【「西洋」について】(6) (ドイツ・ロシアに関して)

山本幸生

 

 私が十代の頃は、私にとって「西洋」といえばほぼドイツあるいはドイツ系のことに他ならなかった。むろん、英仏など他の国の人たちの名前もいくらか知ってはいたが、なぜか「ドイツが一番」と思い込んでいたのだ。たぶん当時ドイツ系の古典音楽が好きだったから、というのもあるだろうが、これもその時期にハマっていたロシア文学、特にドストエフスキーなどにおいて「ドイツ崇拝」的な雰囲気がところどころに垣間見られ、知らないうちにそれに影響されていたのかもしれない(ドストエフスキー時代のロシアでは社交界ではフランス語が多用されていたようだが、彼の作品ではある種「戯画的な」形で出てくるのみであり、フランスに対してはそういう面からも悪いイメージを持っていた笑)

 

 そういうわけで、私の中ではドイツとロシアというのはいろんなスジで繋がっているわけだが、両者に共通しているのは、どちらもある種「土着ベース」の何かどうしようもないものを引きずっている、というところであろうと思う。ロシアの場合は、それはより「東方的」な、ある種「底割れ」に近いものになっているが、ドイツでは奥深いがギリギリ「割ていない」という、知性的な面ではある意味「理想的」な形態であるように思われたのだ(まあ、あくまで今にして思えば、ということだが笑)

 

 しかし私の場合、まさにそうした「奥深い」世界に浸れなくなった、というところから全てが始まっている、という部分があり、その結果としてある種の自由を得たものの、よって立つべき足場というか、精神の源泉のようなものを失い、その後はそれと「同等レベルの」世界構造を自ら作り出さざるを得ない、という状況になって行ったのだった。。

 

 しかし、それはともかく、とりあえずここではまずロシア文学、特に私がハマっていたのだというドストエフスキーの作品について少しく述べてみたい。個々の作品についてはそれぞれ語りたいことはあるが、ここではドストエフスキー作品全体に通じる構造、という点に注目することにしたい。

 

 先にもどこかで言ったように、私はかなり以前から夏目漱石も好きなのだが、実はドストエフスキーと夏目漱石は、作品構造あるいは「作者の心境」的に似た部分があるのではないか、という感じがしている(これは既に指摘されていることかもしれないが)。つまり、どちらも「西洋からの圧力」というものに対応する形で神経をすり減らしつつ「頭で」いろいろ考えていくわけだが、結局それは破綻するか本人が疲れ果てて、最後にはより「土着」の方向に向かっていく、ということ。

 

 ドストエフスキーの場合はそれが「ロシア正教」的な「土壌派」であり、漱石の場合は、「東洋」的な境地であった、ということであるように思われる(もっとも、漱石においては、それが「日本土着」ではなく、「中国風」のものにならざるを得なかった、というのがまさに「日本的」であるわけだが笑)

 

このように両者の構造は似ているのだが、ドストエフスキーに比して漱石の「世界文学」としての重み(の違い)というのが、果たして漱石の「不徹底」によるものなのか、それとも「ロシア的な」ものと「中国風東洋」的なものとの重みの違いによるものなのか(あるいは「世界」における両者の「重み評価」の違いによるのか)というあたりが問題となってくるだろう。

 

 ちなみに、最近ではドストエフスキーの罪と罰やカラマーゾフの兄弟の「日本風改作」みたいなドラマがいくつか作られているみたいで、私も見てみたのだが、ドストエフスキー作品のベースとなっているロシア正教的キリスト教というベースを外すと、こんなにも作品の雰囲気が違うものか、と驚いてしまった。

 

 一番典型的なのが、罪と罰のダメ男「マルメラードフ」だが、原作ではキリスト教信仰と結び付けられてギリギリ「聖なるダメ男」という線が維持されていたのだが、日本版では本当にただの「ダメ男」、まああえて言うなら太宰治的な「突き詰めたダメ男」という感じで、西洋、というよりは「キリスト教的世界」における普遍性というものと日本的な意味での「普遍性」の違いを改めて認識させられた次第であった。。

 

 更に言うなら、日本における根本的な「問題」というのは、突き詰めるならば結局「家族」問題なわけであり、そのこと自体の「普遍性」というものについては色々な評価があるだろうが、トータルな意味での抽象性、という点ではやはり私個人としては不満が残る。

 

 最近では聖書やヨーロッパの叙事詩の「講談風翻訳」なども出てきて、外来文化の「日本土着化」というのが一つの流れ?のようでもあり、それはある種日本文化の「成熟」を示すものなのかもしれないが、そのぶん「必然的に」原本の「抽象性」は失われていくわけであり、まあ個人的にはあまり「面白くない」という印象である。。(もっとも抽象的なものを好むのはあくまで私個人の嗜好なので、決してナマ肉化するのが悪いというわけではないことは断っておきたい) (続く)

 

 

主宰Facebookグループ「哲学、文学、アートその他について議論する会」