マミのA4一枚、こころのデトックス (4)

矢野マミ

 

 10.異次元

 

「世の中が変わったな」と実感したことが最近あった。

 行きつけの(?)スーパー銭湯で、パウダールームの鏡の前で、全裸で立ったままドライヤーをかけている女性を発見したのだ。

 この日はもう一人、パンツ1枚で上半身はいわゆる上裸で椅子に座ってドライヤーを手にしている女性もいた。おそらく二十代だと思われる。全裸の女性が立っていたのは、椅子に直接座るのはさすがに遠慮したのだろう。もし、下着を身につけないで直接椅子に座っていたら、注意していたと思う。

「大和なでしこ」なんて言葉は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。顔も身体も特別ステキとも思われない平均的な、次に会ってもゼッタイに覚えていない平凡な二人であったが、服を着ないでドライヤーをかける、その行動は忘れられない。

 うっとりするでもなく、フツーに、超然と、誰に見られていることも意識せずに全裸でドライヤーをかけている姿は何か斬新な動く彫刻を見るようでもあった。チラ見しただけですが。

 帰宅して我が家の男性陣に「銭湯で、全裸でドライヤーかけている人見たことある?」と尋ねたら「見たことない」と返って来た。そうだろう。

 

 私も、この人生で初めてだ。

 どなたか、「銭湯で、全裸でドライヤーかけている人」に遭遇したことある人、または、ご自身が「銭湯で、全裸でドライヤーかけたことある人」はいらっしゃいますか?

 回転ずしのお醤油を舐めたり、触ったお寿司をレーンに戻したり、何かそのレベルで、特別な兵器を使わなくても社会の平和や常識を壊すことは簡単にできるのだな、と感じた瞬間だった。

「日本人は、水と安全はタダだと思っている」

 この言葉は、イザヤ・ベンダサンというユダヤ人の発言、ということにされていたが、実は山本七平というライターの手によるものらしい。長い時間をかけて、日本人も「水を買う」ようになってきた。「日本茶」もペットボトルで買い、「抹茶」はラテで飲む時代だ。

 

 ついに安全も、そして平和にも「お金を払って」守らなければならない時代になってくるのだろうか。自宅の勝手口にカメラを設置したり、個人で警備保障会社を契約したり、車にドライブレコーダーをつけたり、もうそんな時代はとっくに始まっているのかもしれない。

 まあ、とにかく、銭湯・全裸ドライヤー女子。世の中を変える存在だ。

 

 

 11.月に代わってお仕置きよ!

 

 美少女戦士セーラームーンのこのセリフを、どうして好きになれないのだろうか?

 それは「お仕置き」に嫌な思い出があるからだ。と言っても私自身がお仕置きを受けていたわけではなく、中学校時代に複数の教員によって異様なお仕置きが行われていたからだ。

 まず、数学。その先生はコンピュータの会社を辞めて教員になった、当時としては変わり種だった。「雑巾」「乾山」「お化粧」「棺桶」等という独創的なタイトルのお仕置きをたくさん考案して、宿題を忘れた生徒に行っていた。簡単に説明する。

「雑巾」…両手で生徒の腕を握り、ねじり上げる。時に、反対回しも行う。軽いお仕置き。

乾山けんざん」…椅子の上に画びょうを巻き、生徒を座らせる。

「お化粧」…黒板消しに白いチョークの粉をたっぷりつけ、生徒の頭を真っ白になるまで叩く。

「棺桶」…黒板の下の教壇を持ち上げて、中に生徒を入れ、上で複数の生徒を飛び跳ねさせる。

 宿題を忘れた生徒に「どれがいい?」と聞くと、たいていは軽い「雑巾」か「乾山けんざん」を選んだ。宿題忘れが何回か続くと、「次はお化粧だぞ!」とか「それとも棺桶、行くか~?」と脅された。「お化粧」や「棺桶」は大イベントで、たいていはクラスのお調子者の男子が立候補して盛り上げた。

 今だったら、「体罰」として大問題になっていたと思うが、当時は面白いお仕置きをする先生として生徒たちからは大人気(!)で、その後、教育委員会に抜擢されて、校長になった、と聞く。

 それから、国語。剣道部の顧問でもないのに毎回竹刀を持って授業に現れた。柔道家のような体格と時折バシッと竹刀を振るう音で生徒を威嚇した。授業中には決して生徒を叩くことはなかったが、竹刀の先を屈強な男子生徒のあごに当てて、宿題忘れの言い訳を問い詰めるのに使っていた。

 この人は授業中にはこの程度だったが、放課後の部活動ではガンガン体罰指導を行っていた。竹刀で女子部員を小突き、ミスをすると二の腕の下の柔らかい場所をつねりあげた。女子部員たちが二の腕を上げると青あざだらけだった。腕を降ろすと親にわからないように、二の腕の下、なのだそうだ。この人も、後に校長になった。

 もちろん、学校全体として「部活動中は水を飲んではいけない」指導が徹底して行われていた。私が現在生存しているのは、グランド10週走った後には、顔を洗ってくる名目で水をごくごく飲んでいたからだ。他の生徒たちも「顔洗ってきます!」と言って水を飲んでいた。昭和の子どもたちは賢く、逞しかった。

 当時の担任の名前は忘れてしまったが、お仕置き教師の名前は忘れない。

 〇川〇郎と、〇田〇一、あなた方のことですよ!

 

 

 12.彼女の心臓

 

 母が亡くなって、主に介護を担当していた妹が心臓の手術を受けることになった。心臓弁膜症。

 私は知らなかったけれど、小さな頃から気配はあったらしい。小学校の検診では後からそっと呼び出されて再検査を受けたりしていた、と本人は言う。けれど特別な医療措置は受けていなかったので、子どもだった私にまでは知らされていなかったのだろうか。

 介護疲れもあってか、妹は家族との関係も良くなく、主治医との事前説明には私が付き添うことになった。まだ若手と言っても通る年齢の主治医は、心臓の模型を手に取って丁寧に説明してくださった。「心臓には4つの部屋があり、血液を送り出す弁がきちんと閉まらない。このままだとどんどん身体に負担がかかって行くから、まだ元気なうちに手術を受けた方が良い」とのことだった。

「まだ元気ならば身体にメスを入れることはないのに」というのが私の意見だが、妹はもうすっかり決めていて、今回は病院の手順にのっとった形式通りの事前説明会だった。私には意見を述べる機会はないのだ。心臓は妹のものなのだから。

 手術には妹の家族が仕事を休んで付き添うことになり別室に控えて待ち、全身麻酔をかけて行われた。1か月ほど入院して、妹は元の生活に戻った。「手術跡、見る?」屈託なく聞くが私は遠慮しておいた。

 そうして、あることを思い出した。

 若い頃、仲良くしていた女の子のことだ。高校で出会って同じ女子大に進学した。彼女と私はなぜ仲良くなったのかわからない。気が付くと一緒にいて、みんなからは「二卵性ピーナッツ」と呼ばれていた。今だったら、叶姉妹とか阿佐ヶ谷姉妹、という括りになるのだろうか、まあ、姉妹のように仲良しだった。エキゾチックな顔立ちの彼女とお醤油顔の私とでは雰囲気は異なるが、カラオケでは当時流行っていたウインクや「恋のバカンス」などを周りの求めに応じて一緒に歌った。二人で旅行にも出かけた。

 私たちが普通のトモダチとちょっと違っていたのは、時々、一人の男の子を共有していたからだ。男の子から「付き合って下さい」と言われると、それぞれにデートに出かけて、それからしばらくするとお互いに紹介しあって、自然と、なんとなく共通の男の子と出かけていた。私たちには自然なことだったけれど、間に入っている男の子は双方に嘘をついているようで耐えられなくなるのか、あまり長続きはしなかった。そうこうしているうちに、大学4年の時、彼女の心臓弁に異常があることがわかり、「将来長くは生きられないかも」との宣告を受けることになった。

 心臓の病気のことがわかって、彼女は静かに泣いた。「どうして私がこんなことに……」と絞るように声をだして泣いた。そうして、女子大を卒業すると逃げるように地元に帰り、しばらく銀行に勤めた後に結婚した、と聞いた。結婚式には呼ばれなかった。今はシンガポールで暮らしているらしい。

 

「どうして仲良くなったのかわからない」

 

 もしかしたら、私は彼女の壊れた心臓の音を聴き分けていたのだろうか。調子っぱずれのリズムを刻む心臓の音を。姉妹として、異常のある心臓の音に惹かれたのだろうか。人生の一時期、姉妹のように仲良くしていた彼女のことを時々思い出す。長く美しい黒髪と、輝いていた大きな瞳を。

 心臓は、動いていますか?