昭和の時代も懐かしい「私の舞踊史Ⅲ」

柴﨑政夫

 昭和20~26年の間、アメリカ進駐軍指導の下、日本は再生してきた。

 華族制度の廃止、マサチュ-セッツ州制度を基本とした義務教育の整備。外国語の推奨。しかし、直ぐ実現できるわけもなく、努力する体制で教育推進が図られた。

 男女平等、人権教育等は「校内に場を設定」という方策で。

 子どもの会話から、問題点を探し出し、討論や共通認識を深めるやり方で。

 それは、旧来の教育の矛盾を意識させ、家族会議を推奨した。

 これを支える仕組みがPTAだった。

 しかし、伝統的行事が充満している地域では、「学校に行くとろくなことを教えない」といった批判が聞かれることもしばしば。PTA役員になりたがらぬ親も多かった。

 田植え、茶摘み、麦刈り、薪づくり、味噌造り、漬物等は月ごとに繰り返され、冬季の備蓄が不可欠だったから。

 そんな中、我が家と本家では夜な夜なラジオ・テレビ番組にふれる機会が多くなっていった。

 男女平等、人権教育、犯人捜しの探偵物といった勧善懲悪物語に加え、ニュ-スから学ぶ機会が多かったのは、正義の味方作りが急務な、自発的治安対策を必要とした情勢だった。

 アメリカ文化の流行は、少女歌手、子役の活躍する探偵物、正義の味方の事件解決といった番組に接することが許された。

 そこから洋装制作、洋食マナ-と調理法、英語学習等を経て、自立をめざす女性達が育っていく時代につながった。

 幸いにも、我が郷土は銘仙生地の生産地。軽工業は意外に早く好景気をもたらした。

 表裏同じ柄で、やや厚手ながら派手気味の染色は、安いながらややお得感があり、汚れ・しみ抜きにも耐えうる素材として、座布団用にもてはやされた。

 そんな時代にコッペリアやジゼルの完全放送もあった。

 コッペリアは牧阿左美先生、ジゼルは谷桃子先生が主演だった。

 コッペリアは少女探偵団よろしく隣家の様子を探り市長に報告する「勇気ある子」として描かれ、谷先生のジゼルは独創的演出で、(王子様役不在ながら)教育相談者的なアルブレヒト役を創造し、汚れた現実を嫌い、清らかな世界を夢見る少女を導いてくれる案内役として登場した。

→今日的に言うならば、「傷つき、引きこもり状態の少女の心を徐々に開き、新しい世界へ導く教育相談役的人物」として描き出した。

←原作では男女相愛の様相を描くのだが、谷桃子版では「理想世界で自立を夢見る女性」が描かれ、現実世界に傷つきながらも、健気な精神が不滅の証として、森の中の大木に魂に「宿る様が描かれていくという演出は、我が国各地にある鎮守の森の大木に精霊が宿るといった暗示的教育バレエである。

 NHKが丸々放映したのも驚きだが、夜遅くまで、それを見ていられた家にいたということも、違った意味で、新しい時代に新しい生き方を模索する人間として、ありがたかった。←しかし、それは私の進路選択ではなく、周囲の者への思いやり理解の学習として与えられた機会に過ぎなかった。

 5才の時、雪村いづみさんのライブ鑑賞、7才で松竹少女歌舞伎鑑賞、10才で東京オリンピック経験。毎年12月にはサーカス・お化け屋敷・歌舞伎舞踊、加えて日本映画5社と洋画配給会社が連なる町中での恒例行事を経験できた。ただ、松竹と宝塚歌劇は雲の上の存在だった。

 この地に疎開し、戦後、東京で女優になった人もいた。この時代、子役、未成人までの範囲でなら芸能界への出入りは許されていた。

 大人になれば、潔く一般社会へ戻ることが義務づけられた時代だった。

 本格的にやろうとするには、弟子入りする覚悟が必要だった。

 お嬢さん女優、清純派女優で、やがては一般家庭に嫁ぐ約束の上での雇用だった。

 昭和33~34年あたりをピ-クに軽工業は徐々に衰退して行き、やがて電気工業や重化学工業へと推移してゆく。

 この頃、多角経営路線に移行して成功するのが、今日の日本を支える数多の会社である。繊維+鉄鋼+ゴム+塗装を上手く組み込んで自動車工業へと進出した会社、自転車の改良→モ-タ-バイクへ進出した会社、これらの元は機織り機と、それに付帯する文様のプログラム記録だった。これがさらに後にコンピュ-タ改良へと進化して行った。

 適度に働き、週末は適度に遊ぶ。それに関わる洋装と靴、自動車が加わればOK。それが若者の夢だった。

 そこで企業も優良な人物確保の目安として、高卒、大卒がもてはやされる時代になった。三世代が暮らす家は嫌がられ、カップルだけで暮らそうとする人間が都会へ進出。果ては中卒世代までが集団就職で東京へと向かった時代だった。

 時代の先を読む姿勢が求められるように、急激な変化が起こり始めた。

 東京オリンピックはその成果を示す機会とされ、喧伝されるように商店街も活気づいた。

 大正末期のロ-シ-の教育は現代舞踊として定着。舞踊手、振付師、演出家といった分業協力の下、創作を続けてきた。エリアナ・パヴロワ来日後の活動はトゥシュ-ズによるポアントワ-クの技法と作品継承・発展をもたらした。それぞれ、モダンダンス、クラシックバレエの発展をめざしてきたため、相互交流する機会は少なかった。モダンバレエと称する企画も曖昧だった。当時では、バレエ技法を習得した人が現代舞踊風な創作活動を行うという意味合いだった。←しかし、幼児教育においては区別する必要性はなく、徐々に淘汰され、上手い人が残っていった。

 この時期、現代舞踊界からは優れた創作者が現れ、優れたポアントワ-クの舞踊手によって踊られる企画が試されるようになっていった。NHK番組ディレクタ-を務め、後に評論家へと転身した藤井修治さんの手腕が光る時代だった。後々、多少のお付き合いができたのは幸運だった。

 この時期、外国からの舞踊が刺激を与え、技巧のソビエト、品格のフランスと華美なイタリア、宮廷時代とつま先立ち時代をつなぐ貴重なデンマ-クスタイル、シャ-プな動きのアメリカ、伝統演劇と連結する英国舞踊、さらに心理舞踊にまで発展する優れた作品が、日本で上演された。同時に、ソビエトバレエには、サ-カス的なボリショイスタイルと典雅なワガノワスタイルの2種類があることも示された。中でも最高位と見なされたのはG・ウラノワのジゼルとM・プリセツカヤの瀕死の白鳥。といっても実演ではなく、映像公開でのお話。技巧のボリショイ+伝統美のワガノワスタイルの融合の上に、人生哲学を打ち出した芸術。←理論的背景はメソッド演技。

 ネミロビッチ・ダンチェンコとスタニスラフスキ-が作り出した演劇手法は洋の東西を問わず、最高の表現と見なされ、その秘技を世界中が知りたがった。

 アカデミ-賞を獲得する特訓法として、この技法は政治の壁を抜け、人間の本質に迫る心理表現を輝かせた。それが舞踊と組み合わさるのに時間はかからなかった。

 絵画的舞踊ならば世界一と称される舞踊手は、毎年輩出される。それはどう見ても「人形的な美しさ」であり、人の心にしみこむ哲学的教訓ではない。

 指導者が「伝統的技芸の継承」を重視するのか、演じる子の資質を見極め、「その子にしかない表現力を磨き、その子なりの生き方」を表現させるために創造するかの違いである。

 ウラノワは明らかに後者の手法。谷桃子のジゼルもその発展例。これは「瀕死の白鳥」にも当てはまる。幼い子が「死にそう」と踊るのと、名手が羽ばたく中に「人生の様々な苦悩が呼び起こされ、葛藤した果てに、安楽の死を迎える」という舞踊では、自ずと深みが異なるのである。

「かつて慰みものだったバレエが、人生を描く芸術へと導かれました。」と藤井さんは言いました。そこに美男美女は居らず、どんな人間にも共通な課題があり「みんな違ってみんなよい」という生き方を貫く姿勢が描かれるように、舞踊そのものが進化していった時代だったのです。

 また、バレエ教育の視点から橘秋子先生が専門学校教育機関の設立に尽力されました。

 東京師範学校卒業ながら、一念発起し、多忙ゆえ、娘の牧阿左美先生を10才まで養女に出した上での決意でした。

 特に重視したのは「まっすぐに立つ」こと。「体型のみならず、心そのものもまっすぐに物事を捉えなさい」ということ。

 その先は、バレリ-ナ、振付師、バレエ教師、バレエ衣装の専門家、接遇応対専門(受付訓練からホテルマン等)、小道具づくりの専門家、それぞれ将来の道は別になるにしても、ひたすら努力すれば「必ず実を結ぶ」という信念で子女教育を展開。

 その例として、お寺での合宿、座禅、読経、写経、果ては滝行に至るまで、わずか10才ほどの子女に課したのです。

 動きの一つ一つがクリアで清潔感にあふれる動きはこうして磨かれたのです。

 物事の本質を理解するために必要なこととして、トゥシュ-ズを使わずとも、まっすぐに立つ位置が自覚できれば「間違いなく立てる・理解できる」ということを教えたわけです。

 この頃の舞台では、登場人物は演劇同様の衣装がほとんど。重たくて踊りにくい。時代考証もあって、タイツ姿の男性は主役以外なし。演劇でも、ロミオかハムレット役ぐらいなもの。はじめからタイツ姿だったのは、パリ・オペラ座の選ばれた生徒達のみ。ヌレエフが成功した原因にはタイツ姿でのアピ-ルがある。

 今日ではコンク-ルや学校試験でもタイツ姿が当たり前。だから、幼児期からバレエを志す男子を悩ます課題でもありましょう。

 国際社会に通用する日本人、女性の社会進出、職業人としての自立を求め、進路対策の心構えと和装・洋装どちらも身につけた教養人として、必要不可欠な学びと日本の良さに誇りを持つ人間の育成→教師・師範育成→全国支部づくりと発展させる視野を持ち、実現するには、我が子を10年間養女に出す覚悟を必要とした。

 改めて、この親子の師弟関係の偉大さに敬服する。

 今の子は精神力が弱い。加えて、貫徹する者が少ない。有言非実行で探り合い、慰め合っている。

 けれど、最大と最小の努力幅の中で、時の流れに逆らわず、しなやかに対応しながら、諦めずに実行すれば、時節が読めるまで成長できるだろう。

Ⓒ柴﨑政夫『白鳥の湖』2幕より

 加えて、橘先生は完璧なワルツを目指した。円陣と方陣の戦略的手法を群舞に取り込んだ。武田信玄と上杉謙信の戦いは何度も繰り返されたが、決着はつかなかった。甲陽軍鑑という書物には、この円陣と方陣の解説がある。

 牧バレエ団のワルツには、円陣と方陣の体制変化が複雑に組み込まれ魅了する。バレリ-ナには「主役としての資質」が求められるが、それは生まれつきの資質を磨いたに過ぎない。自慢する人から学ぶべきことはない。

 しかし、ワルツの中には、様々な協力、仲間意識、理想に向かって努力する姿、とりわけ「秘技としてのそろえ方」がある。

Ⓒ柴﨑政夫『白鳥の湖』2幕より

 これを身につけた者が、卒業→教師になると認められる。

 ここに、橘先生の偉大さがあり、継承者としての牧先生の努力がある。

 このことは谷先生の秘技としてのそろえ方「譲る」にも見られる。

 ワガノワは「私たちは踊る兵隊を育てるのです」と言った。

「一日休めば自分にわかり、二日休めば相手にわかり、三日休めば観客にわかる」とはウラノワの言葉。

 座禅も滝行も中心軸の確認を行う鍛錬。

「ご破算で願いましては」は私の本の最初の言葉。

「朝日を浴びれば新しい一日。やる気が出る」はプリセツカヤの言葉。

 その繰り返しが生きるということなのです。

 風姿花伝「初心忘れるべからず」は、人により捉え方も様々。頭で考えるだけでなく、自分のすべてを使って学んでこそ、本物の理解ができるのです。

 親が禁止した芸事→他人を見て勉強しろと言われ→距離を置いてみていた自分に時代の暴挙が起こり、やがて、飲み込まれる時代が来る前夜までの出来事でした。