なぜ日本に移住したいの?と聞かれたら…

クリュエワ みか

俵屋宗達・楊梅図屏風

ある国に生まれ、その国にずっと住んでいる人が、いきなり別の国に移住したくなるとしたらなぜでしょうか?理由は人によって様々あるのは当然のことですが、私はそのような人の一人として、自分自身の理由をよく聞かれることがあります。そしてその都度、どう答えたら良いのかについて毎回悩んだり迷ったりします。「簡単に言えば…」と始めようとする途端、簡単にはまず言えることではないという事実がすぐ発覚してしまうからです。

日本は、私が住んでいるロシアより、気候が心地良いとか、生活のレベルが高いとか、人々の心が温かいとか、安全性が強固だとか、そんな単純な理由になりそうなものを朝から晩まで列挙できるかもしれませんが、そのようにしたとしても一番大事な本質的な理由の尻尾は捕まえられず、真相をちゃんと伝えることはできそうもありません。なぜかと言えば、たとえその表面的で常ではない物事が全部変わったとしても、常にある何かが疑いなく残るばずだと、確信しているからです。その常にあるものとは、心の繋がりであり、いわば魂の絆であると、私はそう思っているのです。

絆とは何なのかと解説しようとすれば、それは目にも見えず手にも触れられぬかなり微妙なものであり、頭で理解するよりも心でだけ感じ取ることができそうなものであり、親子の絆のごときものであると言って良いのではありませんか。そして私がどのようにしてその絆を発見したのかについては、長くなるのを申し訳なく感じながらも、大事な節目だけに触れながら、そのストーリーを最初から語らせていただきたいと思います。

私は当時ソ連と呼ばれる国に生まれました。ソ連時代のロシアでは日本に関する情報がほとんど記載されていませんでした。質の高い商品を製造する国だとか、日本製のものは手に入れればみんなに羨まれるような最高なものだとか、というイメージでした。ソ連が前世紀90年頃に崩壊したおかげで、徐々に欧米や極東からの情報や映画などにアクセスできるようになっていき、それは日本という国の面影に邂う好機にもなりました。最初は無意識にだけでしたが、気になることが多いなあと感じて、分かりやすいというイメージの中国に比すれば、日本のほうが随分と奥の深く、興奮させられるほど魅力的で不思議な国だと気づきつつありました。

あの頃、極東マーシャルアーツに興味をもって、中国製や日本製、そして極東についての欧米製の映画を色々観まくっていました。そのうちある日『ゴースト・ドッグ』というアメリカのマフィアの映画の中に突然『葉隠』という本が現れて、私に圧倒的な印象を与えました。映画から憶えた感動的な引用を頭の中で何度もめぐらしていて、やはり露訳であってもどうしても全部を読みたいと思うようになってきて、本を買って何回か耽読していました。それは日本との出会いの過程において、初の運命的な機縁となるものでした。

『葉隠』はそれから長年にも亘って大好物な手元の本になりました。現代生活やロシアなどに全く関係のなさそうな武士道だと思われても、武士道はともかく、いつも自分の居場所を探し回って戸惑っていた私にとっては、日常生活の相談窓口にまでなりました。

例えば

「大雨の箴と云ふ事あり。途中にて俄雨にあひて、濡れじとて道を急ぎ走り、軒下などを通りても、濡るゝ事は替らざる也。初めより思ひはまりて濡るゝ時、心に苦しみなく濡るゝ事は同じ。これ萬づにわたる心得也。」(『葉隠』より)

とても賢いそのようなお言葉に、何度も何度も精神的に救われる時もありました。

あの頃ロシアは酷い経済危機に陥った結果、社会は組織化しつつあった暴力団に支配されていて、庶民の方からみれば、あたかも封建時代だったかのように、戦国時代だったかのように、誰でも生き残るために心を武者の心に成さざるを得ない、という感じが空気中に滲んでいました。私も同じように、『葉隠』を導く光にして、心を鍛えようと、整理しようと思いながらも、人生の道を歩んでいました。そして同時に日本についての様々な情報の断片を心の中に積み重ねておいていました。大和魂というものと何か強い縁があるのではないかと、時折考えをめぐらすこともありました。日本語を知れれば良いなあと直感として思ったりもしていたけれど、勉強するまでの決意に至ってはいませんでした。

私は子どもの頃から様々な言語の勉強の経験があります。英語は勿論、それからイタリア語、フランス語、ラテン語、スペイン語、ヘブライ語、チェコ語、中国語まで勉強しようとしたという試みの結果としては、英語は自由に読めるようになったが話すのはちょっとぐらいで、イタリア語はある程度使えるようになったがその初級といえるレベルで停止してしまい、他の言語はあまり進んでいませんでした。なんか中途半端な奴だなあと、自分を責めることもありましたが、必要な限り利用できる程度で十分だと、内なる声に諦めさせられていました。その経験をもって、日本語を勉強するのはどれだけ大変なのかは、一目瞭然で明白なものでした。勉強に挑められれば良いなあと何度も感じていたのに、漢字がめっちゃ多いし、文法が難しそうだし、語彙力を修めるのは無理に近いものだし、という理由で予め諦めてしまっていました。

それから長年が経ったけれど、ある日若者の友達にアニメを観に行こうと誘われて、尊敬した友達だったので、乗ることにしました。そうしたら想定外なことに、アニメのファンになってしまいました。時折優しくて落ち着いたストーリーであっても、時折残酷で刺激的なストーリーであっても、その中の雰囲気には、その裏からも、何か不思議な光が輝いているような、何か表現できないくらい心の温かみが顔を出しているような、何か親しみのあるものがあるような感じに見えました。骨身に染み入るような親しみを感じ取っていました。

様々なアニメ映画を観るにつれて、日本語の勉強に挑む欲求がとにかく強まっていきました。そしてある日、一見しては日本語と全く無関係の『トーキョーグール』アニメ映画の中の、主人公の金木君が小学生の少女に漢字の魅力を熱心に説明するシーンをきっかけに、私の迷いの塁(とりで)がやっと降伏しました。日本語を真剣に勉強する決意ができました。そして三年ほど、毎日毎日勉強を最優先にして、徐々に読めるように、書けるように、話せるようになっていったのです。日本語能力試験も受けることにして、一発で四級、それから次の年に二級に合格しました。自分でも驚きました。「なぜそんな熱心に日本語を勉強するの?」と知り合いに聞かれて、どう答えたら良いのかさっぱり分からなくて、「愛してるからかな」としか答えられませんでした。

それを説明する際には、十九世紀ロシアの有名な小説家のツルゲーネフ氏の言葉を拝借するしかないと思います。

「疑ひ惑ふ日にも、祖國の運命を思ひ惱む日にも、御身のみがわが杖であり柱であつた。ああ、偉大にして、力强き、眞實にして自由なるロシヤ語よ! 御身がなかつたならば、今、わが國に行はるるあらゆる事どもに面して、どうして絕望に陷らずに居られようか? 然しながら、かかる言葉が偉大なる國民に與へられたものでないとは、到底信じえられぬことである。」

(ツルゲーネフの『ロシア語』より)

私にとってはそういうものであるのは、生まれながらの母国語であるロシア語なのではなく、不可思議なことに、日本語のみだと分かりました。なぜでしょう。ロシア語が好きでないわけでもないのに。ロシア語が好きだけれど、他の言語と同じように、ただ好きに過ぎないという程度です。日本語とは違うのです。どうしてツルゲーネフ氏はロシア語に対してそう述べられたのでしょうか。私には分かりません。でも本当のことを言うならば、丁度そういうことなのです。私の心の杖であり柱であり、偉大で、力強くて、自由で、真実なものであるのは、日本語だと、堂々とそう感じていて発言することができます。日本語をどうしても母国語にしたかったから、熱心に勉強していたのです。大袈裟に見えるかもしれませんが、本当のことなのです。

尚、ツルゲーネフ氏の仰る通り、その偉大なる言語を話している国民も、人々の一人一人全員、偉大であるに違いはありません。そして私にとっては強い親しみを覚える人たちだと、はっきりと認識してきました。日本という国も、その言語を話す国だからこそ、母国にしたいと、しみじみ感じてきました。当初そんな形で「日本に移住」プロジェクトを開始しました。最初から、ある単純な理由での移住というのではなく、母国として「帰国」したいという奇妙な形の動機だったと言って良いでしょう。

そしてそれから、「一体なぜそうなったのか」という謎を、自分の心の中でずっと解こうとしていました。その感情に何か表現できそうな証拠があるまいかと、探ろうとしていました。そして色々見出しました。

想像の世界であったアニメより、もっと現実的な日本と出会えるように、現実的な親しみにできるように、日本の映画やテレビドラマやテレビ番組やニュースなどを毎日視聴する習慣を身につけて、本、記事、SNS、ネット検索等々、頭の中で普段として使う言語までも、全部日本語にスイッチして、あたかもバーチャルな形で日本に住むかのようになってきたのです。言語的な自信を得てから、視聴や読書だけでなく、様々な方と直接に出会ったり、SNSでの日本人のグループに入ったり色んなことを話し合ったり、ちょっとくらい喧嘩もしたり、様々なオンライン講座に参加したり、相談をしたり受けたりすることもできました。

そうするにつれて、道に迷ったり他人の道を歩んだりしようとして失敗ばかりに陥っているといういつもの憂鬱的な自覚の代わりに、生まれて初めて、自分自身の道を歩んでいるのだよと、確実に感じるようになりました。そして日本でのバーチャルな生活を送れば送るほど、その確信が一日一日強くなっていくのです。なぜかというと、自分のやろうとすることに相応しい反応を貰えるようになって行ったからです。様々な繋がりが自然と発生しはじめたのです。奇跡みたいにですね。

私は過去にいつも気鬱だったので、今世紀10年代に四年間ほど精神分析学者にカウンセリングを受けに通っていた経験がありましたが、気鬱の原因を理解も解決もできませんでした。しかし今となっては、あんな気鬱のインナー状態を思い出すことさえもほとんどできなくなりました。最後に、二年半ほど前、ある精神的な迷い(HSP気質)に関するグループに入って同じような気質を持つ方々と出会って相談を受けたことで完全に解決できました。なぜでしょう。バーチャルな形でも日本に居ると、独りじゃないという感じを必ず得ることができるから。それは言わば運命の出会い、運命の人たち、運命の繋がりなのではありませんかと。

一番運命的と言える事例を挙げさせていただきたいと思います。

私は自分の住む都市の郊外にある様々な美しい歴史的庭園を訪れて散歩するのが大好きですが、いつも一人で、ちょっとさみしい気持ちを持つことも時折あります。ロシア人の友達がほとんどいなくて、作ろうとする気もありません。しかし日本人と一緒ならば、良い体験になるのではと思って、三年前のある日そんな考えをめぐらして、ガイドになりたい海外在住日本人と、海外旅行の予定を立てようとする日本人向けのサイト(『ロコタビ』と呼ばれます)に巡り合って、登録に挑戦して、「もし宜しければ、サンクトペテルブルクにいらっしゃる方とご一緒に美しい場所で散策したらと思いますが。」というように投稿しました。そうしたらその夏に観光客さんのご依頼を何件か受け取らせていただくことになりました。そしてまた、生まれて初めて、人と接するのはどれだけ幸せなことかと、実感できました。それは実は恍惚なほど幸せな瞬間だったに違いないのです。全く初対面の方たちだったのに。あたかも、長旅を終えてからやっと帰宅して愛しい家族と再会するかのように、涙が出るほど痛快で、歓喜に溢れる心というこの体験は、一生忘れられません。

ところで、「日本人ってさ、面白くて良い人たちだけど、やっぱり文化的には火星人みたいなのでは」と、ロシア人の知り合いに時々言われることがあります。私にとっては全く真逆なのです。日本人は私にとって親しい人たちで、欧米人もロシア人さえも火星人みたいな存在です。慣習や伝統をなんか不自然に感じ、どう扱ったら良いのかも分かりません。生まれて五十年間もここに住んでいるくせに、全く外国人みたいにですね。

しかし観光客さんたちとの出会いは純粋な喜びだけには留まりませんでした。お土産としていただいた本から、とても大事な人生の手かがりを見出しました。例えば、高階秀爾教授による待遠の『日本近代の美意識』論考集から、日本の美意識と欧米の美意識との対比から、私の「美」の概念を確かめることができました。

「「うつくしい」という言葉が、上代においては親しい人への愛情や、小さいもの、可憐なものに対する愛情をあらわす言葉であり、しかもそれが、やがて時とともに美的性質一般を意味するものに昇格して行ったという事実は、日本人の美意識が、主として自分よりも小さいもの、弱いもの、保護してやらなければならないようなものに向けられていたことを物語っている。このことは、西欧における美意識の根幹であるギリシアにおいて、美が何よりも力を結びついていたことを考えてみると、きわめて特徴的と言ってよい。」

(高階秀爾教授の『日本近代の美意識』より)

しかしそのお土産としていただいた数冊の中で一番大切なものになったのは、別の著者でした。それは辻邦生先生で、その小説が私の人生を画期的に変えてくれました。そのおかげで二十年ぶりに、大切な絵画に戻る決意もできました。なぜかというと、日本の昔の芸術家の物語の中で、自分のやるべきことと、自分の心にありみんなに伝えざるを得ないことは何なのかということとを、期待もせずにいきなり発見して、はっきりと認識することができたからです。

「自由に、鳥獣人物を描いているように見えながら、それは、あらかじめ心のなかにあった形態を、外にただ投げだしているのではないか。おれは水鳥を何枚描いても手ごたえのないのは、それが単なる水鳥であるためであり、心のなかに刻印された形となんの関係もないからではないのか。もしそうだとすれば、おれが何でも自在に描きうるためには、この壁のシミのような形で、あらゆるものが、おれの心のなかに入っていなければならないのではないか。逆に言えば、壁のシミのように、すでに心に形を刻印したものだけが、その画家の描きうる形なのではあるまいか。では、画家が描くとき、何でも描くというのではなく、心に刻印された一定の形を描くのではないか――おれの頭に、その一瞬、これだけのことが閃いたのだ。おれは起きあがると、小蔦太夫がとめる手をふり切って外へ飛びだした。おれは一刻も待つことはできなかった。おれは何もかも描こうと思いつづけた。だが、そうじゃない。ある一定の刻印を描くのだ。そうなのだ、それがおれの誤っていた点なのだ。それを突破すれば、おれはひとつの画境に出られる。そうなのだ、一定の刻印を描くのだ。それはおれの形なのだ。おれだけのものなのだ。」

(辻邦生先生の『嵯峨野明月記』より)

主人公の、江戸時代初期の日本の天才画家の俵屋宗達のお言葉です。

そのお言葉を読んでから、数日間ほど絶えることなく泣いていた記憶がありますが、今でもここに引用を載せる際に再読して、涙を堪えられなくなりました。

私だけのものなのだ、自分の絵画は。私のやるべき絵画はこういうものなのだと、頭に稲妻のように煌いて、その二十年に亘る停止の原因もそこからの出口も一瞬に詮らかに見えてきました。

因みに、初めて絵画に興味が湧いたのは小学生の時でした。レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像や『リッタの聖母』という絵を初めて見て、何かショックみたいな感激を受けました。小学生で何も分かりそうでなかったのに、それには何か本質的なことが、目で識別できないにも拘らず、必ずや乗せられているのだと気づきました。その謎に惹かれて、それから美術史と絵画を、自力で、そして少年少女向けの美術学校に入って勉強しはじめました。15世紀から18世紀に至るまでの絵画にものすごい感動を受けて憬れてきました。高校生の時アート・アカデミーという大学の元のドローイング教室に入学して、四年間通っていました。その後アート・アカデミーの予備校も卒業しました。それから自力で勉強と研修を続けました。古典巨匠たちの技術の謎解きを最優先にして、必ずそのように巧妙に描かなければいけないと決心しました。自分のやりたい手法が概ね分かって、自分らしい絵画を何枚も作り上げて、いくつかの展示会に参加して、専門家にも一般人にも誉められたことがあります。それから1997年に、完璧だと思った絵を完成して、その先の進むべき道のイメージを失くした気がして、それと同時に、金銭的な理由で、余儀なく絵画を停止し、デザイナーとしてある出版社に入社しました。それから例の二十年間以上ずっと、デザイナーやプログラマーなど、即ちパソコンとにらめっこの仕事をしていて、絵画の思い出はけっこう痛かったので、捨てようとしていたけれど、結局できませんでした。様々な形で、あたかも内なる声に「絵画に戻りなさい!」と説得されていたかのようでした。古典絵画の画像のコレクションのサイトを開発しようとしたり、ルネサンスとバロック様式を真似する画像だらけのコンピューターゲームを作り上げようとしたりして、一度油絵も改めてトライしたけれど、それは様々な理由で諦めてしまっていました。実はあの頃、道だけではなくて、自分自身も失くしていたのではないかと思っています。それが故、憂鬱や心の強い痛みに陥っていたのです。

そして日本の友達、知り合い、小説、映画・ドラマ、美術評論や心理学の著書などのおかげで、自分を蘇らせることができました。即ち、今の私は、日本文化にお礼を言わずにいられないだけではなく、今の私がやっていることはせめて半分だけでも、話題としては日本が直接に登場していなくても、精神的には、本質的には、日本に向けてされていることで、日本に捧げられていることなのです。そのため私はいつか、もし何か著しい作品を作り上げられれば、もし日本文化に何かを貢献できれば、外国の画家としてではなく、日本の画家として認めていただきたいという希望を育んでいます。

また、辻邦生先生の大好きな別の小説の言葉も、同じように心に響き渡って、私のやるべき絵画のイメージを完成させました。

「歌は、単なる言葉の遊戯ではない。歌の心、歌の意味は、もう一つの新しい現実の出現なのだ。歌で開かれた舞台に似た世界は、ただ妻戸の向うの庭を見るといったものではない。それが藤色の歌なら藤色に世界が染められるのだ。赤なら、夕陽に野山が照らされるように、現実は茜色に染め変えられるのだ。心が月の光に澄んでゆくしき、実は、この世界が蒼く澄んでゆく。花の色を歌が詠みだせば、それは歌のなかに閉じこめられた花の色ではなく、このよがすべて花の色に包まれ、花の色に染められるのだ。」

(辻邦生先生の『西行花伝』より)

主人公の、平安時代の詩人であり僧侶である西行のお言葉です。絵画は歌と同じように、そういうものだと詮らかに意識してきました。

『西行花伝』をきっかけに、仏教にも興味が及んできて、日本仏教を勉強することにしました。それもまた、人生を変えてくれるとても大事な機縁になりました。私はあくまでも信者などではありません。科学的な立場に踏ん張って立っていますので。しかし仏教のお話は、不可思議なことに、心と強く共鳴していて、心の声にいつも応じてくれます。それはあたかも疾っくの昔から忘れかけた大事なことと再会したかのように、自分のものだなあ、やはり自分のものだよと認識し、いつも仏教の教えを聴きながら頭の中でそういう独り言を繰り返して呟いているのです。仏教のお言葉に支えて貰って、昔に『葉隠』と似たように救われています。「仏縁が強いなあ、みかさん」と時折言われます。なぜでしょう。もしかして、過去世があるとすれば、私は過去世にやはり日本人であって、もしかして尼でもあったのかもしれません。それは全く証明できませんけれども。

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日本文化に対して何を魅力的だと思うのかとも聞かれることがあります。そしてはたまたどう答えればいいかさっぱり分かりません。歴史的な美しい着物とか、尊敬の気持ちを伝えるのにとても便利な敬語とか、山も海もある風景を飾るお寺や神社や鳥居とか、一瞬として見かけた永劫を伝える俳句とか、それ全てが勿論魅力的に感じられますが、それは部分部分だけであり、文化の本質の全てではありません。奥の深い深い本質をどう表現できるのでしょうか。そのためにこそ文化自体が存在しているのではありますまいか。その全体でその本質を伝えていき、受け継いでいきますものね。それは俳優と女優の目にも映っていて、小説家と教授の著作にも映っていて、SNSグループの一般人の挨拶にも映っていて、どこでもいつでもこの真珠を拾わせて貰えます。

私にとってやはり一番魅力的なのは、日本文化の深さと、意思疎通というものだと思います。意思疎通がなければ、単に「まあ綺麗だなあ、偉いなあ、優れていそうだなあ」としか感覚しようがありますまい。私は、昔のロシアの文化とはそういう関係なのです。中世近世のイコンや教会や修道院など、綺麗だなあと、美術史の知識の上では冷淡無情に述べられますが、その裏には何の本心もありません。その文化との意思疎通がないので、その魅力を心底感じ取ることはできませんから。ヨーロッパから借用された『ロシア風バロック様式』や『銀の時代の芸術』などとは別の関係ですが、それはあくまで例外に過ぎないのです。日本文化との意思疎通を、なぜか分からないが自然と持ちながら、ただ言葉を聴くだけで、風景を眺めるだけで、長年解決できなかった問題を一気に解決できるようになったということは、奇跡みたいな繋がりだと思います。文化というのは、美術作品や古典文学に限ってはいません。人間の生活や活動など、人間の行為の全部ということですから。そして私は日本文化の中に自分の居場所を見つけてから、まるでその中からロシアでの日常生活と人間関係を一から見直して、前に全く上手くいかなかった人とのコミュニケーションも、前より順調に進められるようなりました。私は、居場所というものだけではなく、自分自身を日本文化の中に見出して、あたかも再出産されたかのように感じてきました。その魅力は、私の血管の中を漂っている感じがします。また大袈裟に見えるかもしれませんが、同じように、本当のことなのです。

さて、こんなことこそが絆でなければ、絆とは一体何なのでしょうか。私はこれが絆だと思います。そして、日本に移住したい核心の理由はこれであり、他ではありません。