西之森涼子
区役所を出ると私は早速近くのカフェに寄り、封筒を開けた。
今年に入って就職し、たった4か月で辞めた司法書士事務所にて得た唯一の手柄は戸籍を読めるようになったことだけである。
旧漢字だらけの他人の戸籍を来る日も来る日も眺めては相続手続き書類を整える仕事にうんざりして退職したのだが、そうしているうちに自分の戸籍も取ってみようと思い立ったのだ。
母方の祖父母はともに再婚同志であり、その大まかな事情は96歳まで生きた祖母本人と今も健在の母からよく聞かされていた。
しかし、私が1歳になる直前に亡くなった祖父の記憶は全くない。
祖父は初孫の私をそれは可愛がり、背中に負ぶってどこまでも歩いては上機嫌だったそうである。
ともに再婚同志だった母方の祖父母からまず調べてみようと思ったのは、この祖父のことを知りたかったことが大きい。
職人を取りまとめることを生業としていた祖父は、明治生まれにしては背が高かったそうだ。
また母言わく「お酒が強くて飲むと明るく、娘を一度も怒ったことのないそれは優しい父親だった。歌も踊りも上手かった。頭が良かった。」と父親をべた褒めである。
長生きした祖母は「いい男だった(美男だった)。でも気が短いところがあって大切な茶碗を割ってしまったら箸を折って怒った。」というが、これも母にいわせると
「お母さんが悪い。我儘で気が強いから、お父さんだってたまには怒るのよ。」と一方的に祖父の味方である。
良い父親だった祖父はなぜ明治時代にしては珍しい離婚をしたのだろうか。
別れた女性はどのような女性だったのだろうか。
戸籍だけではわからないだろうが、私は知ることができる限りこの古い戸籍から何かを読み取ろうとしていた。
そして知ったのは、明治、大正という時代の庶民の生活である。知ったというのはおこがましいが、この時代の小説をかなり読んだ私が想像の範囲の中で得た残酷な事実である。
祖父は、二人の子供を失くしていた。しかも二人とも1歳に満たないで亡くなっているのである。
母を一度も怒ることなく大切に育てた祖父、色が黒くて器量も悪い赤ん坊の私をこの上なく可愛がった祖父。
子どもに対する愛情がことのほか強い祖父が、自分の子供を二人続けて失くした絶望は計り知れない。
二人目の子供が亡くなった3か月後に、妻と協議離婚していた。
その女性は、祖父より少し年上だった。
その女性が悪いわけではないだろう。しかしあまりにも短い期間で二人の子を失い、若かった二人は別れることになったのだろう。
この時代の日本はまだ発展していない国で乳児死亡率が大変高かったのである。
貧しさもあったに違いない。子供は栄養不足だったのかもしれない。
会ったこともない百年以上昔の出来事の中の女性が私は不憫だった。
もしこの女性との結婚生活が順調なら、私も母もこの世にはいなかったのである。
それから3年ほどして祖父は祖母と再婚している。
明るいが我儘で気が強い祖母も、大正初期に猛威を振るったスペイン風邪で夫と2歳の娘を失くして失意の中で実家に戻っていた。
お互い可愛いわが子を失くした者同士だったのである。
祖父と祖母は結婚してなかなか子供に恵まれなかったが、十数年後に母を授かる。
母は祖父に似て背が高く、面長で切れ長の目をしていた。
裁縫が得意で身体を動かすのは苦手な祖母に似ず、針仕事は大嫌いな代わりに祖父に似て運動神経が良かった。
祖父は母が生まれたときに誰かから
「男の子だったらなお良かったのにねえ。」と言われたときに
「うちはどちらでもいいんです。男だろうと女だろうと嬉しいんです。」と答えたそうだ。
さて私は、祖母に似ず裁縫が苦手、そして祖父に似ず運動が大の苦手である。
どこかが似ているはずだと探してみると、顔が細面で目が切れ長なのは祖父の血筋なのだろうかと気が付いた。
6月は祖父の命日があり、祖父が植えた紫陽花が家族を慈しむかのように実家の庭に見事な水色の花を咲かせているだろう。
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