【特別寄稿】蕪村の発句に於ける時間の考察(六)―作為の時間-

桝田武宗

 


 月天心貧しき町を通りけり

 

 先ず、「郷愁の詩人・与謝蕪村」を書いた萩原朔太郎の解釈を紹介しておきましょう。
「月天心というのは、夜が更けているということである。人気のない深夜の街を一人足音高く通って行く。空には、中秋の月が冴えて氷のような月光が独り地上を照らしている。ここに考えることは、人生へのある涙ぐましい思慕の情だ。やるせない寂寥である」

 これが、萩原朔太郎の解釈です。しかし、この解釈は全く的外れな解釈だと言わなくてはなりません。

 この句は、「蕪村句集」を編集した高井几菫が、明和五年八月二日に詠まれたと記述しています。また、最初は、「名月や貧しき町を通りけり」だったと言っています。また「名月や貧しきナチを通りけり」だとすると切れ字が二つ入っているからそんなことはあり得ないという方が多いと思います。しかし、一九八三年二月五日の「日経新聞夕刊」に安東次男が、「名月や」であったと書いているので間違いないでしょう。

「名月や」だとするとこの月は満月のはずです。しかし、几菫は、明和五年八月二日に詠まれたと記述しています。陰暦八月十五日が十五夜ですから几菫の記述通りだとすると、この月は繊月でなければなりません。また、「天心」と記していますから月の南中高度は高いはずです。

 月の南中高度は、太陽と地球と月の位置関係で決まります。仲秋の名月の南中高度は二〇度程度ですから少し顎を上げれば月を見ることが出来て、月見にはもってこいの高さです。しかし、「天心」と書いていますからこの月の南中高度は高いはずです。冬至の頃の月の南中高度は七〇度ぐらいになりますから、そこで、この句は冬の景を詠んだのではないだろうかと推測出来ます。

 何故蕪村は、「名月」から「月天心」に直したのか理由は分かっていませんが、「月天心貧しき町を通りけり」にしたことでこの句は優れたものになりました。「名月や」だとすると、「愛でる月」と「貧しい町」との対比だけで優れた句とは言えません。「月天心」にすると、「冷たい光を放つ冬の満月が天の中心にあって、その下に寝静まった貧しい家並みがある。そのような町を蕪村は静かに通り過ぎて行く」という内容になって、冴え冴えとした月の光の照らし出される人々の険しい生活までを含んだ実景が浮かんで来る句になるのです。

 「涙ぐましい思慕の念ややるせない寂寥」とか言うセンチメンタルな句ではなく、人間が生きて行くことの現実を描写したドキュメントです。 

  俳人・藤田真一は、「俳句は、物や景を詠ずることが運命づけられている文芸であって、人の心を詠み込むには容量が小さ過ぎる。だから、物事の動きや形容に深入りすることを避けて来た。その象徴が、『季語』である。季語の大半は名詞で占められていて、作品全体の立ち位置を決めるほどの意味をもたらす。それが、発句であり、俳句であり、近世一貫として変わらない俳句文芸の特性となって来た」と述べています。果たして藤田真一の述べたことは正しいのでしょうか。私は、ここの近代俳句の根本的問題があると思っています。

 蕪村は、この句を推敲している間にどうしてもこの句は冬の景でなくてはならないと思ったのではないでしょうか。しかし、冬の景なら、「月」と言う季語は当てはまりません。

 月は秋の季語ですからこのズレと句の意味の重要性を較べて、「月天心」としてしまったというのが実情ではないかと思います。そこに、作為の時間が生じてしまったのです。 

 俳句は季語をどのように活かして表現出来るかという文芸らしいのですが、私は、詠もうとする景に当てはまる季語があるとは限らないと思います。俳句には、様々な決まりごとがあるようですが、私は中島真理先生の句会に促されるまま参加しているだけの素人です。素人だから規範の中で生きている人たちが持たない疑問を持つのです。

 蕪村の「月天心貧しき町を通りけり」の句の季語が、「月天心」であってこれが冬の季語であったら作為の時間を作る必要はなかったと思うのです。 

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*漱石も俳句を投稿していた俳誌「渋柿」令和3年12月〈1292号〉より、転載。