矢野マミ
32.泣いた赤鬼
子どもの頃、銭湯に通っていた。もう何十年も前の話になる。昔の話だ。何十年も前の話を覚えていて、こうやって書くことができるなんて、孫はまだいないけれど本当にもう「おばあさん」の入り口に来ているのだなあ!と感慨深さを覚える。
銭湯は、当時住んでいた家から歩いて10分くらいのところにあった。家は借家だった。借家とか大家さんとか本家とか分家とか、学校では習わない単語を子どもなりに段々覚えて行った。
銭湯に行くときは、洗面器にお風呂道具や着替えを挟んだバスタオルを乗せて、風呂敷で包んで持っていく。ボディシャンプーなんてハイカラなものは存在せず、身体を洗うのはセルロイドの石鹼箱に入った白い石鹸だった。小さくなると新しい石鹸を乗せてくっつけて最後まで使い切っていた。
銭湯の入り口の引き戸は開け放されていて大きな紺色ののれんがかかっていた。のれんをくぐると、下足箱が両側に並び、正面に引き戸が二つあった。右側が男湯、左側が女湯だった。引き戸を開けると男湯と女湯を隔てるように番台があり、お金を払った。磨き上げられてつやつやと黒光りする番台の上に、カチリ、と握りしめた小銭を置いた。たいていは顔色の悪い苦虫を嚙みつぶしたような愛想の悪いおじさんが座っていた。小太りの奥さんの時もあった。番台の前の男湯と女湯を隔てる壁にはこれも良く磨き上げられた木製のスイングドアがあって、反対側に行く番台のおじさんや、子どもたちが通ることができた。小学校に入学するくらいまでの子どもは男湯と女湯のどちらにも入れた。
一度、同じクラスの男の子が女湯に入っていて、嫌だな、と思った。一年生か、二年生だったろう。子どもたちは自然と男女に別れて行った。
私はいつも女湯に入っていたが、たまに入る男湯には珍しい生き物がいる時もあった。
鬼である。
熱いお湯につかって、真っ赤に茹で上げられた大きな背中の赤鬼。
そして、青鬼! 青鬼は細くて引き締まった背中をしている。二人とも頭の角は隠しているが、背中の色は隠していない。人間に交じってお風呂に入っていた。青鬼の背中には美しい青い波しぶきに桃色の花が描かれてあった。
「今日、男湯に赤鬼と、青鬼がいたよね!」
小学校の道徳の時間に「泣いた赤鬼」の話を習ったから、私は得意そうに両親に言ってみた。
二人ともヘンな顔をしていた。
「ひとのことは言わないの」
常識人ぶって答える母と、何も答えず黙っている父。
だんだんわかって来る。青鬼は若い頃にヤンチャしてうっかり彫り物をしてしまった畳屋のお爺さんだとか、赤鬼は海で日焼けしたただの太った人だとか。智慧が着いて来る。にんげんになって行く。
銭湯に本当に青鬼はいたのか?
映画のポスターやTVが夢に出て来たのか? 今となってはもう夢か現実かもわからないのだった。
33.ありがとう、またいつか!
まどか通信「フェニックス」が最終号を迎えることを本当に残念に思います。
思えば、「書くことが好き!」と言う私の言葉に、「さあ、どうぞ」と発表の場をいただいたことで、つたないエッセイや作家修行中の小説などをたくさんの皆様に読んでいただくことができました。貴重な機会を与えてくださいました「まどか研究所」及び、運営を担当された編集部の皆様に改めて感謝申し上げます。
自分ひとりで個人のブログなどに発表するよりは、よほど多くの方の目に留まったことと思います。まずはいつも原稿を送信すると、「今回はコレが良かったから最初にもって来ましょう」とか「○○の部分を良く書きましたね」などと主宰の広美さんから送られてくるコメントが楽しみでした。短い間でしたが、本当にありがとうございました。
また、他の執筆者の皆様の原稿を読むこと、特にプロのライターの野原広子さんの原稿を読むのがいつも楽しみでした。野原さんのお名前は「フェニックス」で初めて知り、それから「女性セブン」の連載「いつもこころにさざ波を」も追いかけるようになりました。
ここに掲載しつつプロの小説家を目指す、という当初の目論見は外れてしまいましたが、また別の場所で何やかやと書きつづけて行きたいと考えています。矢野マミとしての活動も続けますが、新しいペンネームも考えました。新しいことを始めるのはいつも楽しいですね!
ゲシュタルトとは統合すること、新しいペンネームを作ることは分裂していくことではないか、と広美様からは言われていますが、こちらに書くことでちょっとした達成感や満足感を得られましたし、仮面を被り、また別の人格になることで救われることもあると思うのです。
「書くこと」は確実に精神を変容させます。だから私は救いのある話、救われる話、人々の救済につながる話、心が温かくなる話、読んで癒される話、心が楽しくなる話、読み終わったら勇気をもらえる話、人生が好転するような話、新しいことを始めたくなる話、思わず誰かに話したくなる面白い話、などをこれからも書き続けていきます。
皆様もどうか一度ペンを取って、あるいはキーボードに向ってみてください。10分間何も考えずに書き続けたら、自分の中から予想もしていなかった面白いものが出て来ることがあります。後から読んでみて、これ、本当に私が書いたの? と思うことも多々あります。ですから、その場の勢いで書いたものは一旦セーブして次の日に送信するようにしています。こちらは自由な媒体でしたし、仕事ではないので伸び伸びと文章修行ができました。
毎回読んでいただいた皆様にも感謝申し上げてこの場を終わります。本当にありがとうございました。またお目にかかれる日を楽しみにしています。
では、再見!