マミのA4一枚、こころのデトックス(6)

矢野マミ

 

16.#不死鳥の如く 

 「神宮球場」がなくなるかもしれない、と聞いて慌てて行ってきた。そこは聖地だったから。

村上春樹が小説執筆を決めた伝説の球場、神宮球場。このエピソードは村上氏本人も書いているし、他の人もよく引用しているので、ザックリ書く。

 ある日、神宮球場の外野の芝生に寝ころびながらビール片手に野球観戦していたら、助っ人の外国人選手がホームランを打ったタイミングで「そうだ!小説を書こう!」と思い立ち帰りに万年筆を買って帰り、書き出した小説「風の歌を聴け」でデビューに至った、というものだ。

 「小説を書く」にあたって何かケミストリーが起こるか、まずは神宮球場に行ってみようと思った。

 

 「外野がいいな、芝生のところが」夫に話すと、「……何言ってるの? 神宮に芝生なんて、ないよ!」

 「や、神宮は芝生席あるんだって! 村上春樹が言ってるから。ブルーシート持って行くから転がってビール飲も。おごるよ」「それ、いつの話? オレと、村上春樹とどっちを信じるわけ?」「もちろん、村上春樹でしょ」とマンガのようなやり取りがあり、結局はネットで調べて納得した。

 

 神宮球場に「もう芝生はない」少し悲しかった。外野席が「芝生」だったのは、1978年までだったのか……。残念!(←それっくらい、普段は野球に興味がありません……)

 

 いくつか誤算があった。まず、外野が芝生ではなかった。ビールも売っていなかった。

 そして最大の誤算は……、観に行ったのは東京六大学野球。日程の都合で東京大学と法政大学の試合。「頭の中が芝生」なのに、なぜか東大の応援席。判官びいきなのだ。攻撃の時だけでなく、守備の時も座って紙製のメガホンを叩きながら応援する。ぼーっと空から何かメッセージが降りてくるのを待つ暇もなかった。

 ケミストリーがあったとすれば、あの「お~」しか歌詞のない応援歌に「不死鳥の如く」という立派な曲名があり、この「まどか通信フェニックス」とシンクロニシティを感じて、予定を変更して2日目も(!)球場に通ったことだ。

 

 日曜日は文学フリマか、日暮里の繊維商店街を冷やかしに行こうと考えていたのだが、今シーズン「勝ち」のないこのチームが万が一(?)、春季リーグの最終戦に勝つようなことがあれば、NEWSになる。見逃したくない!と考えて2日目も観戦することにした。

 

 残念ながら日曜日も「2-0」で敗戦となったのだが、土曜日の「11-0」に比べれば、濃厚なチャンスもあったし、運が良ければ「点数が入るかもしれない」と思うようなドキドキする場面が何度もあった。そして「スタンプカードは秋のリーグ戦にも使えますよ」と手渡されてしまったので、フェニックス連載陣としては「勝つところを見るまで」球場に通わなければならない気がしてきた。

 何だか違う意味で「別のスイッチ」が入ってしまったようだ。「神宮球場」、恐るべし。

できれば小説家スイッチが入るよう芝生に戻してほしいものだ。

 

*本稿執筆のために村上春樹の「職業としての小説家」を読み返したら「ヒルトンの2塁打」でした。

 

 

17. 父の恋文

 向田邦子さんに「父の詫び状」というエッセイ集がある。タイトルをちょっとマネして亡き父の思い出を綴る。

 

 昭和8年生まれの父は、生きていたら現在卒寿を迎えた頃であろうか、還暦を待たずに鬼籍に入ったのでイマドキとしては若死にの部類に入るだろう。二度目の心筋梗塞であっけなく逝った。前日まで普通に過ごし、明け方に大きく一つ咳き込んで救急車で搬送された。

 一人暮らしを始めたばかりの私が連絡を受けて駆けつけた時には、もう病院の地下の霊安室であった。顔にはドラマで見たように白布がかけられていた。

 

 朝型の受験生だった頃、朝6時を過ぎると階下から豆を挽くゴリゴリという音と挽き立てのブルーマウンテンの良い香りが2階の部屋まで流れて来た。父は毎朝、豆を挽いて自分で珈琲を入れて飲み、わたしにも一杯入れてくれた。出来上がった珈琲をカップに入れてくれるが、「どうぞ」の一言もない。典型的な昭和ひとケタ。健さんと暮らしているような緊張感があった。(注:高倉健)

 

 東京に住んでいた若い頃は、新橋から銀座へと会社の人たちと飲み歩き、社交ダンスを楽しみ、デビューしたての木の実ナナがお店にやって来た時には一緒に踊ったことがある、という伝説もある。父の遺品には「枯葉」のイブ・モンタンを始めとするシャンソンのレコードがたくさんあるが、未だに聞いたことがない。田舎に引っ越してからは、日曜の午後にステレオでベートーヴェンの「田園」か、ビートルズを聞いた。B面の「Hey Jude」で、私たち子どもはなぜか笑い転げて、Na-Na-Na-Naのリフレインを大声で一緒に歌って父の感傷を台無しにした。

 

 友人たちと登山や山スキーを楽しんでいた父は、冬になると子どもたちを毎週のようにスキーに連れて行った。混雑した食堂を抜け出して、真っ青に晴れた空の下でカレーライスを食べたことは忘れられない思い出のひとつだ。夏には河原でBBQを楽しみ、家族でテントのキャンプもした。

 父は田舎では友人を作らなかった。縁日で「都忘れ」を買い、借家に小さな庭を作って植えた。

 

 東京には、小学校に入る前に家族で一度だけ行った。はとバスに乗ったり、箱根の温泉にも寄ったりしたらしい。写真の私は緊張した面持ちである。

 父は亡くなるほぼ半年前の八月に、急に思い立ち、母を誘って夜行列車で東京に出かけたそうだ。お盆の混雑で別々の列車しか予約できなかったのに、それでも無理して出かけたそうだ。「はとバス」の乗車記念の写真が残っていて、母は大きな夏の帽子をかぶっている。

 

 「何か想うところがあったのかしら? 」後年、母が言っていた。その母も、もうこの世にいない。

 

 母の亡くなった後で、桐箪笥の奥から父が母に宛てて書いた手紙が十数通、小風呂敷に包まれて出て来た。手紙の中の父は饒舌で明るく、七つ年下の母のことを優しく気遣っていた。

 二人にも楽しい新婚時代があったのだな、とほっとした次第である。

 

 

18. ユーミン50周年記念コンサート

 ユーミンの50周年記念コンサートに行って来た。冒頭はジンと来る曲で、自然と涙が頬を伝い、気持ちが浄化リセットされたように感じました。コンサート全体を通して「船旅」がテーマになっていて、エンターテイメント精神に満ちあふれた楽しいものでした。

 ツアーグッズに「小瓶キーホルダー」があり、「星砂入り小瓶」に夢中になっていた小学生のように思わず購入してしまいました。もちろん荒井由実時代の名曲『瞳を閉じて』にちなんだものでしょう。

 

 「風がやんだら 沖まで船を出そう

  手紙を入れた ガラスびんをもって

  遠いところに行った友達に

  潮騒の音がもう一度届くように

  今 海に流そう」

 

 歌詞では「友達」となっているが、わたしには離れ離れになった恋人たちがガラスびんに手紙を入れてお互いの安否を気遣うイメージ。1980年代に活躍されていた漫画家「清原なつの」さんの作品の中のセリフ「たとえ『瓶詰の恋』でもあなたとなら……」というのが、ふっと浮かんできた。(こちらはもしかしたら夢野久作の『瓶詰の恋』が元ネタなのかもしれませんが……)

 

 清原なつのさんは金沢大学薬学部のご出身。もう一人、薬学部出身の作家さんがいて「霧の向こうのふしぎな町」の柏葉幸子さん。「霧の向こうの不思議な町」は映画「千と千尋の神隠し」の下地になった作品とも言われていて、こちらは小学生の頃に読んだ大好きな作品だ。

 

 「海は水を選ばず。故にその深さを増す」と習ったのは、中退した専門学校で。

50周年記念コンサートのおかげで、ユーミンと一緒に50年を一気にタイムトリップしたような気分になった。波に乗った小瓶のように思考はどんどん流れていく。大学生、高校生、中学生、小学生、深い記憶の底から思い出はやってくる。夢でもないのに、様々な時代の断片がユーミンの歌によって引き出されてくる。ユーミンは、私にとってのタイムマシンだ。

 

 最近、ちょっと仕事でヘビーなことが続いていたけど、ユーミンは50年間も歌って、働いてきたんだね。わたしも50年、働けるかな? 頑張って働いてみようかな? と力強い気持ちになれた。

 いつも遠くにいるけど憧れの素敵なお姉さん、という感じでした。ありがとうございます。

 そして、これからもよろしくお願いします。明日から頑張る勇気の湧いてくるコンサートでした。

 50周年記念コンサートはまだまだ続くし、今夏は府中競馬場で花火大会もあるそう! 楽しみです。

 

 ユーミンが100歳になったら! 小さなサロンコンサートを開いてほしいな。ピアノひとつで、囁くように小さな声でそっと歌ってほしい。ホログラムで一人一人の面前に現れるような。

 瞳を閉じれば、私たち、あの頃に戻れるでしょう?

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