『ギリヤークさんと大拙』試論(三)-2020年・横浜港公演をきっかけにして-

田中聡

左がギリヤーク尼ヶ崎さん、右が筆者

 

〈5〉「個人的生命の宇宙的生命に対する関係を感得す。」

    大拙(=鈴木大拙)、そしてギリさん(=ギリヤーク尼ヶ崎)の中には、東洋的な「一」とも言うべきものが脈打っている。

 そしてそれはまず、(少なくとも大拙においては)『碧眼録』に出て来るような「万法帰一」という概念における「一」であると共に、「一人」とか一人称というべき文脈といえるところでの「一」でもある。これらがあたかも円環を為すように繋がっている、ループしている。

 この「万法帰一」の定義は、平田精耕氏の『禅語事典』(PHP出版、1988年)によれば、以下の通りである。

 「この『万法』とは、諸法ともいい、森羅万象(差別的現象)のことです。『一』とは絶対的な本体あるいは真理のことで、禅家では自性・主人公・本来面目ともいっています。つまり、『万法帰一』とは、千差万別の現象は、宇宙の絶対的本体から派生したものだから、結局唯一の絶対的本体に還元されてしまうという意味です。」(40ページ)

 してみれば、先述の円環は、今回の連載の(二)の<4>で述べた、現実世界での演者としての、そして一つの生命個体としてのギリさんと、死んでゆく老婆とが「相即相入(そうそくそうにゅう)」する事に重なるような円環、ループと言えるかもしれない。その老婆は、やがて灰となり、あるいは土となり、(他面では霊魂となって?)一つの命の繋がり、循環へと帰ってゆく。(灰や土と言った物質的なものと霊魂との違いへの検討は、又別の機会に行いたい。)

 そこでは全宇宙において、区別、分別の無い、生命、命(いのち)の「一つ」の繋がり(仮に「宇宙的生命」と考えてみよう)に帰しつつ、そのプロセスを経た上で、尚且つ(地球上では大地において)区別、分別の有る「一つ一つ」の生命の個体(仮に「個人的生命」に重なるものと考えてみよう)に召還されるプロセスがある。

 そうしたところに、大拙やギリさんは、東洋的、そして場合によってはその或る部分は日本的とも言えるものを、観取しようとするのかもしれない。

 こうした「一」の位置付けに必要な条件を、以下で少し観ておきたいのである。その上で、その「一」のループが如何なるものかを模索しておきたいのである。

 即ちそれは、上述の平田氏の書くところの、「宇宙の絶対的本体」としての「一」という事と、一つの命の繋がりとしての「宇宙的生命」との関係性を見極めた上で、一つ一つの生命の個体、更には個人的生命の事をも考慮する、その理路の鳥羽口を模索する事でもある。

 それでは、かつてギリさんが出された写真集『鬼の踊り』(ブロンズ社、1980年)には、画家の林武先生とギリさんの対話が出てくるのですが(39ページ)、その中から少し引用させて頂きます。(上が林先生、下がギリさん。)


「東洋思想の中には、西洋思想に負けない立派なものがあるんだよ。君、”一”ということが分かるか」
「はい、少しは。踊ってて、動きと心が一つになったとき、本当の自分を感じます」

    ここで述べられている「一」とか「心」の事が、前掲の安藤礼二著『大拙』(講談社、2018年)にはいくつも出てきます。その中で、最も印象深い部分(13ページ〜14ページ)を、まず以下に引用します。

 1896年に刊行された、大拙の『新宗教論』の一節が取り上げられています。

「大拙は、自らの信じる『宗教』を、こう定義する・・・(略)・・・『有限の無限に対する、無常の不変に対する、我の無我に対する、部分の全体に対する、生滅の不生不滅に対する、有為の無為に対する、個人的生命の宇宙的生命に対する関係を感得す。是これを宗教と謂う』。

 まず宗教的意識のはじまりには隔絶した二つの極があらわれる。有限と無限、個人的生命と宇宙的生命、等々。こうした二つの極が、二つではなく一つにむすばれ合ったときにはじめて真の宗教的意識が生まれる。二元論ではなく一元論。宗教的意識とは、すべての障壁が打ち砕かれ、森羅万象あらゆるものが『一』となったところにおのずから立ち現れるものなのだ。・・・(略)・・・
 無限を孕んでいるのは人間だけには限られない。天上の星も、地上の『草木』もみなそのなかに無限を孕み、そのことによってすべてはすべてとつながっている。まさに如来蔵思想にもとづいた、現代的な『本覚』の教えである。」

 この安藤さんの記述は、先述の『鬼の踊り』の、秋田は大館市でのギリさんの舞踊の試行錯誤について書かれた部分の「柳の糸と一体になって踊り狂い、私の心は風と共に平野を彷徨い続けた。」(47ページ)という一節を想起させます。柳は地上の草木の1つであるが故に。
   更には、(舞踊評論家・原田広美さんが、ギリさんと直接対話した時の事についてFacebookで書かれた文章を引用すれば)「星を見つめながら『吐く息』『吸う息』を意識して繰り返していると、『星と自分の距離』がなくなり、一体化したような意識になる瞬間が訪れる」と、ギリさんがされていた事にも通ずるとも思われます。

    そして何よりも大切で重要なポイントと思われるのは、上で引用したテレビ番組でのギリさんの命についての言葉における「限りがある/限りがない」を「有限/無限」に置き換えれば、「命というのは、限りがあって限りがない。」というギリさんのご発言は、上述の大拙の「有限の無限に対する」に重なる部分があるという事です。その有限と無限との関係を、「個人的生命の宇宙的生命に対する関係」と並列的に論ずる大拙の論議からは、「宇宙の生命にいつか出会いたい」というギリさんが以前から発言されておられる事柄と、「命というのは、限りがあって限りがない。」という事柄との関連性を予感、喚起させられる。
    即ち、「命というのは、限りがあって限りがない」事が、最近分かってきました、という上述のギリヤーク発言は、ギリさんが“最近”でも、「宇宙の生命と出会う」事を目指しておられる証であり、その目標、「目指し」の現状報告という事が出来るのかもしれません。そしてかなり高い確率で、ギリさんは、ここでの問題設定とその思考を、大拙の著作を読みつつ(もしかしたら、上述の大拙の並列的な論述、思考を参考にしつつ)、行っているものと、私は推測します。
 しかしその「並列性」の具体的位置付けは、私にとってはこれからの課題なのです。その課題解明は、大拙を理解する事であると同時に、ギリさんを理解する事でもあると、私は考えます。

 又もう一つ付け加えれば、安藤さんは、前掲書の別の箇所(9ページ)で、上の如来蔵思想について、「如来(仏)となる種子を、心のなかに、あたかも胎児のように孕んでいると説く教えである。」
とされます。
 そして、安藤さんは更に別の箇所(28ページ)で、『大乗起信論』に言及しつつ、
「『大乗起信論』に説かれた一元論、『心』こそが主体と客体、精神と物質の分割以前に存在するものであり、『真理』(真如)であり『仏』(如来)でもあるという、『心』=『真如』=『如来』という未曾有の連関を、大拙はただ一言、『あるがまま』(Suchness)という英単語であらわす。人間のみならず森羅万象あらゆるものは、『心』のなかに『真如』(Suchness)を、あたかも如来になるための種子を孕むようにして蔵している(『如来蔵』)。『心』とは『如来蔵』であり、意識の『母胎』にして宇宙の『子宮』(Womb)そのものなのだ。」
と書いておられます。

 この「心」に胎児や母胎や「宇宙」の子宮を重ね描く様は、ギリさんが、ご自身が演ずる(この連載の(二)の<4>でも言及した)舞踊作品『念仏じょんがら』において、お母様の事を「かーさーん」と叫ばれる事に、更には上述の「宇宙的生命」という事に、何か通じていくような気がして仕方ありません。


〈6〉残されたズレ


     しかしここまで少し模索しても、ギリさんが、「Y(=横浜港公演)」で、日本について語った事から端を発した(上で一度提示した)、(1)日本人としての誇りや心と世界、宇宙という間の関係性と、(2)無限の宇宙の「空」での表現、命の存続と有限の命の関係性の問題、あるいはこれら(1)(2)の間にあるズレの問題を、私は少しも捉え切れてはいません。
 これら(1)と(2)の間の関係について、ギリさんの中ではしっかりとしたパイプが結ばれているのかもしれませんが、それはこれから私が、以上に述べてきた諸々の事と大拙のテキスト等をリサーチし、場合によってはご本人にお聞きして、解明したいと思います。

 その解明の方針としては、(1)の「日本人としての誇り」での「日本」という事に含意される、日本的で更に東洋的な「一」という事が、むしろ日本的、更には東洋的なるもの以外との、全宇宙での繋がり、縁起、関係性によって生じる事、及びその性質を、まずはより正確に見極める事を行う。

 その上で、そうした関係性の媒介項としての「空」を介した上での、具体的な個体の一つ一つ、単一性、一人称とは如何なるものかを位置づける。

 それはこの連載の(一)の<2>で述べた、仏教的な「空」で踊る事を一度通過した上で、具体的な現実世界で、生命の一個体として他なる個体と結ばれる事にも通じる。

 そうした作業の中で、悪しきナショナリズムに毒された「日本」とか、「大東亜共栄圏」の範疇にある「東洋」からは、大拙にしてもギリさんにしても無縁なところで、それぞれ「一人」の人間として表現し、自らのアイデンティファイを為している事を正確に記述し、確認せねばなりません。

 更にはそうした作業の具体的方向性としては、先述の「万法帰一」での「有限」と「無限」の関係性を正確に位置づける。又更には、その「無限」が、「分別」あるいは大拙が使う「即非の論理」といった時の「非」にどう内在的に関わるかを(カントやヘーゲルとは異なる位相において)見極めるところから始めねばならない。

 個人的生命と宇宙的生命とが一つになったところ、上述の大拙自身の言葉を使えば、「森羅万象あらゆるものが『一』となったところに」、(大拙の書く)宗教的意識は立ち現れる、そして上述の万法帰一は現れる。その立ち現れにおいての「有限と無限」を確認する作業は、上で残された課題である、「個人的生命/宇宙的生命」と「有限/無限」の「並列性」の具体的位置付けに通じるはずです。

  又、今回の連載の(三)の<5>の始めの方で述べた「一」と「一人」の円環は、同じく連載の(二)の<4>で引用した『日本的霊性』の「生は円環である。中心のない、あるいはどこでもが中心である円環である。」というフレーズでの「円環」に重なるものである可能性がある。ところでこのフレーズの直後に大拙は、「この生の無限大円環は霊性でないと直覚出来ないのである。」とも述べており、ここでの「無限」が先述の「万法帰一」にどう関連するかを確認する作業も、重要なポイントかもしれません。

 これらの作業の中でこそ、ギリさんの「命というのは、限りがあって限りがない」というご発言を、正確に位置付けられるであろうと私は信じます。

    先述の「概念的」並列性を、ギリさんが「身体的」に表現する時、あるいは上で引用した林武氏との対話でのギリさんの言葉である「動きと心が一つになった」状態で表出する時に、何が起きているのか? 興味は尽きないのです。

 以前、ギリさんは私に、自分の人生は「鈴木大拙と舞踊で出来ている」と仰っておられましたが、上述の「並列性」の位置付けと共に、先述の(1)と(2)とのズレ、及びパイプを解きほぐしていく事を、今後の課題としたいと考えます。

 

 

ギリヤーク尼ヶ崎さんの横浜港公演の映像
産経ニュース(7分4秒)

 


ギリヤーク尼ヶ崎さんのドキュメンタリー映像 (2019年4月7日にTBS系列で放送された『88/50 ギリヤーク尼ヶ崎の自問自答』{JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス})

 

2010年4月10日の世田谷美術館でのギリヤーク尼ヶ崎さんの「念仏じょんがら」の映像

 


ギリヤーク尼ヶ崎さんのFacebook
https://www.facebook.com/Gilyakamagasaki

 


ギリヤーク尼ヶ崎さんのWikipedia 
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%83%A4