小森俊明
新年となっても、気分が晴れなかった。昨年、自民党の岸田首相がいわゆる安保関連3文書を閣議決定したからである。日本を攻撃する可能性が高い相手国の領域を「反撃能力」という名の敵基地攻撃能力でもって攻撃する力を常時そなえることとなった点が、いちばん問題であろう。これをなしとげるために、今後5年間で防衛費を2倍にするのだという。岸田首相は、これまでの日本政府が堅持してきた専守防衛の考え方を変えるものではないのだとのべているが、それは事実にまったく反している。中国がミサイル攻撃の準備をしたところで、日本が先行して攻撃することはりっぱな先制攻撃であり、まさに戦争の火蓋を切っておとすことにほかならない。そうした、戦争の準備のために防衛費をふやすということは、国民の生命の危険を、まさにその国民が納めた税金でもって侵すことである。そもそも、自民党の岸田政権がほんとうに国民の生命を守ろうとかんがえているのであれば、防衛費をふやすのではなく、食料安全保障の担保のほうに予算を投じるはずである。産業国、主要国のなかでもっとも食料自給率が低い日本は、世界でもっとも戦争に弱い、つまり、国民の生命が戦争でおおく失われることがあらかじめきまっている国であると、断定できるのである。もちろん、自民党の岸田首相とその周辺のひとびとがそのことをわかっていないはずはない。そうであるのにもかかわらず防衛費をふやすことに前のめりになっているのは、外面的には、日米安保条約にもとづく日米の防衛協力をいっそう強化しようとするアメリカのバイデン大統領から、強力な要請があったからであることは疑いないであろう。しかし、もっと核心的なところでいえば、防衛費倍増の理由の大半を占めるとおもわれる、アメリカの兵器の言い値での大量購入による利権を、自民党のひとびとがものにするからにちがいない。
ここまでは、安保関連3文書の閣議決定によって定まった日本の戦争準備の危険性についてである。しかし、もっとも問題であるのは、この閣議決定が野党や一部の市民の反対を押し切ってなされたということである。こうした力ずくの政治は安倍政権いらいの自民党の常套手段となっている。このことに対して異をとなえる市民は一部に存在する、いや、安倍政権以前とくらべれば確実にそうした市民は増えつつある。それでは、あなたのまわりにそのような市民はどのくらいいるのであろうか?筆者の経験では、たしかに安倍政権以前とくらべればそのような友人知人はふえたのであるが、ふだんやりとりをしているひとびとぜんたいからすれば、わずかであるのが実情である。この国にはむかしから、同調圧力というものが存在する。そのことがいっそううっとうしくかんじられるようになったのは、はやくて3.11原発事故いらい、もうすこしおそくて安倍政権樹立いらいではないだろうか。そして、コロナ禍の時代にはいってからは、かなりはっきりとかんじられるようになったといわざるを得ない。政府の意向と関係なく、市民のあいだでかってにおこなわれる同調圧力と政治の間の、のっぴきならない関係というものを、ここで少々かんがえてみる。そもそもこの国ではむかしから、政治と宗教のはなしをすることはタブーとされている、といわれてきた。そして、ただそういわれているのみならず、じっさいにそうである。筆者のかんがえでは、政治のはなしのなかでとりわけしてはならないのが、政権批判にかんすることである。すくなからぬ識者が、安倍首相を憲政史上もっとも民主主義を骨抜きにした人物であると評している。さきほどのべた強行的な閣議決定は岸田政権以前の安倍政権にとっても常套手段であったが、これなど自民党の議員の数と力で無理やりとおす点で、まさしく民主主義の破壊にほかならない。そんな政治の危機をまのあたりにしながら、安倍首相/政権、あるいは、岸田首相/政権について市民が批判をくわえることが危険なことである、とする風潮が、ただでさえもともとこの国に存在していなかった民主主義がさらにみる影もなくなっていくなかで、逆説的にも強まっていることに、筆者は危機感をおぼえる。くりかえしのべるが、民主主義を無視する政治的愚行に対して異をとなえる市民は以前よりも増えはしたものの、わずかな存在でしかないのだ。
ところで筆者は先月こちらのコーナーに書いたように、音楽家である。つまり、あたりまえのことであるが芸術家である。芸術家は表現者である以上、社会や政治がかかえる問題点について、すべからく意思表明をすべき存在である、とかねてからかんがえている。もういちど問うが、あなたのまわりには、民主主義を無視する政府、3.11を経験してもなお原発を推進することを決定した政府、ロシアによるウクライナ攻撃にいきおいを得て戦争準備に邁進する政府に対して、異をとなえるひとはどのくらいいるのであろうか?あなたが芸術家であれば、あなたのまわりにはおなじように芸術家がおおいであろう。あなたのまわりの芸術家で、政府のもろもろのやりかたに対して異をとなえるひとはどのくらいいるのであろうか?筆者の経験では、芸術家には、自民党や安倍政権、岸田政権を支持するひとはきわめてすくない。これらを支持するひとびとには、なにかしらの理由があるにちがいない。筆者のみたてによれば、そこにはかならずしも政治的理由があるわけではなく、もっとパーソナルな領域における、ある種の感情的屈折が理由となっているようにおもわれる。しかし、本稿においてはそんなことはどうでもよい。問題は、自民党や安倍政権、岸田政権を支持していない、もしくは、これらに対して異義があるのにもかかわらず政治的沈黙をたもつ芸術家、あまつさえ、社会的名声を得るために意に反して政権批判をさけ、自民党政権に対してはもとより、それらとかかわりのある、あるいは、それらと相似性をもった権力の集合体に対して、媚びを売る芸術家の存在である。とりわけ筆者は、後者のひとびととは友人となることができないことを告白する。しかし、彼ら/彼女らのいいぶんにも一理はあるのかもしれない、などともかんがえてみる。彼ら/彼女らが、ヨーロッパ諸国やアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、台湾、韓国といった先進民主主義のくにぐににくらしていれば、政権や権力の集合体に対していわゆる「忖度」をしなかったかもしれない。電通という自民党の下請け企業が、TVコマーシャルのスポンサー采配の力を一手にになっているがために、まともな政権批判もできないジャーナリズムが跋扈するこの国である。彼ら/彼女らは、筆者がかんがえる以上に、政権に対しておびえているのかもしれない。この国では、コレクトネスを主張することはおとなげないといわれる。その伝でいえば、筆者はこどもであり、青い存在ということになろう。しかし、他人による、知ったふうな人物判定などはどうでもよい、筆者にとっては、一度きりの人生をいつわりなく送るということは重要なことであり、そして同時に、この国の社会と政治がほんとうによくなることをねがってやまないからである。
さて、これまでにくどくどとのべてきたことなど、わかりきったことがほとんどだとおっしゃる読者もおられるかもしれない。実際、筆者はおなじようなことをこれまでもくりかえしのべ、書いてきた。しかし、おなじことをなんども書くことにより、問題を可視化しつづけることが重要であるとかんがえている。このかんがえかたは、3.11原発事故いらい、まったく変わることがないのである。
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〈編集部より〉今回の小森様の原稿は、平仮名を多用したユニークな表記になっております。
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