ニューヨーク黒人社会の移住

田高孝

1978年。東北新幹線の開通は、1982年だった。

 彼は、少し、前に来ていた。 モヒカン刈りの白人。刺青を肩に入れ。10人のフリークたちを連れて、アメ横を、歩いていた。ここだ。ここで、一番はしゃぐ。10人のフリークたちが。見ると私の店の柱を見ているのだ。ここに、ある。という顔をして。

 それは、ジャスト2000年前後ぐらいだったな。まだ、アメ横は、イラン人の巣で、私たち商店主たちは、困っていた。イラン人は、テレホーンカードを売っていた。もちろん、アメ横、上野は、住吉連合だから、その下で。今は、いない。上野署が、解決して、彼らは、名古屋にいる。

(この後、すべての写真のキャプションは、1枚目と同じです。)

 さて、2001年に、イスラムのテロ、国際貿易センタービルへの攻撃は起こった。そのころには、もう、アメリカの黒人たちは、日本へ移住する計画に、入っていた。これには、訳があった。アメリカは、ニューヨークは、もう、20年も前から黒人ギャングによって支配されていた。所謂、危ない黒人という流行語が出始めるころ。コンテンポラリーという言葉が、始まったころ。戦前のニューヨークが、マフィア、イタリア・ギャングによって支配されたように、80年代から、アメリカは、黒人の支配を受けていた。

 ちょうど、日本が、在日のやくざに、支配されていたように。

 横道にそれてしまったが、黒人は、この日本やくざと戦うつもりらしいね。

 なぜ?分からん。アメリカ・イデオロギーが、あるからだろう。『反やくざ者の神話学(美学)』があるから。ダーティ・ハリーとか、エリオット・ネスとか、ワイアット・ワープとかの。この白人の理想を受け継いでいるのだろう。「アメリカの息子」(ボールドウイン)。ある意味で白人の良い面を見習ったのだろうか?

 いや、思い出した。これは、シャネルズなどの問題だ。そう、そう、黒人は、日本のやくざ者(いや、日本)を激怒しているのだった。また、横道にそれるな。

 この際言って置こう。そもそもは、シャネルズとアメリカの黒人ロックバンド、フィッシュ・ボーンが、共演したタモリ司会のミュージックステーションだ。あの頃の文脈では、黒人の危ない奴という言い方が、流行っていた頃だ。ラジカルな黒人ロック・グループと、シャネルズの靴墨で、顔を塗りたくった日本人の黒人のしゃれ(おふざけ)の表現が出会った、テレビの生だった。

 フィッシュ・ボーンたちは、シャネルズを見た途端、殴りかからんとするほど、怒ってしまった。

 司会の補佐の女の子が、泣き出しそうになり、危ないことは画面を伝わっていた。その場は収まったが、彼らフィッシュ・ボーンは、故郷へ帰って、これを伝えたと思った。

 ブラック・コンテンポラリーという言葉が、あったころだ。

 さて、話は戻り、この80年代からの黒人支配。一人の白人によって覆えされた。その白人は、コートの下に、レミントン銃を持っていた。ニューヨークの地下鉄。ここが、黒人ギャングの場所。遊び場。白人を、いじめる場所。ここで、その白人は、黒人を撃った。3人。彼は、英雄になった。釈放された。いつもの黒人の支配は、ひっくり返されたのだ。わかるでしょ。ギャングが、何をするか? リンチです。白人をいけにえ。それへの報復が起こったのだ。そして、黒人移住計画は、始まった。アメリカも、長い黒人支配を反省した? ニューヨークの黒人は、一路、日本へ。

「ジャズは、後退戦をしない。」(平岡正明)

 あっさり、東京へ。そこで、モヒカンの白人が、アメ横へきて、うちの店の柱を見て、ここにしようと決定した。最初の拠点づくりの場所を。

 時に、2002年、8月暑い日。アメ横の私の店の前。ピーターが、すっと、立った。ピーター、ボビー。トニーの、先遣隊は来た。

 本当は、もう少し、後にする予定だった。しかし、9.11が起こって、急ぐことになった。

 さて、私は、女の店長と一緒にいつも、働いていた。その子の名を愛ちゃんとしよう。2002年の夏に、第一陣が来たことは、言ったと思う。ピーターが、リーダー。あとで来たジギーさんに言わせると、「キャプテン」。 背は、1メートル85ぐらい。ボビーと同じぐらい。隠して、黒人のヒップ・ホップは、始まった。最初は、内の店のそば、三軒となり。最後に、トニー。プレーボーイ。いきなり、転んで、内の愛ちゃんをナンパして、落として、しまう。しかし、この子が、右翼で、ファシストだった。黒人のトニーは、大失敗。

 おかげで、黒人全員で、トニーを応援し、救う羽目に。くどき方は、すごかった。毎日、アタック。一週間後に、ぴたっと、通路で止まって。愛ちゃんとトニーは、目と目が合って、止まっていた。出来た。だが、さっき言った通り。トニーは、自慢のナンパに、成功したが、うんざりする。愛ちゃんは、言っていた。「トニーは、お酒を飲まないから好き。」と。

 黒人との、ドタバタ道中記は、始まった。

 第二陣が来た。

 KC、ジギー、エマ。ジェイ。ジギーは、広報担当。

 フロリダ出身。新聞を読むインテリで、同時に、空手の有段者。流派も持っていた。蝋踊拳。フェイントで、手を振り上げる空手の流派出身。よく、ロックを歌いあったし、情報交換をした。

 エマは、黒人らしい正直な人。イノシシのような体格。

 ジェイは、テキサス出身。日本人を嫌っていた。でも、良く、英語で話し合った。

 KCは、バスケットが、得意。こうして、続々。アメリカ中から黒人はやってきた。歓迎のあいさつ。毎日。ここから、基地づくりは。始まった。

 ある日、ピーターがやってきて、「ラップやって」という。私は、一旦、レジへ引っ込んだが、すぐ、思いついたラップをやった。

「今日は日曜日。僕は、日本人」と、ラップ。

 そして、翌日、今度は、僕が、ピーターに、言う。「ピーター、ラップやろう」と。

 今度も、僕の勝ち。「明日のために、お酒を飲もう」と歌っていた。

 こういう勝つコミュニケーション(ハプニング・アート)は、私は、十九の頃、得意だったのを思い出した。