矢野マミ
30.義母が死んだ。
91歳で亡くなった義母は間違いなく老衰だし天命だし、大往生だったと思う。
しかし亡くなったのが、ちょうど義兄が我が夫に電話をかけて来た次の日だったことで、ついつい余計なことを考えることになった。
電話の内容は、「義母の体調がここ数日急激に悪化し、トイレも夫婦二人がかりで連れて行っている。それでも途中で漏らしてしまって、もう家に置いておくのは限界だ。年が明けたら、どこか施設を探すから、オマエ(我が夫)も説得するのを手伝ってくれ」
というものだった。
おそらく、彼女(義母)が寝ている時を見計らって電話をかけているとは思うのだが、まさにその次の朝、彼女(義母)は目覚めず、昇天してしまったのだった。
死が近づいてくると「眠っている時に意識が抜け出して彷徨いだす」というのが私の仮説だ。息子夫婦に迷惑がられていることを知って悲しんだ義母は、次の朝、目覚めることを永遠に辞めたのではないだろうか。
義母も、母も、叔母も、笑顔がなくなっていった時期には共通事項がある。紙オムツを使用するようになったことだ。
「オムツしてるんよ」
母はそう言って、私の同情を買おうとした。
「だから? だから何? 頭はしっかりしているでしょう? 言わなければわからないでしょう? 自分のできることは自分でしなさいよ」
離れて暮らす娘である私は冷たかったもしれない。
月に一度、美容院に一緒に行って髪を染めることを彼女は楽しみにしていたようだけど、
「もう年だから、染めなくてもいいんじゃない? お金と時間がもったいない」
と私は思っていた。彼女がオムツ、というところの給水パッドを私に買いにやらせることも忌々しく思っていた。
老人ホームに暮らす叔母はもっと悲惨だ。自立した生活を送っていたのにベッドから落ちて骨折し車いす生活になり、オムツになった。そして笑顔が消えた。
長生きして、オムツになって、笑顔が消えていくのを見るのは、切ないものがある。
私はどんなお婆さんになって行くのだろうか。笑顔の消えた3人の姿を反面教師に、せっせと骨盤ヨガに通い、職場ではエレベーターの代わりに階段を使い、ささやかながらトレーニングに励んでいる。
正月早々、暗い話題ですみません。しかし、人生後半戦、優雅に暮らすためにはお金、経済的自立だけでなく健康、排せつの自立は欠かせないものだと身に染みてわかったのだ。
31.バスの中の三賢人
冬休みにプチ観光に出かけた。移動には駅から定期バスを利用した。バスの中で大学教授と思われる三人の身なりの良い男性が話していた。周囲にたくさん人がいるのに無防備にも最近の学生とその保護者に対する愚痴であった。
一番年上と思われるマフラーの紳士が、若手に質問していた。
「最近の、あのああいうタイプって、困るよね。どうしてる?」
「ああいうタイプですか?」
「親が出てきちゃってさー。『卒業できるんですか?』って。責められても困るんだよね」
「はぁ、良くありますね」
「『どんな指導をされていたんですか?』って、答えようがないよねー」
もう一人の黒い革ジャンを着た筋肉質の男もうなづく。
ワクワクしてきた。私は、大学に電話した親の一人だったから。
子どもは一年留年して、二回目の四年生だった。卒論が書けなくて留年したのだ。クリスマスまでは順調さをアピールして「今年は卒論だけだから」とか、「あと、データまとめるだけだから」とか、調子のいい事を言っていたのが、正月を過ぎて五日になったら、「今、五行目」だという。
さすがにヤバい、と思った。パニックを起こしたかのように大学に電話したが土曜日で誰も出ない。最終的に警備員室につながり、「今日は休みだから月曜日に電話してください」ということになった。
月曜日には学生相談室に電話した。子どもの名前と学籍番号と、子どもから聞いていた教授の名前を伝えて事情を話した。相談室を通して教授に様子を聴いてもらい、相談室からメールで返事が来た。
曰く、「卒論要旨発表会ではちゃんとやっていたので大丈夫でしょう」とのことだった。
「でも、五行ですよ、五行。今年も書けなかったらどうするんですか?」と食い下がった。
また、返事が来て、「研究室で書いてもらうことになりました」とのことだった。
子どもには、大学に電話したことは言ってない。
「卒論どう?」と聞くと、「先生が研究室に泊まっていいと言ったー」と嬉しそうで「寝袋持っていくわ」と嬉々としていた。
相談室のおかげで卒業できました。その節はありがとうございました。私が大学に電話したことを子どもは知らない。
バスの中の紳士に「あの、私も大学に電話した親なんですけどね?」と話しかけようかと思ったけど、立ち聞きしていたみたいで行儀悪いからやめた。
まあ、公共の場で大きな声で話していたから、他の乗客にも聞こえていたと思う。そんな不用心なことしているから親も心配になるのです。
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