夢日記『クリシュナ』

ゴーレム佐藤

 いったいあれから何年経ったのだろう。もはや出発の日もその理由も思い出せない。が、間違いなく私はこの日本に帰ってきた。長年旅をともにしてきたクリシュナとこうして別れを惜しみながら珈琲を楽しんでいる。クリシュナ、というのは名前だったか途中からそう呼ぶようになったのか、それすらも覚えていない。女性なんだからクリシュナはないだろう、などと思いに耽りながら煙草を燻らす。覚えているのはチベットから広大な中国を歩いてわたりモンゴルに入ってからだ。しかしそれももう終わりだ。私達はきっとなにかを探してさまよい歩いていた。それが見つかったのかあきらめたのか、とにかく今は爽快で非常に落ち着いた気分であることは確かだ。探し物は永久に見つからないものだ。しかしそれは同時にすぐ目の前にあるものでもある。何を語ることもなくクリシュナとの最後の時間を互いに見つめあいその瞳の奥に確かなものを感じながら刻んでいく。

 ふと、けたたましいドアの開閉音とともに巨大化した私の妻が入ってきた。妻?そう、間違いなく妻だと頭蓋の中を走る神経線が痙攣する。脇に置いてある新聞を見ると一面を使った広告欄で私を探している。「耐え切れない腐臭で困っています。速やかに始末して下さい。連絡乞う」。妻は私に携帯電話を渡しすぐに電話するよう身振りで示す。電話?いったいそんなものいつから使ってなかったか。しかしこれは間違いなく私の電話だ。果たしてどこへしたものかわからずにいたが(新聞の広告欄も連絡先は記されていなかった)、妻はこの電話が今も使えるものであることを確認しろと言ってるだけのようだった。クリシュナの影が薄くなっていくのが一瞬視界に入った。私は電話のスイッチを入れ、どこへかけるとはなしに思いつくままの番号を打ってみた。もしもし、と相手の声が耳元で囁く。私が電話を切ったとき、クリシュナは微笑みながら背景の窓を透かせて見せていた。「お父さんが亡くなったのよ」妻は唐突にそう言うと新聞の広告欄を指し示した。私はゆっくりと立ち上がり妻になにか言おうとしたが言葉にはならず、背後にいたウエイターの持つグラスの水を飲み干した。感じた。終ったのだ、ここで。いままで記憶の殆どを占めていたモンゴルの大平原が面白いように矮小化されさらに広大な空白が心を占め始めていた。その事に不思議と未練を感じたりすることはなかった。いつの間にか記憶にある小柄な女に戻っている妻に私は、行こう、と声をかけ一歩足を踏み出したとき落としたグラスの割れた破片にはもう、クリシュナは映っていなかった。

(夢日記)

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