マウス賛江

山田浩貴

プロンプト執筆:山田浩貴、画像作成:DALL·E by ChatGPT   

マウスについて語ることは、人間の可能性について語ることにほかならない。

(マウスとはコンピューターを操作する際つかうもの。「口」ではない)

以前、私の人生はカオス(混沌)だった。それが長い間つづいた。何かつくってみたかった。何をどのようにつくればいいか、わからなかった。

人類の歴史において、エポックメイキング(画期的)な出来事というと、火や文字、電気などを手に入れたことである。最近ではインターネットもある。

人類はマウスを手に入れた。私にとっては、マウスがエポックメイキングな出来事となった。

落合陽一氏はあるTV番組の中で、マウスについてこのように論じていた。「マウスでクリックするのは手でアートをつくるのと同じ手仕事。マウスは手の延長である」。

まさに的を射た発言である。

私も「手の延長としてのマウス」の恩恵に浴している者のひとりである。手というものは器用/不器用といった「能力」に左右されやすい。というよりも、手をどう使うかで、器用/不器用が決まるといっていい。一方、何か創作するとき、マウスを操作することは、手ほど「能力」に影響されない。

「マウス」はコンピューターの持つ可能性の象徴でもある。

「手の延長としてのマウス」は、私自身の可能性を広げてきた。CGや音楽をつくってきた。そして、そうした創造の果実を媒介として、人間関係も広がった。なぜなら、創造物はコミュニケーションツールであるから。

混沌からの脱出はひとつのマウスからだった。

陶芸家が轆轤(ろくろ)を回すように、私はきょうもマウスをあやつっている。