連載小説『天女』第三回

南清璽

 確かに、ある種、無償の行いだった。だが、ここに高貴な動機があったのだろうか。敢えて、無償としたのは、昇華させる意味を持たすためだった。そう、あくまで無償の行いだったと。一方、臆面もなく、この昇華という言葉を使うこと自体、いわば自己陶酔であり、その先々のことを暗に示す感があったと今になっては省みられるのだった。もちろん、全く自失していない訳ではなかった。さらには、ややもすれば、実体のないものにすがろうとするかの、あのありがちな趣ではないし、ましてや自惚れとも違っていた。それは選民思想に近いもので、いわば、頼れる異性は私の他はなく、換言すれば令嬢にとって無害な存在に過ぎなかっただけだ。

 淡い恋心。もし、そういったものであったなら殊に説明など要しない。むしろ、興味心から、あるいは、スリリングな体験を求めたとも云うべきであろうか。私は、たちまちのうちにある筋書きを創り出していた。そう、令嬢がこのお屋敷を出ることについて。

 事の発端については、梗概を述べればいいのであろうか。令嬢には許婚者がいた。聞くところによると資産家の御曹司とのことだった。でも、乙女として、恋もしてみたい。その折は、想いを寄せる人はいなかったにせよ。そういった処だった。だから、その許婚者との婚儀を受け入れられるはずがなかった。そんな心持ちを私に打ち明けたのだった。

 それに、女子高等師範学校に進学を望んでいらした。まだまだ学びたい、そんな令嬢の心情にも私には肯うべきものがあった。でも、そんな話の最中であるにもかかわらず、理知的な処が覗いしれた。はにかみ内気な仕草を取るのが常だった。その一方では、怜悧な面を持っていた。でも、それは、いささかその内気とそのあどけなさのためか屈折していた。

「この家を出て、どちらかに身を潜めるのはどうでしょうか。」

   私が、こういった提案を施したのも、令嬢の心持ちを忖度した結果だった。ただ、冷静に思い直してみると杜撰さは否めなかった。これで縁談が破断になればとの想いからだったが、これが思惑通りになるとの確証はなかった。目論見は、こうだった。令嬢が出奔し、それが、社交界で噂され尾ひれが付き、醜聞となり、許嫁の耳に達したらというものだった。私は、社交界との人脈といえないまでも、あ種の繋がりといえるものさえなかった。もっとも、そういったものと繋がった者との知己はあった。ここで“そういったもの”としたのは、その者が、社交界というより、むしろ、その暗部といえるものに知悉していたからだ。

 翌朝のこと。私は令室と一夜を過ごした臥床を抜け出し、ピアノと向き合っていた。そうしてかの“月光”と称されている奏鳴曲を弾きはじめた。

 気づけば、令室の姿があった。既に私の背にしなだれかかっていた。それにしても、如何なる面持ちでいるのかが気になった。見れば、作為ともとらえられる薄笑みを浮かべていた。だが、私は、平静を装い、ピアノを弾き続けた。そうしつつも、そこにある笑みの意義は何であろうとの考察は巡らしていた。一つは、私に対する愛玩だった。しかも少しの蔑みを伴いつつ。一方でジェンダーとしての愛らしさ意図的に表象させようとしたのかもしれない。

 令室の心底においては、異性から愛らしさ、愛おしさを感じてもらいたかったのかもしれない。令室の普段のあり様は、ある意味、彼女の片意地であったともいえる。そう想うと今度は、それが、高貴な意味合いにとれる次第となった。確かに、人間の本性には、意地汚い面がある。高貴さを悟られないためにも敢えて、作為的にしているかの様に装う。ただ、令室のそういった面、つまりは、知性を重んじる面に共感をいだいたのも事実だった。普段から会話にあまり形容詞を使わなかったが、それは、もちろん、主知的に物事を観察しようとする心持ちの顕れと考えた。

 我が背にある令室の頬。きっと私のピアノに何かを感じてくれている。何かを。でも、それを言葉で表すと安っぽくなる。