ゴミ収集労働における「相互承認」と「追跡調査可能性」(一)

田中聡

 2015年3月30日、
大田区大森清掃事務所西分室の建物の前にての
私のゴミ収集作業員制服姿)

〈0〉導入


 以下において、実際に私が東京都23区のいくつかの区のゴミ収集の清掃労働(ここで清掃労働という時は、ゴミ収集を意味する)のお仕事を、公立清掃事務所の非常勤の臨時職員として、あるいはゴミ収集雇上会社に遣わされた職員として行った事を通じての「経験」を参考に、廃棄物を回収し再生するプロセスをめぐる、新しいNature(自然・本性)と「経験的」である事について、「相互承認」及びゴミの「追跡調査可能性」に着眼した上で、これから私の拙く小さいヴィジョンを拙く模索させて頂きたい。
 それは20世紀において、多くの国の民主化の過程において、民主化を唱えつつも、「一方的」な権力関係を温存し、「相互作用的」な関係を取り込むことが出来てはいなかったのではないのか? という問いを、ごみ収集清掃労働の正規・非常勤(派遣労働者、アルバイトを含む)の関係、及び業務委託されたゴミ収集雇上会社での労働において考える事に繋がっていく。
 その際に「承認」という事が重要になってくるのではないか? と私は考えている。即ち相互作用と考え合わせれば、「相互承認」が、ゴミ収集において如何なる表れ方をするかを考えるべきではないのか?
 こうした中での「相互承認」についてのパースペクティブを、今回掲載の(一)の〈1〉と〈2〉において、原理的かつ体験的な視線で少し見渡したい。
 その上で、次回掲載の(ニ)の〈3〉では、そうした「相互承認」を、無線ICタグ(RFID)による「ゴミの追跡調査可能性」と関連付けつつ模索し、その上での現時点での小括と問題提起へと繋げさせて頂く事をお許し願いたいと思う。
 

〈1〉相互承認

 
 人間の労働の多くは、これまでの世界史において、生産ー消費に関わって来た訳であるが、ゴミ収集の清掃労働者の関わる清掃事業は、更にその先の廃棄ー回収ー再生という過程に関わるものである。そうした過程において、それぞれの労働の良し悪しの相互承認をし、更には良心をもった労働をしなければならない。これは案外簡単ではない部分がある。ごみ収集そのものは、それほど複雑な事はやっていないのかもしれないが、その相互承認は、案外難しい。それはなぜかと言えば、証拠が得にくいから。
 何しろ、清掃車(ゴミ収集車)の投入口の中に「物」を放り込み、機械の作動においてその物を打ち砕いてしまえば、その物を清掃労働者がどう扱っていたかという証拠が残りにくい。勿論、例えばシュレッダーごみや厨芥ごみの微妙な入れる方向や着地位置、手の力の入れ具合、等の加減によって、破裂させ無残な飛散を生み、道路や清掃労働者自身が汚れてしまう事象が生じ、その結果の写真でも撮れば、それがその労働者の廃棄「物」の扱いの悪さ、下手くそさの「証拠」になるのかもしれない。しかし、どういう物が、どういう具合で入れられていて、他の入れられつつある物同士とどういう押しくらまんじゅうの状態にあったかの微妙な状況によって、飛散するか否かはかなり変わってくる。その瞬間の状況は「証拠」に残りにくい。そうであるのにも関わらず、その労働の、しいては労働者の良し悪しを判断しなければならない。そういう難しさがある。
 例えばケーキ工場なら、ケーキ職人がおいしいケーキをどう作ったか多くの同僚の衆目に晒され、さらにその結果として生じてきたケーキという「物」がどうであったかが証拠として歴然と残り、試食会でもすれば、判断が分かれるかもしれないにせよ、上手いまずいの判断材料は安定的に「物」として与えられている。あるいは、心臓外科医の心臓手術であれば、手術の結果、心臓がその後、どう動き、心臓の主の人間が健康であったか、という証拠がやはり「物」として与えられる。
 しかし清掃労働のように、はじめから「物」が壊され、清掃労働者が扱う瞬間には、いわば物が(証拠)隠滅される事が大前提の労働は、どういう労働が、労働者が良いか悪いかの判断は、物という証拠抜きに、立場の強い労働者個人の判断に委ねられてしまう事が多い。
    そして、長年の経験のある労働者の、他者としての労働者への判断は、しばしば大きく分かれてしまう。それは、長年の「経験」における、自らの清掃労働への判断が多様である上に、「証拠」が残りにくいが故に、経験者同士が、お互いの判断の正誤について討議しづらいのである。試作品のケーキをテーブルに載せ、ケーキ職人同士が、その出来映えについて試食の上に討議する、という具合にはいかないのである。
 そのように討議が、完全な形で遂行しづらいのにも関わらず、お互いの労働の「良さ」を相互承認し、良心をもって労働しなければならない。しかし、それが、証拠がないが故に、場合によっては、声の大きい者、強気な者の言い分が、あたかも正しいような感じになる事もあり、それに不満がある者は、確たる証拠がなくともとりあえず反論しなければならない。それでも証拠不十分な中では討議の決着は付きづらい。そんな中で、清掃労働の細かい方法については、その多様な経験からくる多様な方法論は、決定的な対立は避けたまま、ふんわりと、ナントナク共存しているしかない状況になる。
 公務員の清掃労働の貴重な「経験」が、近年の業者委託によって、伝承されない悪弊が指摘される事があるが、そもそもそれぞれの清掃労働「経験者」の「経験」への「判断」の良し悪しが、確たる証拠を得られぬまま、多様に分裂し、その上での共存を、長年の清掃労働経験者同士、あるいは清掃労働への派遣労働者と清掃正規職員同士がしなければならない。
 清掃労働そのものは、それほど複雑で難解ではないのかもしれないけれど、そこでの「経験」への多様な判断への相互承認は、案外難しいのである。
 ところで、例えば派遣労働によるゴミ収集臨時職員は、業者委託によって公務としての清掃労働での「経験」やそこから生じる(善悪・正誤への)判断、分別が伝承されづらくなっている状況を改善する責務を担っている。いわゆる「業者」の清掃労働において、例えば、回収してはいけない事業系ゴミを、不燃ゴミを回収してしまったとして、住民の方は、持って行ってもらえて「サーヴィス良いのね」と喜んだとしても、それは資本関係、リサイクル、清掃工場の機能の維持といった事から好ましくない。しかし一度業者委託してしまうと、そういう好ましくない、悪しき事をしているか否か、公的機関としての清掃事務所は認知出来ない。はじめから、清掃労働の事象そのものが、ブラックボックス化され、隠されてしまう(この事は、藤井誠一郎氏が明晰に指摘されている通りである。同氏著の『ごみ収集という仕事ー清掃車に乗って考えた地方自治』{コモンズ、2018年}参照)。しかも、やはりその悪事の「証拠」は残りにくい。例えば、あの業者がゴミを棄てた後はいつも工場が作動停止する、というと、何となく乾電池等の不燃ごみを違反的に積んでいる事がバレるかもしれないから、全くの証拠なしとばかりではないかもしれないけれど。それでも基本的に、証拠がない。
 しかし、ただ生産ー消費を尊重してきた近代社会的価値観とは異なり、廃棄物を回収し、焼却・再生する時間・過程をも含めた労働の価値判断を新たに創出する責務を、公的機関としての清掃事務所と各業者は担っており、しかしそれでは足りない部分を、非常勤職員や派遣労働者は補い、公務員としての清掃労働者と協力し、きちんとした分別をする「良心」を成立させねばならない。
 しかし、そうした良心的清掃労働の「相互承認」は案外難しい。たとえ、委託業者の労働の如くブラックボックス化されていなくても、現場で共に立つ正規職員と派遣等の臨時職員との間でも、上記のような理由から、その「良心」の「相互承認」の難しさが間違いなくある。その難関を、如何に乗り越えていくかが、清掃労働・ゴミ収集労働での、正規・非常勤両者、公立清掃事務所・ゴミ収集雇上会社両者の成功不成功の一つの鍵であるように、私には思われる。

 
〈2〉受動的のみでも能動的のみでもない相互作用的な関係


 しかし現状は厳しいかもしれない。

 本当はもっとflatで「相互作用的」であるべきなのに、奇妙に「一方的」な人間/対話関係が、少なくとも東京都23区の清掃事務所やゴミ収集雇上会社では生じているのではないか?

 即ち、仕事における「認識」をめぐって、例えば公共の清掃事務所の、ゴミ収集正規職員と臨時職員とが、反論し合うような議論を少しくらいしても良いのに、私の見てきた現場では、そうした臨時職員が正規職員に反論に次ぐ反論をしたりでもしようものなら、100年に一度のとんでもない事が起きたように正規職員の方は怒ってみたりの過剰反応をする。 或る種の正規職員の方は、「お前たち臨時職員の『意見』なんてどうだっていいんだ!」と「一方的」に宣告して、それが世間の常識であるかのように諭そうとしてみたりする。  
 正規職員の、臨時職員の仕事の内実への「認識」など間違うことは山ほどある、毎日のようにあると言って良い。同様に臨時職員の方も仕事自体やそれをする正規職員への認識で間違うことももちろんある。双方が「間違うこと」が毎日のようにある。ゴミという変幻自在なものへの認識は単純でいて意外に難しいことがある。  
 そういうお互いの「間違えやすさ」を普通のこととしてお互いに共有するような事こそが大切だとも思えるが、多くの場合ゴミ収集正規職員の方は、臨時職員からの反論が気に入らない、激昂する、みたいな事が多い。    
 謂わば多くの場合、自分たちは間違えないのだ、という事を何が何でも前提にしたがっているようにも見える。プライドでも傷つけられるのか? と思えるほどに。臨時職員の反論は多くの場合謂わば「口答え」として扱われてしまったりする。もしそれを口答えというのなら、大いに「口答え」を臨時職員は正規職員に向かって行い続けるべきではないかと私は心底真摯に考えた事がある。「口答え」をしつつの相互作用的相互対話を導くつもりで大いにやれば良いではないですか。
 例えば某区の清掃事務所で出会った、土木課から移って来た清掃の正規職員さんは、この職場に移って来て、こんなに仕事のやり方で個体差があるのは(公務員の職場としては?)全国的にも珍しい、と思った、驚いたと仰っていた。そうした中で(という事だった気がする)、いじめられそうになった、とも仰っておられた。
 「個体差」の激しさが相当にあるのに、そういう事についてちゃんと話し合おうとしない。仕事のやり方について「統一」するかは別にして、せめてそのやり方の「個体差」の多様さについての自覚に繋がるような議論が、例えば正規職員さん同士で、キチンとした言葉により、緊密頻繁に行われても良いのに、どうもあまりやっておられない印象がある。くだらない陰口や尾ひれのついた噂話やエロ話が横行している割にはである。
 そうした状況において、バイト、非常勤、他の部署から移って来たばかりの「よそ者」が、辛い立場に置かれることも多いのではないか? そして、そういったよそ者や立場の低いとされている者が、正規職員さんに、何か批判的に発言しようとする事自体が、とんでもない、「分」をわきまえない行為だ、とするような風潮が、少なくとも私の見てきた限りの東京都23区の内のいくつかの区の清掃事務所には漂っている。 (もしかしたら、同23区内のゴミ収集雇上会社の正規の社員と臨時的職員の間にも?)

 正規職員(社員)が臨時職員をいかに引っ張っていけるかが腕の見せ所と、正規職員(社員)の方は思っておられるのかもしれないけれど、「一方的」に引っ張っていく、というより、相互作用し合う状況を相互に作り合う事は考えられないのであろうか?正規と臨時、正規職員同士、臨時職員同士が相互に批判し合い、叱咤し合う事が、ごくごく当たり前の事として、常態化せねばならない。たかだか20年だか30年だかの正規職員としてのゴミ収集経験があるなどという事が、そうした方向性を妨げてはならないはずである。

 あるいはこのように公立の清掃事務所の事を批判的に述べていく中で、あり得る反論として、かなり以前から私が想定していたのは、ゴミ収集の世界にそういう悪弊がある事は確かかもしれないけれど、それは清掃(ゴミ収集)の世界だけではないのではないか? 君は他の職業の世界をくまなく見てきたわけではないではないか? なぜ我々だけが責められなければならないのか? そうやって、清掃の世界だけを責めるその姿勢自体に君の無意識な差別的心情が現れているのではないか? というものである。そして実際そういう疑問が、某区のゴミ収集雇上会社のドライヴァーさんから発せられるのを聞いた時はやっぱりと思ったものである。
 こうした反論は、時として「世の中の仕事というものは、大抵は言葉のやり取りが上手くいかずに辛い事はあるのだ。もっと広い意味では、仕事とは大抵は理不尽で辛い面があるのだ。そういう事については『大人』としてただ耐えるしかないのだ。」という世間知、達観的人生観の提示に繋がってみたりする。  更には、「キミももっと色々な職業を経験して、世の中をもっと広く見て来た方がいい」的な警句を吐露する事にも。 
 
 しかし、物が廃棄され壊されると共に、それが生かされるべく生命系においての価値を有するようにしてゆく、という側面を有する、とても現代的で重要なゴミ収集の仕事において、少し先陣を切ってでも、他の職業でもあり得る悪弊を正面からゴミ収集業界が取り上げて変革しても良いのに、と私は考えてみたりもするのである。
 そういうものなんだ、むしろそういう悪弊に耐える自分自身にも理不尽で悪の側面がないだろうか、と「大人の割り切り」をし、自己反省の目を自らに向ける事は、実は最善の選択であるとばかりは言えないのではないのか?

 受動的のみでもない、能動的のみでもない、どちらが指揮命令するのみでどちらかがそれを受け止め、受け入れるのみでもない。そういう相互作用的な関係を導くことが、これからの清掃労働者には出来るだろうか?

 これは本当に未知数な問いだと思える。

 安易に出来るとも出来ないとも言えない。それでも時々私は、「相互作用を導く」という言葉をゴミ収集作業中に思い浮かべ、その未知数に挑戦したくなる。

 思うに、現代のゴミ収集労働においては、(受動的に)廃棄され崩壊しつつあり且つ、リサイクル、廃棄物の資源としての再利用等で、(能動的に)生成も一方でする「物」を扱う中で、「Nature(自然・本性)」に、受動的でも能動的でもない形の権利を与えている。あるいは与えつつある。
 しかしゴミ収集人だけではなく、一般の「住民」をも含めた、多くの人たちが、そうした「自然」への関係性、あるいは、そこから派生する(人間の)「本性」というものを計りかねている、どうそれらを扱って良いか、分かりかねて戸惑っている、そう私には思えるのである。
 故に私は、例えばゴミ収集作業中に、一緒に作業する正規職員・臨時職員を含めた作業員、運転手と言語的にやり取りする時に、先述のように「一方的」である事が起こる事に対して、おかしいと疑問を感じ、それに怒りや憎しみを感じる一瞬がたとえあったとしても、これも21世紀の人類が、新しい「Nature (本性・{人間的}自然)」を自らに見出すまでの、過渡期的現象の1つなのだと割り切り、達観し、そのNatureをこれから発見出来れば良い、とすぐに思い直すのである。

 それでは、上述の相互承認を実際の現場において有効に発生させ、上述の相互作用を帯びた、そうしたNatureを発見するにはどうしたらいいのか。
 更には相互承認は、ゴミ収集者と一般の住民との相互作用的協力関係において、いかに成立が促されるのか?

 次回においては、「無線ICタグ(RFID)」という技術との関連において、これらを考えてみよう。