怖くて愛しい沖縄、座間味島

野原広子

 

 沖縄は怖いところ。特に離島はうかつに行くもんじゃない。実際、何度か仕事で訪れたけれど本島を駆け足で通り過ぎるだけ。私に強烈な爪痕を残したあの島には決して近づかなかった。

 

 私が初めて沖縄に足を踏み入れたのは、フリーライターになりたての22才のとき。男性週刊誌のデータ原稿と、ある企業の広報誌のリライトでギリギリ暮らせるか、どうか。そんな私に旅好きの友人が沖縄に行こうよと誘ってきたの。

 

 マスコミの専門学校で知り合い、お互い喫茶店のウエイトレスで生計を立てていて、同じ北関東出身。そんなことからU子とはすぐに仲良くなった。

 

 私の親は「マスコミの学校に行くだと? なんだそら。バカ言ってねえで真面目に働いて金貯めろ」という無教養人だけど、U子の親は教員。多少の援助はあったように見えた。私は困ると彼女のアパートに行っては1000円札を貸りたりしていたの。

 

 それにしてもなぜ、沖縄よ。彼女に借りた3000円だって返すメドが立ってないのに、、。

 

 事情はこうだ。彼女は親戚から株主優待券か何かで、沖縄行きの航空券を2枚手に入れた。期限付きとはいえ、激安。「私、どうしても行きたいんだよね。すぐに行けそうなのは、あんたしかいないからさ」。

 

「でも、、」と、口ごもる私の前で財布を開けて、札を全部つかみ出し、「私の全財産。半分貸すから、これで行こうよ」と言って3万なにがしかの現金を出したの。これに彼女が立て替えている航空券代が2万なにがし。あと、気がかりの3000円もある。私はU子に大借金を負うことになる。

 

「う〜ん。でもな〜」。クビをタテにふれないでいる私に、「今年中に働いて返してくれたらいいからさ」と、これがトドメだった。

 

 そんないきさつで行った沖縄で、正確に言うと離島、座間味島で私はプロポーズをされた。しかもふたりから。

 

 ひとりは泊まった民宿のおじさん。父親よりずっと年上で、ボクトツとした話し方で、隣りにはおばさんがニコニコ笑っている。イントネーションが標準語とは違うから、「あんたは帰るな。ここにいろ」を、聞き違いかと思ったら、そうではなくて、息子の嫁になってくれという話。3泊して、漁師が本業のおじさんから、海の話を聞いたりしているうちに、私を民宿の女将の素養ありと見込んだらしい。

 

 明日は帰るという夜、暗い海を見ながらおじさんは「那覇で高校の教師をしている息子は、俺が決めた人ならいっしょになる。おれはあんたがいい」と言うの。思えばおかしな話だけど、おじさんの離島言葉は、うかつなことを言えない真摯さで、私に迫ってきた。

 

 今となっては何と答えたのか、うろ覚えだけれど、「東京でやりたいことが何もできてない。東京から離れられない」というようなことを言ったと思う。

 

 よく朝、おじさんは猫車に私たちの荷物を乗せて、船着場まで見送りに来てくれた。涙が止まらなかった。

 

 もうひとりは6才年上の、、って、こっちは自分の嫁にと言うことで、帰京してから何度も電話をくれた。

 

 そんなことがあったせいか、東京に戻った私はまるでふぬけ。人生観が変わったといってもいい。生まれて初めて見た透明の海の中が、振り払っても振り払っても浮かんできて、気がつくと原色の魚といる。あの海に戻りたい。

 

「何言ってんのよ。いいからお金、返してよね。あんたに逃げられたら困るよ」

 

 U子の取り立てが急に厳しくなり、私はデパートのマネキンのバイトを始め、座間味から気持ちが少しずつ離れていった。

 

 今だからわかるんだけど、あの島で私がプロポーズされたのは、モテたからじゃない。私が海に恋に落ちたからなんだよね。この海さえあれば何もいらない。この地に身も心も捧げたいという心情が、身体中から発していたんだと思う。それを受け止めるのが、沖縄の独特ゆるい男たちなんだと思う。

 

 いや、私だけじゃない。移住していった人はみんなそう。海の囚われ人になったのよ。そういえばわけありの芸能人も、沖縄の離島にもぐるよね。

 

 たった数日で、ヘタしたら数時間で、生き方を変えてもいいと大決心させられる恐怖。それが私の心のどこかに残っていたのか、コロナ禍の直前に訪れた石垣島は、JALのマイルを使って東京から日帰り旅。誰とも話さず、ただ南の国の風に身をまかせていたのでした。