北條立記
時が経てば忘れて消えてしまうかもしれない、人の思考や感覚を、永く残すのが言葉とそれを記した書物である。
ヘルマン・ヘッセは、絵画とは、一瞬で消えてしまう人の表情を永遠に残すものである、と言っているが、言葉も「思考」に対して同じ役割を持っている。
思考や感覚の中で、これは切り取って永く残す意味があると思うものを、言葉にして記録して、読んでもらえるようにする。
ただし、すべての頭に浮かんだ思考や感覚を記録する必要はないかもしれない。このことはどうだろうか?
思考や感覚は、そのまま流れ去ってよいものと記録すべきものとに分けていいのか? メモ書きとしてとりあえず記録することも十分に意味がある。
あまり二分法で、記録すべき事柄と記録する必要がない事柄とを分けて、後者を通り一遍に低く見るようなことはしたくない。でもその2つを分けて一度考えることに、全く意味がないわけでもない。
1 論じようとしていること
思考や感覚は、ふと浮かぶこともあれば、考え出そうとしても浮かばない場合、考えようとしたら浮かべられる場合などがある。
まず、ふと浮かんだものについて、それをどの程度記録する必要があるのかないのかについて考えたい。
その後、考えだそうとしても浮かばないという「もどかしい状態」を、考えれば浮かぶ状態にどうすれば変えられるのかについて考えたい。
このように思考や感覚の浮かび方、浮かばせ方、について考えた後、浮かんだ思考や感覚をどう言葉で言い表すかということについて考えていく。
2 ふと浮かんだものをどう扱うか
2.1 流れ去ってもよいもの
ふと浮かんだ思考や感覚には、記録しておいた方がよいものと、そのまま流れ去らせてよいものがあると思う。
流れ去らせてもよい思考や感覚があるとして、それはどういうものか。
それは過去にすでに自分の頭に思い浮かんで記録したことがあるものだろう。
ただし注意なのは、あくまで「自分の頭の中に浮かんだ経験があるかどうか」である。人が違えば、「頭に浮かべたことがあるもの」は異なる。だから、ある人にとって「すでに浮かべて記録したことがあるもの」であるからといって、それが他人も同じものが浮かんだ時に「それを記録する必要はない」とその他人に説いて記録をやめさせるのも、違うことと思う。
また、同じ人の中でも、何度も浮かぶ思考や感覚は、その人にとって大事なものであるだろう。だから、その思考や感覚を「重複しているから今後二度と浮かべてはいけない」という話でもない。
あくまで「新しく記録する必要があるかどうか」という点で、流れ去らせてよいかどうかということである。
2.2 記録すべきもの
記録が必要なものついて考えると、それは放っておいても現れず、捻り出そうとしないと出てこないものが該当すると思う。なぜなら、
そういう、言葉にして記録する意味がある思考や感覚は、どのようにして捻り出せるのか?
それらを生み出す方法は、あくまで捻り出そうと悩み続け、その中で捻り出せたり、あるいはそのように悩み続ける中で、思考を止めて思考を宙に浮かせているふとした時に、直観として思い浮かばせられたりすることがある。
直観として、思い浮かばせる時も、あくまで悩み続けることをしている中でだろう。
2.3 悩むことと直観を得ること
(略)
3 思考を浮かばせるには
ここまでは、自然と浮かんでくる思考、および考えることで浮かんでくる思考の話だが、ものを考えることにおいては、考え出そうとしても思い浮かばないもどかしいことが多々ある。
(以下略)
4 思考や感覚の描写
4.1 言い表す言葉について
ここまでは、頭にどう思考を浮かばせるかということについてだが、今度は頭に浮かんだ思考や感覚を言葉に置き換える段階のことについて考えたい。
言葉に置き換えて言葉で記録すると言っても、思考や感覚についての言葉での描写が正確でないと、記録は正確なものにならないはずである。
正確な描写はどうやって生み出せるのだろうか? もわもわと頭の中に現れた感覚がある。それが自分にとって新しい感覚だったり、何らかの重要なものだったりするとき、それに対し自分の意識が引き付けられ、自分の注意がそれに少し固定される。
その時、ぱっと言い表す言葉が浮かぶこともあれば、時間かけて頭の中で感じないと言い表す言葉が浮かばないこともあれば、言葉を浮かべられないこと、何となく言葉を浮かべるがそれが完全にマッチしていないと感じること、また、言い表す言葉を思い浮かべてもそれが実際は的確でないこと、時間経ってから別の言葉が思いつくこと、自分ではなく他人が代わりにいい言葉で言い表してくれること、などいろいろである。
こういう我々の一筋縄では行かない頭の中の現象がある。
だから、どうすれば的確な言い表す言葉を自分で思いつけるのかを考えてみたい。
4.2 思考や感覚の観察の深さ
(略)
(未完)
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