事実に違いないと私は思う。
レゲエなどに興味のない文学関係者には、単なる中上らしいエピソードのひとつに過ぎないかもしれないが、20代前半の一時期、ボブ・マーリーに傾倒し、その“声”を確かに感受したと勝手に思い込んでいた者としては、やはり心に響くものがある。
編集部より/このシリーズは全4回で、⑧までの掲載を予定しています。
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