二種の四角片Double Squaresが誘う不穏と魅惑                  

藤井雅実

 このテキストは、二十世紀後半にポストモダンと呼ばれた近代文明の転換期から、コロナ禍や気候変動、世界各地での不穏な社会状況が覆う今に至る文化の基盤の仕組みを捉え返し、その層構造から今日の課題を探りたいと思います。まず、そこに踏み込む前に……
 〔※本稿は、2022年、ある論集に現代文化論方面のテーマで依頼されたテキストに、いくらか修正加筆を加えたものです〔⇒文末・著者参考文献〕。それで、人々がマスク常用していた状況が、本論導入の舞台背景となっています。〕

1:今日を記すイコンとしての二種の四角片
 2022年の今、この世界を、小さな二つの四角片が覆っています。
 一つは、何十億もの人々の顔を覆うマスクという名の四角片。もう一つは、これも膨大な人々の手に持たれたスマホやタブレットという名の四角片。街中や電車や店の中でも、職場や家庭、さらには野山や海辺など自然の中でも、人々は、この二種類の、用途も組成も機能もまったく異質な、しかし似たような大きさの四角いアイテムを装着しています。
 前者は、二年ほど前〔2020年〕から突如グローバルに繁茂したコロナ・ウイルスという微細物質への対応で瞬時に世界中の人々の口元を覆ってきた。後者は、前世紀末に出現し今世紀に入ってグローバルに覆ったウェヴ環境、そこに繁茂する情報と他者に呼応して、何億何十億もの人間たちにまといついている。ウイルスという微細物質他者とネット世界の情報他者、全く異質な他者たちへの応対で、私たちの現在は、二種の四角い小片に取り憑かれている。
 顔の下半分を四角い布で覆い、電車の中でも八割方の人々が小さな板を見続けている…このような景色が日常となるなど、たかだか二十年前、世紀の変わり目の頃でも想像し得なかったでしょう。アーサー・クラークや手塚治虫の描くような輝かしい未来をイメージしていた高度成長期の人々に、これが近未来の現実だと見せたらどう思うでしょう?
 この光景から私たちは逃れることができるか? 口元を覆う布切れが早く不要になることは、大多数の人が望んでいるでしょう。しかし手元の小さな板切れが、目覚めてから眠るまで常に気がかりだ、という、一歩引いてみれば「スマホに鎖付けされた囚人状態」は、どうでしょう? いつの日か、どちらも不要となった時代の目からは、どのように見えるか? その時、ああ、あんな時代を人類が超えられてホントに良かった、と思われるか……あるいは、あの時代はまだ今よりマシだったな、二つの四角いアイテム着けてる程度で、何とか日常が成り立っていたのだから…、と思う時代が来てしまうか? 現在が、後のような未来への序章などとならぬよう、私たちは危うい岐路に立っているのかもしれません。
 今日という時代を、人類史の中でも特異な時代として記し付けるこの二種の四角片、そのポジションと働きはむろん大きく異る。それが作る日常風景の異様さをあらためて感じ直し、そこから見える今日という時代の特性と課題の方向を探ってみましょう。

2:人類史の展開が示唆する世界の多層性
 マスクが応じているのは、ウイルスという肉眼では不可視なほど微細な物質。スマホやタブレットが応じているのは、高度な情報システムで織り上げられた限りなく増殖し続けるデジタル情報。この二種の四角片は、人間の世界を形作る多様な層における、それぞれ今日の人間にとって重要な特定の層の働きに呼応している。人間の経験を支える層構造を見るにあたり、人類史の展開をまず簡単に眺め直してみましょう。
 私たちの世界はまず、常に相互作用し合って変動し続けている膨大な物質のダイナミズムを基盤としている。それは人類誕生よりはるか以前、宇宙開闢以来、そしてこの宇宙が滅びるまで。(そこには、この宇宙の始まり以前や終焉以後は<何>が<在る>のか?という科学的かつ哲学的大問題が伴いますが、ここではオアズケ)。その物質のダイナミズムが膨大な星群を産み広げ、その一粒の地球という特異な場では、大地や海が生じ動植物が生まれ、その膨大な時の中ではごく最近、人類なるものが登場した。
 その人類の群れが、様々な道具や言語を介した文明社会という奇妙な環境を創出する。そこから、他の動物にはなかった「世界を捉え返す」という技も育み、数千年前には高度な文明が育ってきた。そして、それぞれの社会の物質的な自然環境に呼応しつつ、世界を統一的に捉える知と信の体系も創出される。そこで、その知を支える超日常的な存在=神々が、知の準拠点として想定され、その姿を感覚的に表す神像なども伴って、それに応じて文明の高度化が加速しました。
 その後、キリスト教という一神教文化を基盤としていた西洋地域で、ずっと古来の多神教に基づいた文明で多様な感覚的造形とそれに伴う人間観を育んでいた古代ギリシア文明が捉え返されて、一神教の統一性と多神教の多様性とを人間という観点から統合するようなルネサンスの文化が出現する。その<世界を刷新する>という営みの魅力は新たな動因として広まって、近代文明への基盤が用意される(日本での戦国時代から江戸時代初期)。そして宗教革命、科学革命、産業革命、市民革命など、社会の基盤の革新が様々に展開され、資本主義と市民社会と自由・平等・博愛や近代芸術・学術他の近代的な諸理念などの近代文明の基盤が育まれました。そこでは、個々が自律・自立し、自由で平等な権利を有する人間という理念と共に、社会を織り上げる諸相に応じて多様な活動が分化し、その各分野からそれを捉え返す諸学まで、どの分野でも、自らを捉え返し現在を超えて進もうとする欲望が全般化してきます(次々と新たな様式を探求し展開した西洋近代芸術は、この近代文明の自画像とも言えます)。
 その西洋近代に展開された技術、政治、経済、倫理、芸術や専門諸科学などの枠組みが、非西洋地域でも日本の明治維新期などを先駆とし、無数の戦争の悲劇なども介して展開されていく。そして二十世紀後半には、その近代的かつ西洋的な体制や理念の基盤を根底的に捉え返すポストモダン=脱近代と呼ばれた先端文化思潮が、欧米日の先端文化を席巻し、東西冷戦体制の崩壊も加わって、新たな開放の時代を予感させました(昨今、そのポストモダンの思潮も、時に過度に単純化・矮小化され語られることもあるので要注意)。
 しかし近代の限界を超えるその開放区の夢も、すぐさま新たな民族抗争や日本では阪神大震災や地下鉄サリン事件以降の長期低迷傾向などから、近代社会のグローバル化と共に、世紀の転換を経て、さらに世界各地のテロや紛争や経済危機とそれに伴う格差拡大、そして各地での震災や気候変動の増大など、時代は次第に不安の薄雲の気配が強まる中、今のパンデミックが出現した。(加えて、本稿制作中の2022年2月、大国のとんでもない侵略的な戦争状態まで勃発し、そこでもネット環境が混乱を増大させている)。〔そしてその戦争に加え、本マガジン用に加筆修正している2024年には、イスラエルのガザ侵攻まで勃発し、世界各地で不穏度は激増し続けている〕。

3:世界と経験の基盤;錯-層構造
 以上の簡単な歴史の素描でも、人間存在を構成する多様な層とその変化の一面が見て取れます。
 まずそこには、身体を持った存在としての人間から大地とその上に広がる大自然や宇宙など物質的な基盤がある。その限りない物質的展開の中、植物から動物が生まれ多様に発達し、人間という奇妙な動物が出現し、他の動物と決定的に異なった次元を創り出しました。人間は、周囲の環境や自身の経験を捉えたり互いに交流する過程を、異次元レベルに複雑化した。その過程で、言語という特異な仕組みを創り出す。そしてその言語を不可欠な媒体として、自らの感覚から思考、感情、欲望などを構成するようになった。
 この言語活動の仕組みを育むには、幼少期からの父母や家族から友など多くの他者との交流が不可欠です。そして、その「他者との関係」(間主観性、共同主観性)が、各人の感性から知性まで人格の基盤を育むには不可欠な要因となる。例えば、虹の色は、日本で育った者なら七色で捉えるけれど、六色や五色で捉える国もある。鳥の鳴き声の捉え方も国により様々。また、遺伝子を共有する双子でも、幼少期に一方が全く異なった環境に養子に出されれば、身体の基本的な素質による共通な傾向も持ちつつもかなり異なった人格に育つでしょう。一方が全く異質な文化環境の外国で育ったら、母国語の違いとも応じて、感性も知性も趣味や特技も大きく異なった人となるでしょう。(脳神経科学などが示す知見は重要ですが、それは物質的条件のある特定層における機構と機能に照準した認識。その機構と機能には、その脳神経層以外の外部の膨大な物質的~社会的環境条件の総体が、常に不可分に関与し、その動的関係において常時、生成変化し続けています。人の経験を脳神経系という限られた層の説明に還元してしまわぬ注意は大切です)。
 この、他者との関係に応じて育まれる経験の基本式。この構造形式が、国や民族、また同じ国内でも地方や世代や職種や専門分野ごとに異なる人間関係の差異に応じて、異質な感性・知性の傾向を象る基盤となる。と同時に他方、同じ国や地域、同じ家族や環境の中で育っても、個々の感性、知性、人格など大なり小なり異なってくる。こうして、各人の人格や性格、感性や知性、様々な能力の差異もまた、脳神経系を含む身体という物質的特性を土台(ハードウェア)としながら、その上に、感覚、感情、認識、欲望、意志などの経験と行動の基盤形式(ソフトウェア)が、自然環境から言語や多様な活動を介した他者たちとの関係(社会的・間主観的関係)で育まれ、日々の経験を可能としています。
 私たちの現実世界はまず、素粒子や原子などの微視的次元から、遺伝子、細胞、そして脳神経系や身体組織などまで、物質的にも多層の次元を土台として、周囲環境と応対しつつ、特に人間の場合は言語を大きな媒介とした他者との交流において、個々の経験の基本式を積み重ね、相互の複雑な錯綜も伴う<錯-層構造>を基盤に、生成変化し続けていきます。

 物たちの環境と人々の間主観的な交流を通し、人間はまた、個人でも集団でも、自らの有り様を認知し、それを問い返す仕組みも育んできました。その感性から知性、感情や欲望を象る式と共に、人や社会の理想像も創り出し、その式や像に応じつつ多様な課題に応じて変化もさせてきた。この、事物や他者と関わる高度な応答機構の高度化に応じて、日々の経験の基本式も多様化し、衣食住の基本条件から娯楽や嗜好も専門分化が進み、人間特有の高度な文明が築かれた。
 と同時にその文明の進化は、自然環境にも様々な影響を与え、特に産業革命以降の機械技術の急激な発展と広がりに伴って、前世紀以来、急激に可視化してきた地球環境への破壊的影響や高度な殺戮兵器の開発に伴う巨大な同族殺戮と自然破壊を伴う戦争など、他の動植物から地球環境全体への途方も無い危害をもたらすことともなってしまいました。
 この、人間生活を綾取る多様な営みが紡ぐ人間世界は、普段の日常は当然、安定した生を営みうる安定した均衡状態を維持するように育まれている。とは言え、その安定は微妙な緊張や不安も含み、他方、その緊張や不安を緩和する安らぎの条件や、新たな行為や世界を開く挑戦への動機など、多様な経験を可能とする仕掛けも育んできています。そして、それぞれの活動分野に応じて、そうした多様な経験への動因の基本式も育まれる。その人間の生の動因は、自然的欲求から社会的な欲望、そして超脱的な欲動などと、それ自体が錯綜した層構造を成し、日々の細やかな屈折感情から学や芸術やスポーツや人生全般など、他の動物には無かった多彩な挑戦を駆動します。

4:<錯-層構造>と二種の四角片 
 ここで冒頭の二重の四角片を、この経験の錯-層構造の舞台に招きましょう。
 口元を覆うマスクという四角片の着用は、ウイルスという微細物質が人間の身体という物質層に危険を及ぼすことを防ぐ行為として、国や民族など集団の差異に関わらず、世界中の人々の多くに共有された。身に付けない者は排斥されたり警戒されたりなど、行動を制約する日常規範となった。
 他方、スマホやタブレットやPCなど指でいじられ見つめられる送受信装置の四角片は、言語や映像や音声などの記号や映像メディア・システムを介して、多様な情報を受け渡し合う。そして情報の送受だけでなく、その情報に応じて様々な情動や欲望や幻想などの表出と興発も伴う。
 マスクは、人間の物質的な実在の次元で、スマホやPCは人間の間主観的な関係を司る記号と感覚の情報交流という象徴系の次元、またそれを介した各自にとっての情動系の次元で、今日の状況に生きる人間たちに不可欠のアイテムとして世界を覆っている。
 人間は、その生活の中で、何より物質としての生体の維持が大切だという当然事を、ウイルスという微細物質他者の出現と繁茂は、従来にはない仕方で再確認させた。そして、不要不急の事象への関わりは保留され、人間という同類他者に不安や危害を与えかねない密な接触はできる限り回避せよ、という規範が、あっという間に数十億もの人々に共有されました。しかしその規範は、それが困難なしかし社会生活に不可避なエッセンシャルワークに従事する人々や、その規範で生活の糧の獲得が困難となった人々と、悠々と接触回避の生活を営める人々との格差拡大など、別種のしかしこれも根本的な課題を増大させもしている。
 他方、スマホやPCの四角片の枠で縁取られたグローバルなネット環境は、増殖し続けるビッグデータの情報の大海で、瞬時の情報探索やリモートワークなどを含む実用的利便性と共に、多様な文化アイテムへのアクセスとそこでの快楽の可能性を圧倒的に増大させた。と同時にその裏面で、フェイクデータやフィルターバブルを介した偏りや分断、SNSでのイジメや差別をはじめ、かつてない無数の危険の条件も発生させた。もう一方のマスクという四角片が象徴するパンデミックがもたらした状況下、その危うさの度合いも増大させ続けています。

 この、いかにも今日的な情景を出現させている二種の四角片、そこにある日常を支える仕組みと、日常を超えた今日的<事件>。そして一方が喚び覚ます自然の物質界の不安や怖れと、他方に伴う技術工学と情報を介した楽しみや悦び。二種の四角片は、世界経験の基盤の層構造とその錯綜した関係において、今日の社会文化的な課題の一面を、少し独特な角度から照らし出す象徴的な対象ともなっています。
 先に見た人類の文明史も、この不安や怖れと楽しみや悦びへの情動的応答が伴い、その対応の基本式の在り方が、様々な文明・社会の差異やその展開の基本形として見出されます。人間経験を支える層構造はマテリアルな層を土台に、それが可能とする範囲で人間たちは、それぞれの社会の言語システムを強い媒体として、感覚から認識、感情、欲望や意志の意味を枠取る基本式を育む。その基盤の上で、その基本式を各人は、幼少期から他者との交流=間主観的な関係の中で与えられ、その式とそれが湧く付ける事物の意味などを、自ら自主的に捉え返したり、展開したりもする。
 その際に、そうした基本式に支えられ、世界の様々な事物それぞれのイメージも形成される。そしてそのイメージは、各自が育った他者との関係とそれが育む意味の場に応じて、微妙なバイアスも含んで構成され、各自の認知や判断や欲望や行為の傾向も与える。ある物事について、ほぼ等しい感性・知性の捉え方の式を習得していても、それに伴う多様な付随情報などで、例えばある国や地方の人々、あるいは同級生や職場仲間や友人などへの偏ったイメージも、当人が気づかぬ内に醸成され、様々な弊害を生じさせもする。同様のバイアスは、職種や学問や文化での分野間や、個々の成果に関してなどでも発生する。ネット時代になり、四角い電子モニターで縁取られたフィルターバブルという新たな罠も加わった。
 この、物質層、それを土台に他者を介して育まれる感覚や感情の基本式とそこに介在する言語構造式が構成する感性知性を枠付ける意味の層、その両者に支えられ人々に育ち憑くイメージの層。この、物質層、意味層、イメージ層という基本三層は、それぞれの中にまた、無数の階層とその錯綜した関係で互いに複雑に絡まり合って、その都度の<現実>を現出させています。

5:異常事が開く亀裂の不安と誘惑
 人間の経験は、そのつどの認知だけでなく快不快感情を基本とした情動反応を伴い、それが次の態度や行為の方向を意識以前の欲望や意識された意図や意志として誘導している。日々の生活は、基本的には安定しているからこそ成り立っていますが、しかしその慣れ親しんだ営みの中でも日々、大小の微細な変化は伴って、それが喜怒哀楽の多様な感情状態を伴い、かつそれが新たな欲望や意志を発動し続けているのですね。
 その中で、ウイルスの出現や地震の発生、仕事や付き合いでのトラブル、病や事故など等、慣れ親しんだ日常性を逸脱した<事件>が出現する。その時私たちは、強い意味で「<現実>に直面した」などとも言ってしまう。
 しかしそんな<現実>との出会いの<事件>は、そのような恐れや不安の要因となるものだけではない。困難な仕事や交渉の成就、恋愛や出産や格別な出会い、芸術や自然との日常を超えた美的な経験、過酷な過程を介した探求や冒険の達成、科学や哲学の難解な理論でも読書を介した新たな世界や思考の開闢など、めったにない強い<出来事>。それほど強烈でなくとも、仕事や生活の労苦から逃れた家族や友との団欒、夕食の美味しさ、部屋にある花や窓から見える星空がもたらす、ささやかな安らぎや愛おしさや美しさ。
 日々のお決まりの経験を超えて、異質な未知の情景や情動を導いてくれる、特異な<他者>を介した新たな<現実>の出現。そこに悦びの貴重な時がある。
 そこでは、前節で示した、物質層、意味層、イメージ層など、異質な層との間での、常態を超えた不意の短絡や絡み合いがあります。
 現代世界を覆うマスクという四角片には不安や恐れも伴い、ネットの窓のスマホやPC画面にもそれはある。しかし、この二種の四角片が世界を覆う今日、その他の時代の観点から見れば異様な日常は、それ自体が人類史の中での特異な<事件>の時代。この特異性を突き放して捉え返し、その中の不安要因を解消しうる社会基盤を構想し、新たな悦びの舞台を探求する素材としうるか? それこそが、今日の私たちに課せられている、未知の探求という芸術的かつ哲学的かつ科学的な課題でしょう。

7:希望の深淵を誘う四角片
 二十世紀後半、文化史的にはポストモダンとも言われた時代、欧米日の先端文化シーンでは、芸術から科学や哲学、政治や経済まで、従来の定型的な理念や慣習のシステムの根拠が、「西洋近代に特殊な枠組み」として相対化されました。
 そもそも上の人類史粗描で眺めたように、ルネサンス期に萌芽した西洋の近代文明は、かつて世界を統一的に捉え真善美などの基本価値の準拠点となっていた信仰の基盤を、人間の観点から捉え返そうという欲望を育んでいました。中世後期、神学者たちは、信仰の源泉である聖書の内容や神の存在根拠を、自ら論理的に問い返す「神の存在証明」など、「自身が依拠する信仰や世界観の根拠を、その権威から距離を取って自ら再確認しよう」とする「自己反照・自己反省self reflection」の探求が強まってくる。そして海洋航海や世界貿易の拡大と共に、日常慣習を超えた未知への探求が、商業から芸術その他で多様に開幕した。
 そこから従来の準拠点であった神学の根拠が、宗教革命も経て次第に相対化され、そうした思考もする人間自身が、神に代わる世界の中心としてのポジションを獲得し始めました。同時に、その人間自身そこでこそ存在が与えられる物質的自然界についても、神学的前提に依ることなく、その仕組みを捉え返す探求、近代的な形での自然科学が勃興した。さらに経済や政治など人間が育む社会関係とそれを捉え返す営み、芸術や宗教など実利を超えた悦びや信仰とそこでもそれを捉え返す美学や宗教学その他、照準する対象と課題に応じた多様な営みが、それぞれ専門分野として育まれ、専門分化した探求が展開し始めました。
 その際、文化の諸ジャンルは、日々慣習的に営まれる様々な行為に対し、それをそれぞれが主題とする課題を日常的な観点を超えて、厳密に捉え返すという、上位の思考と感性の営みとして、専門化します。そして学問でも芸術でも、それに適した論理や語法や技術の探求という、上に記した自己反照・自己反省self reflection というモメントを不可避な活動要因に伴っていました。
 その傾向は、ルネサンスの芸術革命で全面化した後、科学・産業革命から市民革命を経て近代社会になると、その探求の斬新さ自体も強い欲望の対象として表立つ。そこには、生活基盤となる経済システムの層で常に利潤増大を求める資本主義の全般化という背景もあったと同時に、そのシステムが不可避とする階級格差化をもたらさない異質な社会システムへの変革構想も様々に開始された。そしてそうした探求の運動は、芸術における新たな様式変革を求める運動の高まりと並行し、共に「前衛=アヴァンギャルド」と呼ばれた。
 二十世紀は近代に開幕した多様な探求と変革の基盤から、正負功罪共に、かつてない規模の事件が連鎖し、地球表面の物質的次元への影響含め、人間社会の大変化の時代でした。そして世紀後半には、その展開のコアにあった自己反照・自己反省の徹底が、当の近代の基盤の枠組みと人間観・自然観などの理念や準拠点が、西洋近代という特殊な社会に育まれた一つの特殊な構造とそれに伴う「大きな物語」にすぎないことが露呈された。この、システム基盤の構築がいわば関節外しされる事態、それを哲学者デリダは「脱構築de-construction」と呼びました。
 この脱構築やリオタールを中心とした「大きな物語の終焉」説、そして日本でも大ヒットしたドゥルーズ&ガタリが提唱した脱体系的に無制約な展開を寿ぐリゾーム論など、70年代から80年代に欧米日の先端文化を席巻した広義のポストモダン文化は、哲学に留まらず人文社会科学諸分野から芸術活動、そして建築や都市計画からファッションや産業・広告デザインまで、広範な分野でその探求や影響が展開されたこともよく知られています。
 この、ポストモダン文化シーンは、今のようなグローバルな不安感に覆われることもなく、むしろ従来の隠れた暗黙の枠組みもついに脱して、より多彩な活動と世界への開放感が優越していたようです。環境問題や気候変動も経済格差その他の社会問題も、ずっと以前から様々に指摘されてはいたし、現実にはすでに様々な問題が様々に観察されてはいても、まだ欧米日など当時の先進諸国での日常的な事件としてリアルな不安を全般化してはいなかった。そして近代化後発諸国も、その後、90年代以降、各地で近代化へのテイクオフが進み、資本主義市場システムのグローバリゼーションが進んだ。

 しかし、そのグローバリゼーションの進展の中、欧米日の先進諸国は政治・経済から社会・文化の様々な場面で、かつてとは異なる停滞や難題が沸々と湧きだして、今日の、二種の四角片が覆う先の見えにくい不安に覆われた難関に遭遇しています。ネット環境は、情報のあまりの過剰ゆえ、その利便性の裏面で、情報の真偽の判断や緻密な思考の展開、時間をかけた議論などのゆとりを衰退させている気配もあります。
 そのような状況下、そのネットやAIブームに代表される情報工学の成果はむろん尊重しつつ、その基盤に潜む可能性と危うさなども、分野の違いを超えた対話や協力とが以前にもまして重要となって来ています。そして、今、様々に問われ返し始めた気候変動の元にある環境問題や、社会経済環境の理念として自明化されもした新自由主義の問題も、この格差拡大の進展と共に強く問い返され、かつての社会主義や共産主義とは異質の新たなコミュニティ・システムの構想や模索への関心も高まっています。
 ネット環境という前世紀までは不在だった全く新たな環境の層の急激な遍在化と共に、新たな共同性の探求は、AIやITの探求も絡み、その前代未聞の未知の層の可能性と危険性の激増への対処も不可避に伴う。そして学問や芸術も、異質な分野や思潮や傾向を、その異質性ゆえに新たな悦びの経験への場が潜在するものとして照らし返し合う可能性も、そのネットやIT環境の大展開と共にかつてとは大きく異なる次元や場面を、ここでもかつてない新たな危うさの激増と共に、出現させつつある。。
 巨大な四角い構築物に覆われた現代都市と、小さな四角片のモニターという窓の向こうに広がる無限の仮想空間に覆われた現代世界。人為の構築空間と仮想空間に覆われた現代世界に、自然界の微細物質の他者が繁茂した。その自然界の他者は、人間との戦いなど意志するものではないけれど、その働きが人間に不安を与える。それは、実在と仮想両面での人工物に覆われた現代に、自然界の存在を見直させる事件でもあるでしょう。気候変動や環境問題も近代の人間たちの活動が決定的な要因だった。そこに、コロナ禍が自然界の警告でもあるかのように出現し、人間はその告知に慄いた。しかしそれは同時に、都市空間の彼方に今も広大に広がる自然界を新たに振り返させる事件ともなっています。 
 ウイルスの事件もネットの事件も、何であれそこに伴い、あるいは隠されている悦びの可能性へのフック、未知の情景を開く啓示、として読解し活用する。その意味で創発的な行為、知的かつ感性的な探究、学的かつ芸術的な探求への機会とする可能性の探求。こうして今日の特異な状況は、その未知の不安や誘惑のゆえに、研究や芸術その他の活動もまた、分野間の差異を超えて錯-構造的に連携した探求を求めています。
 マスクとスマホという四角片の繁茂する情景は、多様な未知の悦びが潜む深淵への探索を誘う<イコン>ともなるでしょう。

〔註〕著者の関連参考文献
・芸術と哲学のモダンからポストモダンへの展開を巡るテキスト。
 「〈外〉への共振-哲学と芸術の限界とその〈外〉」(『Search&Destroy』東京造形大学・電子ブック、2015年)。
http://cs-lab.zokei.ac.jp/report/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E6%9B%B8%E7%B1%8Dsearch-destroy/ 
・人工知能と、人間特有の「利や快を超えた高次の欲動」に関し。
 「AIは死の欲動を実装できるか?」(『人工知能美学芸術展 記録集』人工知能美学芸術研究会・編、2019年)
・人工知能の芸術創作と欲望問題を、有名な佐村河内事件から見る。
 「AIは欲望と情動の地で歌えるか?」(『S氏がもしAI作曲家に代作させていたとしたら?』人工知能美学芸術研究会・編、2021年)
・絵画を中心に芸術の記号論的かつその限界域の問題を巡り。
 「特異像(シンギュラル・イメージ)としての絵画--<外>の/への私的言語の享楽」『21世紀の画家、遺言の初期衝動 絵画検討会2018』高田マル・編、2020年

・本テキストの元原稿は『現代の人事の最新課題 人的資本・健康経営・メタヴァース・リベラルアーツ』に所収。2022年
https://honto.jp/netstore/pd-book_31718624.html