『自分が生きることの無駄』(散文)

いとうあきこ

 

 自殺願望が出始めたのは、中学生の頃からだろうか、少なくとも高校生の時には、ひろさちやさんのインド哲学(仏教)や遠藤周作さんのキリスト教の教えを含む小説をむさぼり読み、さだまさしの歌を聞き、心を維持したものだ。新興宗教にも自分から加入してしまった位だから(お金をやたら取られるので早々に辞めたが)、高校生以降は確実だ。

 少し昔で言う暴走族の頭がやる、赤信号を突っ切る「特攻」を、高校時代から自転車でやっていた。だから実家のある地元にいた18才までに4回交通事故に遭っている。警察官に状況を聞かれ、「ブレーキをかけなかった」と答え、「なんで?」と聞かれても、話したところで理解してもらえないだろうと、何も答えなかった。罰せられても良いと思っていた。若い女性が運転手で動揺していた時は、可哀想なことをしたなと思った。でも中には、自転車の曲がりを力で直しただけで、去ったオヤジもいた。大人なんてこんなもんだ。

 実は、今でも横暴な運転の車が向こうから走ってくるとそのまま突っ込んでやろうかと思い、道をギリギリまで譲らない。正直かなり迷惑な奴である。どうせなら高校生位で死んでいたら良かったのに。交通事故に遭わないようにしようと思ったのは、長男のおかげである。前夫の子である長男は、私が死んだら、独りぼっちになってしまうから。それだけで若い時代は生きていた。

 

 しかし、自殺というものは、そうそうできるものでないことが良くわかる。自分から死を選ぶ人が色々な気持ちや状況であるのだろうと推測はするが、自分で「死にたい」と思ってもそう易々とは叶わない。道路で足を踏み出すことすらできなかった。

 ある時、「人に迷惑をかけない」自殺方法を考えてみた。

1 青木ヶ原樹海へ行き、出てこられなくなり餓死。

 青木ヶ原樹海まで行く前に道に迷い、たどり着けない気がする。

2 ビルから飛び降りる。

 遺体を片付けてもらうのが申し訳ない。他の人の迷惑になる。

    3 どこかで首をつる。

     2と同じ問題あり。場所によっては事故物件になり、迷惑をかける。

    4 車や電車に飛び込む。

     2と同じ問題あり。

    5 手首を切る。

     3と同じ問題あり。

    6 睡眠薬を沢山服用する。

     3と同じ問題あり。

    7 東尋坊から飛び降りる。

     これは2と同じだ。

    8 入水自殺

     自分にはこれが一番良いと思った。問題は、やはり水面に浮遊したり、浜に打ち上げられた遺体を誰かに処理してもらう可能性があることだ。サメにでも食べてもらい、マズイところだけが沖に漂ったり、頭蓋骨などが沈むなら、まあ良し。

     

     摩周湖で死ぬ?

     北海道の摩周湖は、現在は人の手が加わってしまったため、多少生き物が住み、今は透明度が世界四位まで下がってしまったのだが、昔は生き物が存在せず透明度は世界一位だった。湖なのに、湧き水や山からの入水で水量を保つそうだ。

    『ここで入水自殺をしたら、遺体は腐敗するのだろうか?』

     生き物がいないということは、餌になるプランクトン、微生物、つまり分解者がいないということである。ということは、有機物である遺体は分解されない。学問上はもっと細かくなるだろうが、少なくとも素人考えではそういうことになる。

     世界一透明度が高い摩周湖で、星空の元、美しいブルーの中、呼吸を奪われ沈んでいく、美しい死に方だと思った。湖を汚すのだから、自己満足の骨頂でもあるのだが。

     方法を考えてみた。いかだに重しと自分が乗り、自分の体にその重しを付けて、ある程度の場所まで行く。入水時にいかだの縄を手早く切る。木片や縄が浮遊したり、湖畔に流れ着いても余り不審に思われないかもしれない。実はエンジンつきボートを使い、入水時に湖畔へ向けてエンジンをかけ戻すなども考えたが、やはり痕跡が残る。景観も害する。それに比べるといかだ作戦はかなり良い。そもそも摩周湖は湖面まで傾斜が激しく、地元の管理的にも簡単に人が下りることはできない。ここなら誰の目にも触れず、遺体回収にひと様の手をわずらわせることなく、湖底に沈んでいられるかもしれない。

     そもそも、生まれてきたくなかった。生きることは地獄だ。物質世界に生れ落ちたために、身体という肉ごろもを保たなければならない。身体の不調は、家族や社会に迷惑をかける。洋服を着なければいけない、状況によってはその場にあった服装、清潔さ、靴とのバランスなども求められる。私は現在一日一食だが、それは恐らく普通ではない。動物の人間としてではなく、「社会で生きる人」は、他の「人」と同じことをしなければならない。だから仕方がない時は周りに合わせる。

     食べ物を消費し、空気を汚し、肉体維持に金を使い、電気やガス、水を使う。自分にお金をかけたいと思わないのに、死ねない限り生きるしかない。

     肉体だけでなく、魂自体不用と思い、どこかで消滅してくれたら良いと思っている。私が産まれ生きてきたがために子たちも、この世の中を生きなければならなくなった。輪廻転生なんぞまっぴらだ。どうせなら地獄にいたいと思う。痛みや苦しみ・恐怖を味わっても、好きに叫ぶことも泣くこともできる。でも「人」の社会では、好きな時に感情を出すことはできない。仮にやったところで、何の解決にもつながらない。

     今は家族を持ってしまったため、家族の迷惑を考えるとすぐにはできないのだが、昔は「肉体は、必要な人にあげれば良い。生きたいと願う人に必要な内臓を譲り、事故や病気で亡くなってしまった人と自分が代われたらどんなに嬉しいだろう」と思っていた。彼らには死んで悲しむ人がいて、命が助かって喜ぶ人がいる。多分、昔の私にはそんな人はいなかった。

     こんな愚痴のような文章を記す事態、恥だ。太宰治は、自分を蔑みながらもとても優れた小説をいくつも残している。だが自分は何者でもない。世の中の役に立たない地球の害虫である。あと何年生きるのだろう。早く死にたいものだ。この思いは何歳でも変わらない。早く死んで、仕事で心身をすり減らしている長男を始め、家族に保険金を回してあげたいものだと思う限りだ。