実体験を踏まえた共生社会における現存在の本来性について

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アダルトチルドレン・HSPの現象学・逃走論
サバイバルではなくリカバリーへ

楽園は自分の中にある。もしくはあった。

実存主義の先駆者はデンマークの哲学者キルケゴールで有名です。この文章の前置きとして、両親からの抑圧(両親のことを好きになれない)、自分自身の存在への目覚めというのがあります。キルケゴールは自分の存在(魂)は自分一人だけのものと唱えました。そして自己喪失(自分自身を見失ってしまうこと)は精神の滅びであると。それが肉体の死より恐ろしいと。それは生涯をかけてでも克服すべき絶望であると。

まず最初に現代でも変わりませんがマスメディアの迅速な普及
これによって国民は受け身の姿勢を取らされます。(社会不安やニヒリズム)
自分のしたいことがなんなのかわからず 他人と自分との違いもわからない
嘘や隠し事をしてしまう。慢性的に不安定。信じれるものがない。
何のため生きているのか?自分がやりきれない。こんなんじゃ生きていけない。
私は両親からの抑圧、強い喪失感を感じていました。

私は時給制派遣社員をしていて明日がどうなるかわからない。死に対する恐怖心に怯えていました。その死に対する恐怖心は単なる不安神経症から来るものだったのか、何も楽しいことをしないでいることから来る恐怖だったのか(このまま死にたくない)未だによくわかりません。一番気になったのは心の冷えです。
(例えば学生時代生き生きとしていた人が反社会的な社会、いじめ、性の問題などで病んでしまう。
そういったものを社会の暗黒面と言います)

自分の存在が何なのかさえわからず震えている 15の夜と 尾崎豊が歌いましたね。
そういう状態はよくないです。専門的に言うと自分が傷ついていることに気づいていない。

これを打開しようと、単純に自分の好きなことは何なのか 自分にとっての喜びとはなんなのか?今の自分を苦しめているものはなんなのか? この問いかけは有意義です。この問いかけこそ哲学の根源です。例えば自分が弱いということはそれはそれでいいわけです。(自分が弱い・無力だという自覚は哲学の根源的なものです)わからないことはわからない。できないことはできないわけです。わからならいことは誰かに聞くか調べた方がいいです。
自分の本音・現状を受け入れるわけです。私は自死を考えていましたが、いっそ自分という存在そのもののために生きるという決意をしました。本来性とは明日がどうなるかわからない。自ら存在を規定する姿勢のことでもあるのです。
ドイツの哲学者ハイデガーは自らの存在つまり自分自身のことを現存在と唱えました。

ここで自らの存在について無意識的な掲示・問いかけをすることを現存在分析と言います。存在が行き詰まるという現象をどう処理するかでもあります。
村上春樹さんの小説がいい参考例です。(例えば自分はこういうのに憧れている。でも自分は自分でしかないんだと、みんなはこう言うけど僕はあくまでこうなんだというのは存在意識です。私はその頃夏目漱石と村上春樹さんの作品を読んで衝撃を受けていました)

例えばの話トラウマがあったとして現象の蓄積としての自己に気づき、傷ついていることに気づきます。ここで死を前提としてあるものとして生きる決意性が発生します。(現存在の単独化を図ろうとしました)
※人間の精神は幼少期からの現象の蓄積で成り立っていて、アダルトチルドレンは現象の幼い部分(インナーチャイルド)が傷ついている場合がほとんどです。

ただ世界は広く、人間関係は大変です。ハイデガーは被投性、この世界に生まされた。 世界に投げ込まれた存在であると。
生まれてこなきゃよかったっていうのもある意味真理なわけですよ。
ハイデガーは人間関係を気遣い 自他を気遣って当然と唱えています。ドイツの精神科医であり哲学者ヤスパースは交わりと唱えています。開示性と二人の哲学者は唱えています。存在を孤独に置くことは危険です。存在の専門家はいません。

精神科医やカウンセラーはいますが、存在の専門家ではないわけです。
人間には狂気が内在されている場合もあり、完全な引きこもりになったりすることは危険です。一旦私は衣食住を快適なものにしました。例えばとりあえずお風呂に入ると心身がリラックスします。
他者との個別的交わり、気遣いをへて自分の喜びやりたいことを感じ取っていく。私はバンドを組み(友達とギターや作曲をやったことがありました)、図書館に通い始めました。哲学入門は吉本隆明氏の作品でした。

これは充実です。傷ついていることは明確です。特に交わりは甘え(スキンシップ)の面があり傷を和らげます。友達を作ることも大事です。もちろん自己主張も必要です。喧嘩するほど仲が良いという言葉もあります。ここで傷ついているということは自己愛が強くどうしても利己的になりがちです。自分自身は一つしかない。替えが聞かない。ストレスが溜まるという問題があります。

人間は自分一人では解決できない状況・ヤスパースは限界状況(苦悩・罪責・死・争い)と名付けましたが、そういう不幸に見舞われると病気の中に自分を逃避させる。例えばいじめ・失恋・争い・自尊心の崩壊など。ドイツの哲学者ニーチェはそれをルサンチマン(不平・不満・怨念)から来るデカダンス(堕落)と名付けました。そして素直にその苦しみを開示せよと。ルサンチマンとはこうありたいのに、そうでない。あるいはなかったという現実と理想のギャップであり、自分をどうしようもできないことから来る現実に対するふくしゅうの感情ともいえます。そしてそれは生きる喜び自体を奪います(病んでしまいます)。

そしてそれは科学の力ではどうすることもできません。他者と心を通じ合わせる交わりが必要となります。(自己と自己の結合)私は孤立気味になってしまいました。怒りや孤独を集める、自己の本質を知っている絶望の形態に入ってしまいます。絶望して自分自身であろうと欲する反抗型の絶望。とキルケゴールは唱えました。(今の自分がこうなったのは誰かのせいだと思うようになる)文学者カミュの論理でいくと不条理だからこそ反抗するのです。これでは自分を信じることはできても、自分を認めることはできません。そのままやり過ごしても自分の人生は果たしてこれでいいのだろうかという不安が襲います。自分と自分が離れるという現象があります。
(自己喪失・自己分裂と呼ばれるもので村上春樹さん・ドストエフスキーの小説がわかりやすい例でそれはある意味人間の本質でもあるのです。それらは自己の本質を知っているとも言えます。
サバイバルによって自分を見失うことは自分が自分であることから解放されることでもあり、自分から逃げることでもあります)この論理を唱えたのはフランスの哲学者ロジェ・カイヨワです。そこに恍惚・エクスタシーがあると。今振り返るとそれは単なる逃避であったのか・死を回避するための防衛本能であったのかわかりません。

私は悪意をもちました。私は入院もしましたし、血痰を吐いたりもしました。
そのルサンチマンの感情の実態を私はリカバリーに入る際気づきました。
自分で自分を苦しめていたのだと。マゾヒズム(苦痛と戯れる)をも言えますね。
ちなみに生きるか死ぬかというサバイバルの状況で生きる意志があればマゾヒズムには破綻が生じます。インナーチャイルドの感情が表出するという現象があります。

※本来、限界状況やルサンチマンの感情は有限性=与えられた条件の中で生きていくという、超越者(神)からのメッセージでもあります。
そこで個人は自分自身の現実を受け入れざるを得ないわけです。(与えられた条件を積極的に拒否するケースもあります。)
そして本来の自分として存在するための何かを掴む決断を迫られます。
それはあり方ではなく存在そのものかもしれません。
そしてそれは精神の自由でもあります。
(傷はその傷を受け入れて休息をとることが大事です。その傷がその人の魅力になったりもします。
私は父からヘラブナ釣りセットを買ってもらって風景に意識をむけるということなども試しました。深い傷に気づいたら自分とは向き合えません。)

前の話に戻りますが強い自己愛はアイデンティティを求めます。医学的に言えばアートから性から宗教から薬まで辛い自分と向き合うのを避けるためにあります。無理に自分と向き合う必要はありません。今なら向き合えるというときだけ向き合うことは有効です。音楽青年や文学青年は多いですね。精神科にかかる人、宗教団体に入る人もいます。タナトス(破壊・死の衝動)があるとも言えますね。能動意識でもあります。※医師からの自助努力要請もあります。
※アイデンティティは別世界(闇)に入って行って帰ってくるという感覚です。
村上春樹さんも行って戻ってくるという表現をしていますね。『僕は今どこにいるんだ?』というエンディングが印象的です。
私は純文学が好きなことに気づいて、悪戦苦闘し、生まれてまだ間もない頃の朝を思い出し、結果として三島由紀夫の作品金閣寺の既存の自分を支配しているものを観念として破壊する、歴史の中にいる自分(歴史的存在・歴史的意識といったりします)というのを発見しました。強い快感(身体が震えるような)誇大妄想も生まれました。見える景色は灰色から色彩を帯びたものに変わりました。自然に溶けいるような感覚です。私は元々自己愛・妄想型だったのです。芸術家に多いタイプですね。私は心を病む前は歴史好きでした。その歴史的な存在は抑圧していた両親に近づくことでもありました。ほぼ両親と同化したといっても変わらないかもしれません。それは自分自身として生き残るために必要であったと思っています。※限界状況を限界状況として受け入れたあるいは認識した場合存在意識を変貌させることで自分自身になるとヤスパースは唱えています。(ヤスパース哲学入門・哲学とは?参照)

補足・自己意識(肥大化した自我)が求めるものは根本的には欲望と承認です。

この時点で自分が好きなことは何なのか見えてきているわけですね。自分が好きなことは自分を支えます。私は自分のことをあまり嫌な人間だと思わなくなりました。私は音楽やドストエフスキーや中上健次を代表とする実存主義文学(今では古典文学です)と言ったものの虜になりました。図書館で文献を漁る楽しさもしりました。歴史サークルにも入りました。そして自分のペース、スタイルを得ました。周りの目もあまり気にすることがなくなりました。自分を演じたくないと思いました。自分軸と最近言ったりしますね。錯乱もありましたが、wordに思っていることを書いたり(錯乱の整理・存在意識の流れを感じる)、投薬を受けました。大学病院で発達障害の検査も受けました。

ちなみに現代思想では昔からそのとき自分を支えてくれたものを人は無意識に大事にすると唱えられています。私は精神科医の書籍なども読みましたが、やはりやりたいことをやってほしいと論じられています。(欲望)
私はカウンセリングも受けました。人から話をしっかり聞いてもらうとやりたいことをやりやすくなります。私はだんだん自分のことを好きになりました。
その実感を大切に好きなことを勇気をもってやっていく。これはリスクを伴いますが楽しいことです。もちろん休息も必要です。存在の専門家はいませんが現代では哲学書も誰でも読めるように漫画で販売されています。(キルケゴール作・死に至る病、ニーチェ作・アンチクリストなど)
ここでまた人間関係、気遣い交わり、開示ですね。これも一つの人間らしさです。生き残りが優先する現代では人との心の繋がりはとても大切です。
ここで人間関係において認知というものがあります。認知行動療法と言いますが私はいろんな発見をしました。
・ストレスを意図的に抜くこと(一旦生活を快適にする。嫌なことをしない)
・内面悪(心を悪に染めたり。快楽に溺れたりしないほうがいい)
・他人を傷つけると自分も傷つく(自分が傷ついているから他人を傷つけるとも言えます)
・趣味より日常生活を楽しむこと
・有神論的実存主義 自分の良心が神の存在と繋がっていること(それまでは無神論者でした。真理・本質はない。ただ個人的快感を求めるだけであるというニーチェ的発想でした。交わりについてはキルケゴールなどを読んで漠然と大切にしていました。(他者による自己確認といえます)神の存在を否定して何でもしていいというのは間違っていた。根本的には希望がなかったとも言えます。それにはルサンチマン(不平・不満・怨念)の感情があったと)
・利己主義に走ると孤独になる、自分が孤独であることを認める必要があるということ
・疲れたらサボること(努力ばかりではダメ)
・暗号解読=自分で自分の頭を整理すること
・人間は他者との関係性の中で生きていること
・強い不安に逆らうとパニックになる、不安をしかるべきものとして受け入れるとただの不安ですむ
 (パニック障害になったことがあります。)
・私利私欲の欲望より長い人生を大切にすること(病気であれば治療を優先すること)
・絶望状態でも将来をイメージできればそこまでなんとか生き残れる
・フロイト論人間は嘘や秘密を隠し通すことはできないということ
・人間は自分がした思いを人にもさせてしまうということ
・素直であること
・自分で苦しむことから来る非行(リストカットや自殺未遂、性的倒錯)には何の意味もないということ
・トラウマだけが傷ではない、現実と理想のギャップが傷であったということ
・深く考えすぎる必要はないということ
・他者への働きかけとその反応が希望であったということ
・限界状況(苦悩・罪責・死・争い)の存在があり、それが発病原因になっていたこと
・自分を大事にが他人を大事に

行為ではなく認識だけが世界を普遍のまま変貌させると三島氏は金閣寺の中で書いていますが、私はその通りだと思いました。
最終的に自己と他者は全く別の存在、自己を喪失しているわけではなく本来の自分を取り戻しています。これは単純な心の回復です。私は喜びであり慈愛の涙を流しました。生きていたいと思いました。同時に心の中で両親と和解しました。私はまた歴史の中にいました。

(ハイデガーは良心の呼び声。世間に流されたことによる自己喪失の負い目、自分自身へと戻る姿勢と唱えています。)

自己の存在は何だったのか?事実存在・ありのままの自分だったのです。現実に今、この世界に存在しているわけです。それを現実存在としての自己と言います。(良心がある・いつか死ぬことを知っている。自分があって世界があるという感覚です。)私はそれを現実となったありのままの自分の再生と名付けました。実存は本質に先立つわけです。本質の外に立つこと、現実的になった存在ともいえます。

そして大事なのはその受け入れです。それによってその存在の在り方・好きな価値観を発見することができます。あえてリカバリーを取ることもできます。(自責・自己憎悪からの解放・情緒の安定化もできます)

※30点でもいいから自分の存在を認める。これを自己受容といいます。自己評価とも言えます。

※自分を発見して自分に帰り、自分を現実のものとして直観するというのもすでにヘーゲルが歴史哲学講義にて唱えています。

サバイバル~リカバリーとなります。

(なぜリカバリーが必要か?)
私的にはそれは肉体反応論というのがあると思っています。
どんな病気でもまず最初に肉体が反応を出します。
心身はかつてない程疲弊すると神経症の中に逃避し、神経症が酷くなると死んだ方がマシになります。つまり肉体が反応を出した時点でリカバリーするのが安全だということです。
リカバリーモードでは休養・治療のほかに本来自分がしたいことや将来のことを考えてみるというのがあります。

次に内面悪について 私の個人的に好きな価値観です。
絶対悪の存在があります(麻原・ヒトラーなど)
女の子あるいは男の子はトラウマ的なものから自由になれない。他者への悪意 自分への憎悪があるわけです。それを内面悪といいます。内発的なものです。魂が悪に染まるとも言えます。(内なる悪)

これはトラブルの元、下手したら刑事事件ですね。善意の他者との交わり わかりやすいのはカウンセリングです。この場合の善意とは社会的善意です。人間には良心の呵責があります。ドストエフスキーの作品では内面悪に取りつかれた青年が人を殺してしまう。そして大地に跪いて懺悔するというのが出てきます。交わりは心を通じ合わせることに繋がるケースがあります。
私も非行から号泣したことが何度かあります。私は共生社会の中で狂気を持ってしまったのです。
ちなみに古代の哲学者ソクラテスは魂を悪に染めるなら死を選ぶ。善のために生きる。
しかし経験的な現実存在がその人のすべてになれば何が何でも生き残る姿勢をとるべきであると唱えています。
※自分を憎むもの他人をも憎み、他人を呪う者自分をも呪うのです。

(内面悪と芸術)
ショーペンハウアー哲学になりますが、幸福はこうなったらいいなというイメージであり、実態は不確か。それで満たされない欲望は苦悩に変わります。
苦悩は他人の不幸を喜ぶようになる。つまり悪意が発生します。
それを中和するのは音楽や詩つまり芸術であるとショーペンハウアーは唱えています。
これはわかりやすいですね。
私が大好きなバンドNIRVANAのAll apologiesでは俺たちはみんな何者にも勝るかけがえのない存在と曲のエンディングで唱えています。
自己と他者は全く別の存在、それぞれがかけがえのない存在なのです。
これはわかりやすいですね。
私が大好きなバンドNIRVANAのAll apologiesでは俺たちはみんな何者にも勝るかけがえのない存在と曲のエンディングで唱えています。
自己と他者は全く別の存在、それぞれがかけがえのない存在なのです。

精神医療は薬物中心になっていますが、自己と他者の境界がつくか、本来の自分に近づいているかという本質的な課題から個人はいや存在は逃れられないような気がします。

2023.4.25