泥沼人生にも限界が来る。私がパリで決別したこと。

野原広子

 

 「野原さん、今どちらにいるの?」電話の主はわが洋裁の師のY先生! 4月27日から3日間、東京ビックサイトで開催されているホビーショーに出店しているから遊びに来ない?というお誘いだ。

 実は私、震災の少し前に池袋駅前のカルチャーセンターへ洋裁を習いに行っていたことがあるの。もとから手仕事が好きで高校は農業高校の家政科。

 気に入ったスカートから型紙を起こして色違いを作るくらいはできたんだけど、だんだん我流の限界を感じて、半年コースでわからないところだけチョロっと聞けたらいいかな、くらいの気持ちで入門したわけ。

 当時の私は、その前の20年間、昼夜問わず夢中になったギャンブルから命からがら抜け出したばかりで、何か地に足のつくことをしたかったんだと思う。

 しかし博打はやめても、何かにハマる体質は変わらないんだね。Y先生の大らかなのに要所要所ではキュキュっと抑える鮮やかなテーチング技術に、半年が一年。一年が2年。気がつくと高輪プリンスホテルの飛翔の間に設えたランウェイを、手製のドレス👗で歩いていたの。

 その頃にはもう引き返せないところに来ていたのよね。洋裁をする人のほとんどが落ちる沼に、私はやすやすと落ちていた。

 当時、住んでいたのは駒込。山手線に乗れば3駅目が布問屋の街、日暮里よ。ここにほぼ毎日、通いつめたのわけ。

 問屋街はどこでもそうだけど、集まる客も品物もインターナショナルなんだよね。いつしか聞き覚えのない言葉に「どこの国の人?」と思うこともなくなり、心を動かされた布地を触りながら、脳内で完成品が出来上がる!

 なにせここには1メートル100円の布地が山ほどある。3メートルもあればブラウス👚、スカート、ワンピースだって出来ちゃう。

 あっという間に家の中は布地の山で足の踏み場もない。もちろん、脳内完成品をリアルにすべくミシンに向かいはするのよ。でも圧倒的に布地買いのほうが楽しいんだもん。

 その楽しさがどんどんエスカレートして、上海、台北、ローマ、フィレンツェ、パリ、ロンドン。世界の布地街歩き。いちばん大きな布地街のあるパリには、ムリクリ算段してほぼ毎年かよいつめた。面白いことにパリではハサミで布地を切らないのね。チョンと端をハサミで印をつけたら、どんなに高価なシルク布地でも、力任せに引きちぎる。

 織地はこうして切ったほうが正確に横にカットできるというのは理屈だけど、日本人ならやれることじゃないなと、彼の地のおばさんのためらいのない手を見ていたっけ。

 日暮里もそうだけど、布地街は街の中心から少し離れたところにある。で、間違いなく地元の下町っ子の経営だ。

 とはいえ布地街があるのは東京、パリ、ロンドンクラスの大都会で、街の規模が小さいと布地店が数軒、離れたところにあるんだね。それを訪ね歩くのは足が跳ねるほど心が浮き立った。

 だけど、そんなに熱く燃えた布地愛も終わりはくるんだよね。あれはパリの有名布地店、レンヌね特設コーナーでのこと。この年のテーマが「1960年代の東京」だったのよ。

 たしかに60年代の日本の布地はポップでキッチュでユニークだったかも知れないよ。でもそれは「フランス人から見たら」って話で私は高い飛行機代を払って古びた日本の布地を買いに来たんじゃない。パリ、もっといえばおフランス🇫🇷、おパリを買いに来たのッ!

 で、この日、私は憑き物が落ちたんだね。それっきり、「今ごろあの店のあのコーナーにはどんな布地が並んでいるんだろう」という想像をしなくなったの。

 あれから10年。私がミシンに向かうのは年に数回で、針仕事も滅多にしないんだけどね。Y先生に誘われて店の片すみに座って、吾妻袋を縫った。

「そういえばあの方はどうしているの?」なんて話しながらのチクチクはなんて楽しいんでしょ。

 そうそう。世界の布地集めをやめた私が向かった先は、理想のミシン集め。で、現在7台あります。

 まったく自分の思い通りの服を作りたいという、当初の願いがなぜここまで横道に迷い込むのか。一度ゆっくり自己分析しないとね。