私の裏金受取り未遂事件

野原広子

 道の真ん中で50がらみの紳士に、茶封筒を渡すと、「ちょっと時間ある?」と気弱な笑顔を向けられた。「いえいえ」と後ずさりをする私に、彼は黒い財布を開くそぶりをしながら「お小遣いあげようか?」と言う。

 正直、ぐらっときた。と、同時に怖くなった。 「いや、いいです。いいです」と言いながら私は手をぴらぴらと振って走って逃げた。

 裏金、買収、裏切り、スパイ。高卒で茨城から上京して2度目の冬を迎えようとしていた19才の私はそんな言葉が頭の中で渦巻いていた。 その時、私はマスコミの専門学校に通いながら時給400円で喫茶店でアルバイトをしていた。時給は安いけれど朝はトーストとコーヒー、昼はカレーやスパゲッティ、焼きそばが食べられる。つまりお腹を空かせることはない。けれど、家賃と光熱費に銭湯代とブラウス1枚を買ったり、友だちに誘われていきがって飲みに行ったりしたら財布に残るお札を数える気もなくなる。さらに専門学校の学費をどう工面するかという問題も抱えていた。

 田舎の親は、私が上京して住み込みの靴屋の店員になることには抵抗がなかったけれど、そこを一年で辞めて喫茶店でバイトをしながら専門学校に行くのは大反対だった。
「マスコミ? なんだそら。どうせモノになんねえんだから真面目に働いて少しずつでも金貯めたらどうだ」と渋い顔を崩さない。昭和3年に貧農に生まれた母親の考えることはこの程度だ。私の意思が固いとわかると、最後は
「てめえの金でなら何やっても勝手だが、後から泣きついてくんなよ」と吐き捨てて折れた。

 その前年、私が上京した1975年はオイルショックや三菱重工爆破事件の後だったけれど、東京にいればなんとかなる。そんな空気がみなぎっていた。が、実際のところ靴屋の住み込み店員をやめて月に7万円前後のバイト代で生活をまかなうとなると息をしているのがやっと。とてもじゃないけど数万円の学費など払えるわけもない。
 そんな私の事情を、黒い財布の紳士は知っているようだ。彼の「お小遣いあげようか」と言う口ぶりでそれがわかるのは、子供の頃から大人の顔色を見て育ったからだと思う。

 彼は建設会社の社長でバイト先の女主人のパトロンだった、ということは当時は珍しいことではなかったのだろう。ママは「今日は彼が来るから早めに帰るわ」とか「昨日は伊勢丹で洋服を買わせた」とか、厨房を仕切っているキミさんとよく話していて、バイトの私に隠すそぶりもなかった。 私が働き始めてすぐ、彼がやってきた。
 「コーヒー1」、覚えたばかりの伝票を書こうとしたらママから「あ、いいから」と手で押さえられた。彼とママが連れ立って出かけると、厨房の女性は人差し指を唇の前で立てて「ママね。彼のおめかけさんなの」と声を潜めた。ついでに厨房の女性は36才でママは33才と教えてくれた。

 春から夏が過ぎ、秋風が吹く頃になると学校がない日にはママが食事に連れて行ってくれるようになった。カウンター席のこぢんまりした和食屋だったり、奥まったところにある女言葉を話すおじさんのバーだったりとママの行きつけは、19才の私には渋すぎる。できれば友だちと一度だけ行ったピザとバンジョー演奏の店、『シェーキーズ』のような店のほうが嬉しかったけれど、そんなわがままは言えるわけもない。
  「鮭、焼いてもらうけどあんたもそれでいいでしょ?」
「はい」
「私はもう一杯水割りを飲むけど、あんたはご飯? 
しょうがないわね。この子にご飯あげて」
 銀座のクラブで働いていたというママは高級な服や靴を身に着けていたけど、どことなく投げやりで寂しそうだった。

 そのママの顔が変わった、と思った。朝一番、喫茶店のシャッターを開けるのは厨房の女性のキミさんで、開店から1時間たった10時が私の出勤時間。ママはそれから30分前後に横柄な態度で店に入ってくるのだけれど、「あはは。土曜日、六本木に飲みに行って朝までよ。Tさんは早々に帰っちゃったから、じゃあ、もう一軒行こうって」と、ママの口から言葉があふれて止まらない。
 「へぇ。珍しいわね。で、誰と飲みに行ったのよ」とキミさんが目を丸くして聞くと、「あはは。行きつけの寿司屋の男の子ふたりとよ。26才と25才で26才の子のほうは板長なんだって。あの子たち中学出て15から働いているから10年選手なのよね」

 その日から変わったのはママだけではない。週に一、二度、ママのお供で25才のカッちゃんが仕切っている寿司屋のカウンター席に私も並んで座るようになった。ママも自分の気持ちに気づかないうちはパトロンと2人で行っていたけど、さすがに3日に空けずだと「なぜ?」ということになる。そこで腹っ減らしの私にお声がかかったというわけだ。

 茨城の山間部に近い故郷にも寿司屋はあったけれど、それは生寿司と言って滅多なことでは口に入るものではない。上京してからもこの時まで寿司を食べた記憶はない。
 「いいわよ。好きなもの食べな」とママは人が変わったようにやさしい。赤貝、鳥貝、ホタテ。私が貝が美味しいと言ったら次は黙って店中の貝が私の前に並ぶようになった。うに、とろ、いくらの味もこの時に覚えた。

 板前のカッたゃんはとてもいい人で、「お腹が空いたらいつ来てもいいよ」と言ってくれた。ママにその話をすると「でも千円は払いなよ」と言ってまんざらではない顔だ。
 36才にして欲得なしで好きな人を見つけたとは言わなかったけれど、ママの弾むような声や仕草はまさに恋する女そのものだ。
 ママは私を帰した後、いったん自宅に帰って着替えをして深夜に店をはねるカッちゃんと待ち合わせをしてデートを重ねるようになった。

 ママの顔色が冴えない。年が明けたら顔色が悪いどころか黒ずんできた。その日は店に這うようにして出てきたのだそう。
「昨日の夜、彼と一緒にいた時に倒れたのよ。ちょっと喧嘩になってね。最近のお前はおかしいぞと怒っていたんだけど、そのうち別れたくないって泣くのよ。私もどうしようもなくなって水割りを飲んでいたら意識がなくなっちゃって。
 で、病院で診てもらったら肝臓が悪いんだって。それで明日から入院することになったけど店、どうする?」
ママはキミさんにすがるような目をした。腕を組んで事情を聞くと「私は店、開けたいわ。生活があるもの」とキッパリと返した。開店当時から8年間、1日10時間、週に6日働いてもキミさんもまた私と同じ時給だったのだ。
「ふん、都合よくつかうだけコキ使って」 ママが入院をして私と2人だけになったらキミさんの怒りが止められなくなった。 毎朝、申し訳程度に私の前に置かれた薄いトーストが、倍の厚さになって「いいわよ、食べな」とカウンターに乗せた。
「まったくさ。若い男と体壊すまで遊ぶなんて経営者失格じゃない? あれじゃ盛りのついたメス猫だよ」 ミキさんは数年前に彼氏ができたときに、ママからさんざん罵倒されたのだという。「なんの特にもならない男に身をまかせるなんて、気がしれない。男の価値はまず金よ。その上で性格がいい悪いって話。当たり前じゃないって、こうよ」と言いながら洗い物の音が大きくなった。
「でね。さっきママから電話があったでしょ。ここ3日の売り上げを彼に渡して欲しいって言うんだけど、あんた行ってくれない?」 こう言ってパトロンに渡す売り上げの入った茶封筒を渡されたのだった。
「ふふふ。あんた、彼氏から何か聞かれるかもよ。ま、上手にやりな」 そういうとキミさんは私にウインクをした。

パトロンはママの恋の相手を知りたがっている。その名前を私から聞き出そうといているのは会うなりわかった。店には滅多に顔を出さない彼とは話らしい話は一度もしたことがない50過ぎたおじさんは、しおれかけの草木のように頼りなかった。彼から「お小遣い」をもらうには寿司屋の店名とカッちゃんのフルネームを言えばいい。

あれから50年近い歳月が流れ、折々にあの場面のことを思い出してきた。
あの時、「お小遣い」をもらわなかったのは私にしては上出来の選択だったと思うけれど、それは高邁な精神などでは決してなくて、単に貧乏過ぎたからだと思う。
数枚のお札と引き換えに自分を売り渡したらギリギリのところで自分を支えていたつっかえ棒を無くしてしまうと感じたからだ。

しばらくして地方都市の時計屋の娘と仲良くなった。
「あら、なんでもらわなかったのよ。私だったら『いくらくれるの?』とストレートに聞くわ。バイトを辞めても当分食べられるくらいのお小遣いを貰えばよかったのに」と笑われた。確かにそうだ。が、それが出来る自信は今もない。
ちなみにママとパトロンはまもなく別れ、カッちゃんは郷里に帰ったと聞いた。それぞれの消息もとうに途絶えている。