小森俊明
7月7日に行われた都知事選では現職の小池百合子氏が当選し、3期目に臨むことが確定した。およそ予想通りであったが、事実として眼前に突き付けられるとやはり釈然としない。そもそも今回の選挙期間中、在来メディアの代表たるTVにおいては、現職の小池氏に対する必要な時事的論評が全くと言って良いほど行われず、表層的なイメージを意図的に先行させたプロパガンダ報道でほぼ一色であったと断じて良い。前回の都知事選の際に持ち上がったカイロ大学首席卒業という学歴詐称問題、市民から批判の声が挙がっている神宮外苑再開発問題、そして少し遡れば、コロナ禍下で開催された東京オリンピックにまつわる諸問題等について、真正面から報道し、色の付いていない公正な専門家による論評を紹介するという、本来必要なメディアの役割は一切放棄されていたと言うべきである。それは根本的には、小池氏が実質的に支援を受けている自民党の下請け広告代理店である電通が、この国のTV番組のCMを采配していることによる。しかし、小池氏に投票した都民がみな、これら選挙戦に必要な情報を覆い隠した報道を鵜呑みにしていたとはいくら何でも考えにくい。おそらく、上述の3つの問題に限っても、小池氏が抱える虚偽発言や民意無視の姿勢について、都民はある程度は知っていたに違いない。それでも、それらを隠しおおした在来メディアと、ほかでもない小池氏自身のイメージ先行による街頭パフォーマンスの印象が勝り、それらに流されてしまったのであろう。この国の残念な文化コードの代表格である、「空気」に流されてしまったと言い換えても良い。
さて、唐突であるが、ここで芸術の話に移りたい。筆者が制作や演奏で常に関わっている舞台芸術にせよ、主に渉猟や論評で関わっている他の芸術分野、例えば美術にせよ、それらで必須の表現上の論点の一つが、不断の変化であると考えている。分かりやすく言えばマンネリズムの対極となる。無論、変化は新しいもの、意外性を含んだものをいつも生起出来るとは限らず、後退したり、分かりきったものを招来したりする場合もある。むしろ、そうした場合も含めた何かしらの変化、ただし、大局的に見て前へと進んで行く変化が重要である。全く新しい作品を制作する場合は、これまでの作品からの変化を求めることが特に重要であり、既存のある作品を再表象する場合であっても、いつも同じ仕方であっては芸術としての意義は薄い。それは、音楽でも舞踊でも演劇でもそうである。そして、不断の変化は、数ヶ月という単位では大きなものではなくとも、数年、あるいは数十年を経て大きくなって行くことが理想である。無論、変化の形が近代における例えばダーウィニズム的な進歩史観や、芸術の領域における20世紀的な前衛主義の進歩史観に擬したものであれば、それはアナクロニズムであり美学的に大いに疑義が呈されるべきであろう。また、マルクス主義的な唯物史観に擬するというのも、私見によれば一つの思考実験としてならば興味深いものの、実践には程遠いに違いない。さて、差し当たって筆者の専門分野である音楽に限れば、変化を目指すことが比較的容易な表現営為は、作曲である。作曲においては、そのプロセスにおいて熟考が可能であり、そこには過去の自作の振り返りと、それらと作曲中の作品との照合・比較も当然含まれ得る。その次には即興演奏が来るであろう。このやや特殊とも言える表現営為においては、即時的に音楽を生成して行かなければならない表現形態の性質上、熟考とは無縁である。しかし、全くの白紙状態から表現が可能である点において、自由度が高いと言える。そして、変化を目指すことが比較的難しいのは、既存の作品を演奏するという表現営為である。特に、クラシック音楽のように楽譜というエクリチュールによって、表象される音響の基本的な形態が固定されている音楽の場合はそうである。しかし、熱心なクラシック音楽愛好家が、例えば数十人に及ぶさまざまな指揮者によるマーラーの交響曲第○番の演奏を聴き比べて、その差異を楽しむことに象徴されるように、同一作品を演奏するにあたっては、同一の楽譜に基いているのにも拘らず、差異を招来する余地を実は少なからず残している。この差異が、積極的な変化への意思の結果として、同一人物による同一作品の演奏において不断に現出することが求められていると、筆者は考えているのである。そして筆者自身の演奏においても、このことには常に念頭に置いているのである。
ここで都知事選の話に戻る。今回の選挙において、小池氏と一騎打ちを演じると目されていた蓮舫氏は善戦したとは言い難く、ほぼ無名の石丸伸二氏の得票数が小池氏のそれに次ぐという意外な結果となった。石丸氏はYouTuberさながらの動画を最大限に活用した戦略により、これまで政治への関心も政治に関する知識もなかった、20〜30代の若年層を取り込んだことが、得票数の予想以上の増加に結び付いたと言われている。端的に言えば、解禁されたネット選挙という、現代の最先端の選挙手法を最大限に生かしきったということである。石丸氏は既存政党を否定し、新しい政治を目指したという。そのような姿勢が若年層を惹き付けたのは間違いないが、そうした政治手法、そして選挙手法の「新しさ」と、それらが予告し得る「変化」への兆しの担い手が、自民党裏金問題に象徴される古い政治からの真の脱却、そして真の「変化」への舵取りを期待されていた、知名度抜群の蓮舫氏よりも大きな支持を得たことに注目したい。実のところ、石丸氏の選対本部長は自民系の小田全宏氏であるなど、実質的に自民党がバックに付いているのである。こうした事実が在来メディアにおいてはほとんど可視化されていない点においては、小池氏の偏向した政治手法が隠蔽されている点と共通しているのである。その小池氏を支持し、投票先に選んだ都民はと言えば、彼らは総じて「変化」を望まないひとびとであろうと推測出来る。そして、小池氏を応援する自民党とその下請け広告代理店の電通、電通に忖度するTV局という三位一体の利権共同体もまた、言うまでもなく既得権益の死守のために「変化」を拒む存在である。「変化」の拒否と、偽装された「変化」への共感、否、付和雷同。これは、現代日本の政治や社会に根を張る最大の病巣である。
さて、芸術は、自在な変化を可能とし、多様な生き方と投企を可能とする。少なくとも、この国においては、現在のところ芸術にこそ可能性がありそうだ。しかし、筆者は芸術と政治の双方において、変化を求めたいと考えている人間の一人である。