私の舞踊史Ⅵ

柴﨑政夫

 

 私が所属した俳優協同組合付属養成所では、様々な先生の指導を受けることができました。ここは日本を代表する声優達が有名。声の技法に関してトップレベル。だから売れる売れないに関係なく、その技法を学ぼうとしました。

 特に、勝田久先生には大変お世話になりました。後年、「バレエ上達へのヒント」出版の際に巻末文寄稿をお願いしました。

 彼はその頃「声優学院」を立ち上げ、自主独立をめざしていました。今をときめく黒柳徹子さん共々NHKに採用され、様々な声で認められました。

 特に「鉄腕アトム」のお茶の水博士役、環境に配慮した車「プリウス」の宣伝で知られました。

 歌唱は寺原泰子先生でご主人は作曲家の伸夫先生。ともにロシアで学び、ハチャトリヤンの唯一日本人弟子でもありました。

 歌というものは技巧面では改善できうるものだが、声質・響き方・体格からくる制約に制限される。

「先生、私はあなたに一生ついていきます!」などというのがお決まりの日本の子弟関係ですが、条件が違えば、子弟といえど登るべき山も違ってくる。

 オペラ・オペレッタの場合、新作以外、ある程度の予想はつく。

 古典劇も同様。ただ、商業演劇や映像媒体となると経営優先。学ぶことより商売優先。それが当時の一般常識でした。

 その結果、慎重に時代を読むことや自分を印象づける工夫を学ばぬ限り、「使い捨て」されるのでした。とはいえ、皆、積極的に挑戦し、自慢し、傷ついてました。

 私は3オクタ-ブの音域の歌唱が可能でしたが、

「そろそろ専門分野を絞り込む時期が来るわね。」

「日本は芸術家にとっては大変よね、生活保障がないまま頑張っているんだから。」

「役者とダンサ-と歌手と音楽劇。それぞれ条件が違ってくるから、苦労を重ねて努力すれば、その方向性もしっかり見極められてくるから。頑張ってね。」

「バレエ!? あれは大変よ。特別体力いるから。」

 何のことかわからなかったのだが、寺原さんにとってのバレエとはソビエトバレエ:ハチャトリヤンやプロコフィエフのバレエ。

 日本では、通常バレエは古典。過去の作品:チャイコフスキ-やバレエ・リュスの名作だったが、「ジゼル」「ロミオとジュリエット」には共通のマイム学習が必須だった。

「春の水」「スパルタカス」「石の花」といった作品がソビエトバレエ。

 日本でバレエと言えば「くるみ割り人形」「白鳥の湖」「眠りの森の美女」の王子達。この違いに気づくには、少し時間がかかった。

 過去の日本の舞踊界には出発点の相違がある。

 日本ではモダンダンスが先で、クラシックバレエは後の導入となる。

 大正期に帝国劇場のロ-シ-門下生から海外留学した現代舞踊関係者(モダンダンス現代舞踊界)と戦時中に亡命来日したエリアナ・パヴロヴァに始まるバレエ関係者団体とでは基となる立脚点が異なっていた。

 お姫様と王子の物語の復元や再現をめざすバレエ界では、ポアント技法習得だけでなく、脇役であろうとも、必要な役であれば進んで受け、共同で舞台を盛り上げるといった精神的努力が求められた。もちろん、お姫様と王子様は外国人招聘を前提にして。

 現代舞踊界では、西欧列強に追いつき追い越せるメッセ-ジ表現が必須で、加えて日本人がもつ特有の表現手法の発露が求められた。

 それを助けたのが日本古来の武道による演舞である。

 事実、私がバレエに本格的に関わった時点で、公共施設における舞踊とは「日舞と洋舞」という括り分けが存在していた。

 バレエとは「過去の偉大なる時代の再現であり、幸福な過去」を見せる芸術であった。

 対する現代舞踊では「今をいかに生きるか。そのポイントは何か。」に焦点を当てていた。

 既にアメリカの大学教育では舞踊専門家による履修証明として、証書発行がなされており、様々な形態の舞踊が創作されては消えてゆく状況にあった。

 時節はポストモダンダンスにとどまらず、その先その先へと進化・先鋭化していった。

 これを憂えたフランスでは、1970年代頃、国立の舞踊機関が創設され、当初はアメリカから指導者を招き入れ、やがて、大陸側の指導者を雇用するようになった。

 こうして「今を生きる舞踊」コンテンポラリ-ダンスと称される芸術に発展してゆく。

 その頃、発声法に関していえば、欧米の音大の教育方法の違いが、日本の音大に多大な影響を及ぼしていた。寺原先生から受けた指導を基に「息を完全共鳴させる発声法」をめざした私の努力は、自学自習によって作り上げたものだった。その結果が「通る声」となるものの、役柄限定の足かせともつながっていった。現実に、英国風、イタリア風、ウィ-ン風、そのほか、一国ごとにスタイルの違いは生じる。発声、演技、舞踊等それぞれに「伝統だから」という制約はつきまとう。

 私の興味は名作古典劇・近代劇の再現とミュ-ジカル創作に集中しており、日本特有の時代劇や日舞には無関心だった。他の者は生活重視。端役であろうと舞台・テレビ。映画出演を目指していた。

 また、芸幅には人間誰しも限界はあるものだ。早くもそのことには気づいていた。

「ちょっと気になるけど、売れない役者さんタイプね。肺結核の書生さん役ぐらいかしら。」と言われた。だから、翻訳演劇の外人の役柄に力を入れた。

 ここらで大学の話に戻ろう。

 大学の同級生も半数以上減り、残った者は、高専から超一流企業に就職し、この大学へ派遣された実力者だけ。六大学卒業してから企業就職という選択よりも、一芸に秀でた猛者ばかり。これがこの大学の他には見られない特徴である。

 ただ、英数に強い彼らの弱点は語学。一般教養とドイツ語関連の常識は私にとっては得意分野。ほとんど評価A。グリム童話の「赤ずきんちゃん」源訳にふれたのも、この時だった。

 実技・実験に彼らはめっぽう強い。氏名順の組み合わせでロシア語を学ぶ者と実験ペアを組まされた。

 昨年まで交流のあった慶大生がフランス語だから、語学基礎学習の素養は、英独仏露とそろったことになる。(カンツォ-ネ歌唱の伊語も)

 ちなみに私の専門は理論物理。華々しく大統一理論がもてはやされる時代だった。

 9月、大学の生活協同組合内の理髪店に入ったとき、ラジオから流れてきたのが30分特集による新曲紹介だった。たまたま時間が重なった。

 それが「喝采」という曲だった。DJが聞き手で歌手本人が出演。心情を吐露→「絶対にヒットさせなくてはいけないと感じている」と明かした。

 当時、マスコミは作り出した3人娘に夢中。宝塚を1番で卒業した者、盛夏の爽やかさで人気獲得から、秋の寂しさを歌う者、銭湯テレビ番組の「隣のお姉さん役」からアイドルに転身した者、といった具合に、作られたアイドル全盛時代が繰り広げられていた。

 1曲売れれば、その次その次と、賞味期限が切れたように、連発するレコ-ド業界。

 何も考えずに、それらを購入する固定ファン達。まるで中高生や子ども達の小遣い目当てに営業しているような状況だった。

 しかもタイトルは過去の名画の題名を流用。だから「またか。」と感じたものである。

 当時の親からみれば、「いや、むしろ、高校時代までは無邪気に遊んでいてほしい。幸せな思い出を作ってほしい。現実はつらいから。」という裏腹な見解もあって、大学生になれば、世間の厳しさもわかるから、その前に少しでも先延ばししたい。というのが世間の一般化した「ささやかな幸福感」を願う時代だったかもしれない。

 その危うい時代感で「喝采」はじわじわ売れ始める。

 最初は「わけのわからない曲」だったが、やがて、自分の過去の生活と、今いる状況との違いを浮き彫りにさせ、反省→わからない→悔いはなかったはず、といった自問自答を繰り広げる内容に関心が集まってゆく。

 この年は「ディスカバ-ジャパン」をスロ-ガンに、11月までは前半トップに立った曲が逃げ切る形で歌謡大賞を受賞。企業戦略は功を奏したかに見えた。

 この勢いで12月に突入する計画だったのだろうが、そうはいかない。

 観客は愚かではない。「師走間近の終末感でめでたさも一区切り。」という思いが流布。

「自問自答する自分たち」にピタリと適合する「喝采」に注目が集まる。

「何で候補曲に!?」から「今年の本命に」とわずか1ヶ月でひっくり返ってしまった。

 企業戦略に乗ったジャンボ歌手の歌もよかったが、宗教的雰囲気が漂う雰囲気のため最優秀歌唱賞止まり。

 かつて安保闘争時に半年ずれて売れた歌と同様に、世間の不安をあおるような形で売り上げを伸ばした。あのときは死亡事故が発生。再び、世の中に「確かなものは何一つない雰囲気」が蔓延しだした。

 大学の仲間うちでいくら「いい曲だ。すごいよ。」と言ってくれても、いったん広い世界へ出てみれば、「考えが甘いよ。現実の厳しさを知れよ。」そんな状況だった。

 大学卒業も英会話資格も名門学校というレッテルは剥ぎ取られ、実力があれば通用するが、あくまで実力次第という見方が浸透していった。

 名門大学とか、1番といった肩書きは意味をなさず、現場で使われてみて、初めて評価されるという時代へと変わっていった。「塾に行かなきゃ一人前になれないのか!?」「能力ないね!」という見方で判断された。

 その反動は「二人だけの愛の巣作り」といった小さな社会の中だけでの幸せを求める切ない形に移行。貧しい日常でも愛がある生活を描いた曲が売れ出す。皮肉にも、神田川沿いの下宿、近くに銭湯、これが私の実生活そのままだった。

 映画テレビではそれがよしと宣伝されるが、現実はそんなものではない。

 何かが終われば、何かが始まる。その繰り返しの中で、やりくりを工夫しなければ、明日への活力は生まれなかった。

 やがて高層建築が始まり、マンションと称する建物内での生活が東京では当たり前となってゆく。

 その直前、貧しいながら近所づきあいのような人情感あふれる時代を過ごせたのがせめてもの慰めである。