田中 聡
〈9〉盲目概念の視覚的意味
今回は前回の(四)の最後で述べた「視点」と「否定性」の概念を考慮しつつ、その否定性が同じく前回に提起された無限判断の判断としての成立にどう関わるかまでは無理としても、こうした文脈での「無限性」の成立まで出来れば考察したい。(註〈1〉)
そうした中で、必然性の「否定」あるいは「欠如態」ではない偶然性はあり得るのか?そしてそこに「無限性」はどう接地するか、を模索したい。(註〈2〉)
それは、(本連載の前々回の私自身の文章を引用しつつ述べさせて頂けば)「すべての対象」が身体に「触れ」、入ってくる事に対する反応系としての免疫系ではなく、我々の「身体」の先見性のない細胞群をまずは作り出し、それらの「閉鎖的」な全一性を保証する事で、その性質・種類において「無限」の可能性を有する外敵に対応し、すべての外的な対象を「規定」する事を成し遂げる、あるいは自己を知り、自己のイディオタイプと反応する事によって、結果的に外部の「すべての対象を規定」する、即ち「反応」するのではなく「規定」する、そうしたことを、「必然的」な自然法則から「偶然性」が生じる中で行う免疫系の分析の根幹に関わる問題である。
視覚でも触覚でもない「規定性」を、カントはどのような「意味」の文脈において捉えようとしていたのだろうか?
ところでカント(少なくとも批判期のカント)は、「盲目」という言葉(あるいは概念)に、どのような視覚的「意味」とその否定を込めたのだろうか?
カントにおいての「能動と受動」へのスタンスの或る部分は、「内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。」(純粋理性批判{=ドイツ語で Kritik der reinen Vernunft であり、それを踏まえて、以下ではKrVと略して記述する}B75)という言明のもとに表出されている。「盲目」という概念を通じて「能動/受動」が考えられているのである。(註〈3〉)
さてそれでは、これからKrVの「理想」章での汎通的規定性を取り上げつつ、「親和性が証明される」と述べられる箇所を以下で示すことにする。
この箇所では、「規定可能性の原則」というタイトルが提示された上で、〈汎通的規定性 〉の原則が示され、「規定」ということが大きなテーマとなっている。これは上述の、免疫系での「すべての対象を規定」することの位相を見極めることに通じるものである。
更に言えば、この箇所には言うなれば親和的な「関係」が証明されるという意図が込められている。そして「受動」の性質も込められている。否、それに留まらず、受動的であり、かつ能動的な何かが、その「証明」にはある。少なくとも私は、そのような仮説を立てているのだ。
更にカントにおいては「関係」のカテゴリーには相互性の関係があり、その親和性の証明の箇所には、そうした関係が含まれる。
このカテゴリーのもとである判断の「関係」の三つの内の選言的判断について、カントは以下のような一つの命題を挙げている。
「世界は盲目的偶然によって存在するのか、それとも内的必然性によって存在するのか、それとも外的原因によって存在するのかという選言的判断がある。」(KrV B99)(註〈4))
ここには「盲目」という形で「視覚」と思椎、そしてすぐ後に触れる「思考」との関係が含まれている。そうしたことを以下では考えていこう。
その方針として、以下の諸事項を採用する。
カントが、KrVの第三章「純粋理性の理想」において述べる「親和性が証明される」ということがどういうことかを、カントに内在する相互作用と視覚への考え方から浮き彫りにする。しかも、その証明される、ということをカントが「否定的」ニュアンスで述べていることに着目し、カントの中でそうした「否定」と相互作用、及び視覚がどのような関係にあったかを考慮に入れつつ、そのカントの言明に込められた意図を浮き上がらせることとする。
そうした探求で浮き上がって来た問題について、今回ではないが、いずれは空間の無限分割性を前提にしつつ、「瞬間」と内包との関わりにおいて解明する。
そしてこの解明で得られた「視点」を、「盲目的偶然」の内的/外的「視点」から視られるべきことと共に、「外」からの立方体への考察へと結び、そのことから派生する「視覚と相互作用」について考察する。
それでは以上のような問いを起こしつつ、以下に上述で表明したが如く、カントKrVの「理想論」の該当のB599〜B601で私が以前より注目する部分のテキストを以下の『』の中に引用・提示する。(註〈5〉)
『規定可能性の原則
おのおのの概念は 、その概念自身のうちに含まれていないものについては規定されていないのであり 、規定可能性という原則にしたがうことになる 。この規定可能性の原則とは 、矛盾対当の関係にあるあらゆる二つの述語について 、その一つだけがその概念に帰属しうるという原則である 。この原則は矛盾律にしたがうものであるから 、認識のすべての内容は無視して 、認識の論理的な形式だけに注目する純粋に論理的な原理である 。
〈汎通的規定性 〉の原則
ところでおのおのの事物はしかし、その可能性から考えるかぎりでは 、汎通的に規定される [ことができる ]という原則にしたがうものである 。この原則は 、それぞれの事物について示されうるすべての可能な述語について 、それと反対の述語と比較した上で 、 [その述語か 、それともそれと反対の述語かの ]どちらか一つがその事物に属することを求めるものである 。この原則はたんなる矛盾律にしたがうものではない 。というのは 、この原則は 、一つの事物をたがいに矛盾する二つの [矛盾対当の ]述語の関係において考察するだけではなく 、おのおのの事物を 、事物一般のすべての可能な述語の総体のうちで 、すなわち可能性の総体のうちで考察するからである 。そしてこの原理は 、これを [すべての事物について 、このような可能性の総体が存在することを ]アプリオリな条件として前提するのであるから 、それぞれの事物は 、それがそれぞれの全体の可能性において持つその〈持ち分 ・分け前〉のうちから 、みずからに固有の可能性を 、いわば取りだすとみなすのである (※注) 。
だから 〈汎通的規定性 〉というこの原理は 、たんに論理的な形式にかかわるのではなく 、その内容にかかわるのである 。この原理は 、ある事物の完全な概念を構成するために必要なすべての述語を総合する原則であり 、二つのたがいに対立する概念のうちのどちらかを決定するようなたんなる分析的な観念の原則ではない 。この原則にはある超越論的な前提が含まれている 。すなわち 、すべての可能性のための素材には 、それぞれのものの個別の可能性のためのアプリオリな所与が含まれているべきであるという前提が含まれているのである。
※可能性の総体 (注 )
それ故、この原理を通じて、おのおのの事物は 、 [すべての事物に ]共通する相関者 、すなわち全体の可能性とかかわることになる 。この可能性の総体 、すなわちすべての可能な述語のための素材が 、唯一の事物(の理念のうち)に見出されるならば 、それはすべての可能なものの 〈親和性 〉を 、これらの 〈可能なもの 〉の 〈汎通的規定性 〉の根拠が同一であることによって証明するものとなる 。それぞれの概念の規定可能性 [の原則 ]は 、二つのたがいに対立する述語のあいだの 〈中間 〉を選ぶことはできないという排中律の普遍性にしたがうのだが 、それぞれの物の [汎通的]規定性 [の原則 ]は 、すべての可能な述語の総体に 、その総体性にしたがうのである 。』
この※の注は、※印の直前の文章に現れる「おのおのの事物」(Ein jedes Ding)と、「事物それぞれの全体の可能性」(jener gesamten Möglichkeit)との対比にまずは対応している。「おのおのの事物」と「全体の可能性」との対比である。これら両者はどのような関係にあるのか。そしてこれらの内の後者が、jedes でなく、einzigenな事物の理念において見出されるとしたら、親和性が証明されてしまう、というカントの接続法第二式を用いた、どちらかと言えば否定的ニュアンスの書き方は何の意味があるのか。
おのおのの事物といえば、その辺にある正に事物ということかとも思われるが、唯一の事物というと、それは神のことを言っているのか。「一つしかない物」と「おのおのの事物」の間にある差異はどこにあるのか。
おのおのの事物が、その全体の可能性において持つ、その分け前から、それ自身の可能性が見出されるという意味であるカントの言い方は、その辺にある様々な事物よりも、一つ抜け出たような位置を与えられている唯一の事物(それが「神」ということも考えられる)にという意味なのか。それとも既に述べたそれぞれの事物は、お互いに共存しながら、しかし一つ一つ個別のものであり、唯一の個物でもあり、その一つ一つに可能性の総体が見出されるとしたら、という意味なのか。
なぜこんな疑問を持つのかと言えば、この※の注の中の「共通の相関者(関連しあうもの)」はnämlich(いわば)全体の可能性、と言っている点が解せないからである。もし単にそれぞれの事物があり、そこから一歩抜け出た唯一の事物が神として在るというのならば、その唯一の事物、神が共通の相関者と言ってもおかしくないのに、なぜか可能性の総体が共通の相関者だとカントは述べる。
「相互に関連しあうもの」の中に共通のものが埋め込まれて形成されるのに、そうでなく、つまりそのような相互性から一歩上に出た唯一の事物の中に「可能性」の総体が見出される時、「親和性」が証明されてしまうということなのか。
しかしこれは“親和性”という言葉への解釈にもよろうが、相互に関連し合って(共存して)いるものの中に「親和的」な関係が成立しているというのなら解りやすいが、それとは違う可能性として書かれているように見える。 “唯一の事物の理念”に可能性の総体が見出されるとき、“親和性”が証明されるとはどういうことなのか。
ただそれぞれのものが相互に関連し合っている、即ち、「すべての可能性」としてあるだけでは、親和性は証明され得ないと、こういうわけなのか。それとも成立はしているが、証明はされないということなのか。
ここで本論考における課題を明確にしておこう。
①上述の「唯一の事物」と「おのおのの事物」の「差異」はカントにとってどのようなものか。
②そうした「差異」を設けつつも、「可能性の総体」が唯一の事物に「見出される」時とは、どういう「時」あるいは「瞬間」なのか。
③その「見出される」ということは「視覚」とどう関わるのか。
④③で述べた「視覚」ということは、上記の「相互に関連し合うこと」、殊に「相互作用」という面におけるそれと、どのように関わっているのか。
⑤上述の「注」は「汎通的規定の原則」についてのものだが、それが或る種の「規則」であるとしたら、上述の「瞬間」及び視覚と相互作用は、そうした「規則」あるいはその下位概念である「法則」とさらにどのような「相互作用」があるのか。
⑥これらの「差異」、及び「視覚」と「相互作用」、さらには「規則」を踏まえた上で、親和性が証明されるとはどういうことなのか。
そのことを今後の論考では、なぜカントは、「証明される」ということを、「否定的」ニュアンスで書こうとしているのか、ということに纏わる形で解明する。
これらの課題を、現段階で解明し得る範囲で、以下で考察することを目指したい。
ところでカントにおいては、視覚そのものと視覚モデルによる思考・表現があると共に、そうした視覚モデル等を或る種微妙に否定し、「身体」感覚を表現しているところがある。少なくとも私にはそう思える。この事を、カントが述べる「思考の方向性」に或る種内含されると私が考える「時間の方向・向き」及びそこで措定される「瞬間」への観点を考慮に入れつつ考える事は可能か、しばらく模索してみよう。今回は、その小手調べである。
そうした中で、カントが身体と空間、及び思考の方向性をめぐって、anzeigen(以下、azと表示する)とangeben(以下、agと表示する)いう二つのタームを使い分けているのではないか、という、かねてからの私の仮説の検証まで、ここでの私の考察が進めば幸いに思う。
それでは考察を始めよう。
非視覚的ではあるが、否定的に、虚焦点として考えられるものが、理念としてある。少なくともカントのテクストにおいては特にそうである。
今現在、「瞬間」とは、人間の言語行為、或いは線を引く、という形のことをされた上で、しかし否定的に<与えられたもの>、感性的直観において、与えられたものとしてある。
無限空間が「与えられる」中での直観において、与えられる。
更に視点を変えれば、意図的に、「能動的」に、作図したり、線を引いたりする中で、意図外部的に与えられるものごとがある。光が、感官において与えられる第三者であるように。
ところで、私はここでの議論を始めるにあたって、「物体」についてを、「立体」としてここでは扱ってみよう。それは「身体」をも内含するものである。
様々な位置から、無限なる視点から、そうした立体は異なった見え姿がある。5秒前はここの位置から、5秒後はこの位置からというように。立体は無限の視点からの見え(姿)を簡単に作図する幾何学的方法がある。私が汎通的規定という時、そうした「物体」への視点とその立体形状、及びその幾何学的方法を考えている。その無限な見え方の集合として物体はある。そうした中に「否定」はある。例えば幅のない線とか、広がりのない点というように、「広がり」とか「幅」ということも、あるいは(例えば)ここの視点からは楕円であったのか、もう少し上からは円とか、そのような、~ではない、ここからは円だが、ここからは円ではない、というように「否定形」で考えられる何かがある。
二点間にはただ一つしか直線は引けないか、何本も引けるか、この事も、引いてみる中で、そこに二本引けないか、幅がないとは、広がりがないとは、と理解できる。一本の線も、書いてからそれを視るまで微妙な時間差がある。しかしそれを書いてみることで、広がりのない「点」としての点時刻を理解することが出来る。一点では理解しえない、あるいは(過去として)振り返られる中で初めて理解される「今現在」ということも、線を引いてみて、引いてみる前、引いてから少したった後、そういったことの中で、そうした幅や広がりがない一点ということを理解出来る。それは「書く」という能動性と、書く中で視えてしまう受動性と、視る(視ようとする)という能動性が、入り混じっている事象なのだ。
「点」にしても、物体にしても、そのようにして、ある理解をしようとすることについて、一度は否定されることを通じて、その集合として理解出来ることというのがある。幅がない、広がりがないという否定形である。
カントが無限空間を制限する中で、二次元的な図形が規定されるというのも、無限の広がりを持つ空間への直観を持った上で、それから否定的に、そうした無限の広がりが「ない」という形で一つの図形を規定出来る。「瞬間」も、幅を持た「ない」線として、線形の時間において、理解される。線を書く中で、書いてみることで、「一点」では覆い切れ「ない」、無限に分割されていく「瞬間」を理解出来る。
「外」に「形」として「線」として、立体として、何かを書く(能動的行為の)中で、そうした「瞬間」を、<否定的に>理解するのである。
例えば無限空間への「直観」を持った上で、広がりの「ない」、二次元的広がりの「ない」点が、「ない」という形で理解出来る。又、点というものでも覆い尽くせ「ない」、「瞬間」の無限分割が理解される。それは感性的直観を持ち、かつ、そこから否定的な言明、概念、そこに必要とされる悟性をそこに一致させていくという、悟性と感性の一致があり、そこにこそ、私が今回に冒頭から言及したKrVの「理想章」の文脈での「親和性」はある。
視覚を所有しない人間、言わば盲人が、外界を文脈的に理解する。例えば大「過去」のものは、直接視覚に「与えられて」おらず、いわば、それについて「盲目」である。しかしその上で、否定形を含め、概念として、外界の事を理解出来る。視覚が「ない」という形で、正に「否定的に」視覚によってとらえられるはずのものを受け取る。非視覚的、non視覚的なことも、正に文脈的に、否定形とはいえ、視覚的なものをとらえる中で、はじめて成立する。それも、言語的な「意味」の回路網において理解されるのである。視覚感官からとらえられる性質のものを、例えば全盲の人でも、意味的にとらえられる事をここでは考えると、分かりやすい。
ここでのカントについての議論においては、ただ視覚モデルをめくらめっぽうに拒絶するのではなく、「否定」という事象を成立させる文脈的意味のネットワークにおいて、外界を、あるいは他者の意図を理解する事を得策とするのである。(註〈6〉)
私はカントが、人間の認識について「視覚モデル」のみで考えようとしていると言い張りたいのではなく、正に「否定的」とはいえ、視覚的なものを、文脈的に理解する中で成立することがある、ということを言いたいのである。例えば<今現在>とか<瞬間>を、視覚的に表現することはできないとしても、しかし<できない>という否定的な形ではあれ、視覚的に表現することが、プロセスとして必要なのである。
全盲の人に、「今」という瞬間を説明する時、その人の手を引きつつ、例えば砂の上に線を引いて、少し前、今、と何かの線を一緒に引いて、時間経過を体験してもらい、且つ、その線上の一点を通過する、というところに<時間経過>がある種現れる、としつつ、でも<瞬間>というのは、そうした線的幅、いや点でさえも覆え「ない」と<否定的>に表現する。たとえ、視えないものであっても、しかしまず視覚言語において、全盲の人に伝える中で、その中で「視えない」部分、事象を「否定形」によって伝えようとすることを、私は考えている。
カントは視覚では覆えない認識の部分があることを十全に理解していたであろうが、しかしそれを<否定的>に、しかし積極的に、文脈的に、(意味の回路網的に?)(註〈7〉)取り込み、その中で、五感を含めた認識を考えている。そしてそれこそが、虚焦点とはいえ、<理念>として目指される<光>のように、視覚的にとらえられるものがある。むしろ、視覚では覆いきれないものを、その否定形において取り入れ、それを虚焦点として目指すところに、カント的な<理念>の一側面はある。
視覚自体が、言語的に構成される面、又、非視覚的な感覚でも、「視覚」によってとらえられるものを<否定形>において(文脈的に)とらえられる中で、成立することがある、とまとめれば私はそう考える。
そうした際の虚焦点としての理念を「示す」という事、あるいは又、カントにおいて、徴表(merkmal)としての概念のもとに含まれているものであるが、そうした「もと」にありつつ、暗示された徴表を目指す事、見出す事、又そうする事において、外界の事物を(直接)に指し示す事(視る事)、この二つの意味が重なった所に、azが使われる。そしてこの(そうした方向を)「目指す」という所に、「虚焦点」などの光と「視覚」についての比喩(類比・類推?)が見られる。
一方で内包はカントにとって、概念が部分概念として、諸物についての表象の内に含むものだが、そうして内に含む、含んでいくこと(方向・領域)を表すタームにagが使われている。直観から多様を受け取り、且つそれを掴み(begreifen)、概念(begriff)していく、それは人間が認識において或る瞬間の内へ含み、その瞬間を(幾何空間において)無限分割していくものであり、且つ、概念の内へ(<瞬間>も含めた概念の内へ)含んでいく事(implicate)、内へはらんでいく事(begreifen)、と共に「外」へと表示する事、これらの事にagは対応している。
しかも冒頭に書いたように、azとagがペアになっている側面が、勿論その文脈にもよるが、あると思われる。azが外界の事物を指し示し、且つ「暗示」された概念としての「徴表」を目指すという事であったのに対して、agは、そうして指し示し、且つ目指すそのプロセスにおいてのratio(比例)、又その認識を成立させる条件・機能という事を、上述の概念が自らの内に含んでいく事に、重ねていくところにあると、私には思われる(左から右への線による線形時間を関数的空間において示す際の〈瞬間〉の表現という事も、ここでは私的には考えている)。
ところで先に述べた「盲目的偶然」とはどのようなことを考えたら良いのだろうか。それを私は「過去」と開連付けたいのである。その中で、「視覚言語」がどういうものと考えるべきか、次章で検討してみよう。
(註)
〈1〉今回の以下の考察は、2010年に放送大学大学院に提出した修士論文『親和性が証明されるとはどういうことか』と、かつて私が自分のブログ「生命体はなぜ超越論的判断を必要とするか」にて掲載したもの(「移行と有機的身体」「『盲目』概念の視覚的意味」の(1))とを、新たな構成と問題提起のもとに再構成したものである。
なお、本文中でも書いたが、本考察で主に取り上げる、カント『純粋理性批判』は以下ではKrVと示す。
そして、以下のKrV,B599 〜B601の「理想」の注以外のKrVの翻訳については、(ア)光文社古典新訳文庫版のKrV第2巻(2010年、光文社、中村元訳)、(イ)岩波書店版カント全集第4巻〈KrVの上巻〉(2001年、岩波書店、有福孝岳訳)を適時参照した。以下ではそれを(ア)、(イ)で示す。)
〈2〉『哲学の木』(講談社、2002年)より「偶然性」の項参照
〈3〉KrV,B75、(ア)ではP19、(イ)ではP130
〈4〉KrV ,B99、(イ)ではP150
〈5〉KrV,B599 〜B601の訳は過去の様々な翻訳を参照しつつ、自分で作成した。
〈6〉大森荘蔵『時間と自我』(青土社、1992年)の「ホーリズムと他我問題」という章、とりわけその中の三節「全盲の達ちゃん」を、少し後に出てくる「盲目」「全盲」への言及の際に参照した。
〈7〉〈6〉と同著者、同著作の「理論概念としての自我と他我」という章、とりわけその中の四節「他我概念」、五節「問題点の再確認」を参照した。
〈10〉盲目概念と「過去」
「偶然」とは「過去形」の概念であると一ノ瀬正樹は述べている。(註〈1〉)「偶然出会った」「たまたま雨が降ってきた」というように、偶然的なことは「過去」的な言語表現において考えられ、表現されることの多いことに気付く。
一方で「盲目的」という概念について考えよう。例えばいわゆる「大過去」の出来事は、直接は視覚に与えられていない。写真や映像で残っていることはあっても、例えば十年前の何かの事物、出来事を、直接視覚において視ることは出来ない。そうしたことに我々はいわば「盲目」である。
しかし諸天体の光のように、大過去の光が現在私の眼球に届くような場合はどうだろう。何万光年離れた星の光は「過去」の事物、事象である。否、もっと近い時、太陽の光が、あるいはそれに照らされる花も、或る意味では、眼球から脳細胞に至るまでの時間差があり、紙に書く線も、書いてそれを視るまでに微妙な時間差があり、いわば過去の風景である。では現在只今の視覚とは何であろう。「今!」と言った時が、現在の視覚であるとしてしまうと、(上述のように)今という言語によって指示した時には、「今」は「過去」になってしまう、やはり微妙な時間差がある。
どこか外的原因から現在只今の視覚が生じているのでも、内的かつ必然的に視覚が発生しているのでもないが、受容し、又事象を白いとか三角形だとか表現する事自体で、「視覚」の働きそのものが現れる。眼が「視覚」である訳でも、色や形が視覚からの被対象である訳でもなく、視覚言語で世界の物事を表象する、ということの全体で、そしてそうした中での言語のネットワーク全体で、「視覚」という行為は現れている。
先にも定義したように、広義の個体にとっての「外」には、例えば人間なら自分の脳や心臓、眼球といった身体も含まれるとすると、そうした事物、身体における人間の内部、魂は、このような相互作用においてある。
カントが「もろもろの色は、これらの色がその直観に属する諸物体の諸性質ではなくて、やはりある仕方によって触発される視覚感官の諸変様にすぎない」(註〈2〉)
とすることにも、それは現れている。
そして盲目的偶然とは、そうした相互作用を成立させてる「空間」の形式において、必然的に起こりうる物事と言えるだろう。どこかに固定した原因があるのではなく、視ること、視るという行為をすることにおいて起こるという意味で「偶然的」であり、又どこかに視るという行為と独立した世界があるのではなく、過去という目の前に与えられていないものとはいえ、人間の言語において構成されるという意味で「盲目的」ではあるが、しかし「空間」という形式において間違いなく、必然的に「視覚」が存在しうる。そのように対立する言語や表現によって、初めて「盲目的偶然」の輪郭はあるのである。
ではこうした輪郭、一見すると相反する言語や事象によるそれは、「境界」はどのように構想され、表示されうるのか。
〈9〉の冒頭の方で述べた「世界は盲目的偶然によって存在する」ことについての選言的判断は、このような「過去」と「現在」を人間が言語において区切り、枠組みを作る中で、初めて起こり得るものである。カントはこの判断での命題を「ある瞬間においては想定するかもしれない、という蓋然的意味しかもたない」(傍点部筆者)と述べるが(註〈3〉)、以上で述べてきたように、今現在、そして「瞬間」という概念を言語表現の意味の回路網において位置づける中で、現れる概念なのである。
この「感官」とは言うまでもなく、「外」の事象たる物理的な視覚器官のことではない。内と外との間の相互作用を生じさせる空間の形式において、現前とした実体はないが、しかしどこかに把捉可能な関係性として在り得る。
「視覚言語」とは、赤という色とか三角形という形とか、丸い木等もそうであるが、逆に視たこともないもの、例えば台形をした目が口の下にある怪物とか、先の「無限の視点から観察可能な立体」というのも、含まれる。どこかの場所に視点を定めうること、そこから遠近法的に広がる風景という「視られる」という状況・条件、要求なくしては、その無限の空間はあり得ない。視覚言語に支えられ、かつそれでは捉え切れないものの「視線」が考えられる。 又、自分の身体という物体が、外の人、事物から「視られているかもしれない」ということも、視ていること自体をも、視覚において視た結果によって構成しているのである。
ここでこれまで明確にしてこなかった「視点」という語について定義してみよう。
視点とは、まず世界を観察し、眺める或る特定の場所、或る一点のことをとりあえずはいう。或る視点から何かを眺め、その何かを「規定」することは、何かを分析して考え、又抜き描くことである。そしてその視点に立ち止まっていること、又そこから或る「瞬間」に何かを視ようとすることには、「意志」や「意図」が可能性としてありうる。そして固定した場所から眺めることも、移動しなから眺めることも考えられる。そうした際には、視点とは、或る場所的領域からの視線そのものということが出来るだろう。それは移動しなくても、無限にとり得る位置、領域の可能性として存在する何かである。自らが外へと向ける視点、外からの自らの視点は、空間の立ち位置の無限の可能性として存在する。
「視る」という、感性或いは感官において行われることは、こうした無限の可能性としてあり、それは「空間」そのものへの人間の直観に支えられている。そして人間はその直観に支えられつつも、無限の視点から眺められた立体、物体の像・見え姿を構想し、概念によって、言葉によって記述する。
そしてそうした或る特定の場所から「視る」という事象が起こっているということは、他の視点から眺めたものごとの現れ方を「否定」するような現象、或いは「否定」する可能性を探ろうとして、特定の視点から物事を視ていることが、「可能性」としてありうる。(註〈4〉)
或る視点からはこう視えたものが、他の面から視るとこう視えた。これは可能性としては十分ありうることだろう。
ところで先に私は、「視ている」ということ自体を、視覚において視た結果によって構成し、喩えることを述べた。このことを今の「否定」のことに当てはめれば、その可能性としての「否定」は、視た結果において、初めて構成するものであると言えるだろう。
或る事象について、AであることもnonAであることも、そしてそのAであり、かつ nonAであることも、或る「視覚」そのものを、視覚言語、及びそれによって記述したものを受け取り、視ることにおいて、成立、生成する。「世界は盲目的偶然において成立する」という盲目性は、そうした或る視点をとった瞬間を記述する、或る「否定」を構成する中でこそ、ありうる。
この文脈では、何かを「視る」ということが、或る否定を「結果」の中から見出していくことにおいて、ありうるのである。何かを「規定」(ここで〈9〉の冒頭の方に書いた「規定」を思い出して頂きたい)することは「否定」することと過去に言われたが、その中で、或る視点から何かを視ることは、その視た結果を、常に構成する中で生成していくと言えるだろう。
そして今まで述べてきたような、視点をとることをめぐる、「感性」に由来する表象と、悟性によって構成される「可能性」としての表象を、常に現実へと位置づけ続ける、そのような、悟性・感性を区切りつつも、その一致点を、その「瞬間」において見出していこうとする、そこにカントにとってのKrVでの「親和性」(これも〈9〉で、その「証明」の問題を提起した)はありうるのではないか。
そしてこうして見出された「瞬間」が、〈9〉での課題設定の②と⑤での「瞬間」と相互作用にどう関係するかが今後の課題である。
それは遠くに、この連載での、「過去」の廃棄物をめぐる出来事への「追跡調査可能性」、あるいはゴミ収集の際の、ゴミ収集作業員や清掃車運転手、更には廃棄物を出す住民の「視点」の差異と同一性を見据えての課題である。
盲目、視点、過去をめぐるこうした一見抽象的な探求が、いずれゴミ収集についての具体的な位置付けに通じることを目指したい。
(註)
〈1〉『哲学の木』(講談社、2002年)より「偶然性」の項参照
〈2〉KrV,A28 (イ)ではP104
〈3〉KrV,B100~101 (イ)ではP151
〈4〉福居純『デカルト研究』(創文社、1997年)よりP139参照