私の舞踊史Ⅴ

柴﨑政夫

 不本意入学ながら、大学生活が始まった。 学徒援護会で間借りを探した。ここの交差点対面側には警察の駐在所があって、ある漫画家が署員の個性や性格を拡大して書くこともあった。地下鉄を利用すれば早稲田から神楽坂・飯田橋まで一直線。

 騒動や事件の匂いが強い時代だった。著名大学には金がかかるので、安い大学へ。特別奨学金貸与生なので、大学卒業後2年以内に教職に就けば、支払免除。

 ところが大学は、教授達のつるし上げの場と化していた。

 それもそうだ。ベトナム戦争反対、キュ-バ出身の英雄に憧れた世代。

 会社だっていつ倒産するかわからない状況に置かれていた。現実逃避したり詩人を装って気取る者もいた。

 それを歌にしたら集会で注目されるし、一緒に歌えば反戦歌に祭り上げられた。こうした傾向は理性的判断を鈍らせ、お経のように路上にあふれた。

 当時、東大で最も練習が厳しかったのは、ボディビルとボ-ト競技。ガリ勉のメガネというイメ-ジができあがっていて、運動関係は苦手とみられていた。

 その反面、見返したいという思いは強く、肉体改造に憧れたり、共同作業での主導権争いにはめっぽう強い。これがボ-ト競技や野球の守備強化に役立っていた。

 東大野球部の目的は「1勝したら解散」というものだった。投手・打者には先天的なセンスや素質が必要だが、守備に関しては「ただただ努力あるのみ」ということで、実技が不得手でも「競技の知識は深いんだ」というアピ-ルだった。

 1日だけの空白を利用してH大学入学を果たした者もいた。翌年の優勝で大騒ぎとなった。

 皆が皆、好きなことを言い合い、勝手気ままに過ごそうとしていた時代だった。

 後に、事件発覚で騒動になる浅間山荘事件、飛行機乗っ取り→隣国へ着陸させる者もいた。

 私は内定していた都の水道局勤務を断り、ぼうっと生きていた。

 大学といっても夜間部。次の年に昼間部へ編入試験で入るだけだったから。

 カリキュラムの内容は、高等学校の学習の練り直し。理論物理だから変わることはない。調子に乗って単位を取り過ぎたが、生きる目的は見つからなかった。

 慶応に入った友人から声をかけられ、月に2回程会うことにした。

 一つは英会話研究会のゼミ。もう一つは暇つぶし。

 英語研究会には、様々な集団が来て、自らの主張を繰り返した。

 空港建設反対運動への動員参加要請、インド哲学を学ぶ会(カレ-を食べる会)、某大使館前でのシュプレヒコ-ルへの参加要請。

 紙で作った人形に頭を下げさせ寄付を募る会、高速道路インタ-チェンジ付近の空き缶を糾弾する会等々。

 何のことかわからないでしょうが、これが後の、成田空港先の反対小屋立てこもり騒動、とある真理教への入信勧誘、本国へ強制帰還させられる人を日本に留め置くための糾弾会、隣国の女性労働者を紙人形に見立て、頭を下げさせ募金させる会→今日では立派な銅像製で欧州各地にまで設置。

 高速道路付近の落書きと空き缶捨てを防止するための寄付金獲得を目的とした団体。

 大学側は、英会話を自主的に進める企画だったから、全てにおいてノ-タッチ。ただし、時間厳守で出てもらうという扱いに留まってました。

 となると、どういうことが起こるか。←英会話学校に通った経験者ならわかるだろうが、「日常会話の基本文型によるあいさつ」なら大丈夫。

 すらすら話せるが、途中で、得体の知れない輩の団体が入ってくると、途端に、彼らの主義主張が強まる。ほとんどの者がこうなると黙ってしまう。

 脅迫に近い物言いとなるから、面倒なことには関わりたくないのが現実。この時、指導者は自主避難。

 それでも数名が発言できた。私の場合、日常会話はやや苦手だが、意見を述べることはできた。理由は、聞くことができたから。

「空き缶ポイ事件解決のために募金とサ-クルづくり」などということに関しては、「日本には江戸時代からの仲間作りがあり、向こう三軒両隣はお互いを助け合ってきた。」「今更募金しろというのは、日本人が何もしてないと見下してのことか。日本には日本のやり方がある。」と言って突っぱねた。相手は激高して、わめいたため、英会話サ-クルは終了した。

 もう一つの会合では、都内の商業の中心地視察、割引旅行で旅館視察体験感想発表、奥秩父から八ヶ岳を踏破して高原ハイキングの紹介記事作成、アンテナショップの価格設定調査といったことが続いた。

 9月に入った。早稲田は大学封鎖、私のところは入場者制限。外堀の内側にある法政は大学野球応援で、大騒ぎ。それぞれが全く異なった様相を呈した。

 それもつかの間、暮れには都内一流企業の配送のアルバイトという激務。今日の宅配便業務会社は、この当時は、大手デパ-トのお中元とお歳暮商戦期の臨時アルバイト業務。つまり、下請け会社だった。

 続けて「また来いよ」と言われて出かけていったら、個人的付き合いの回数を増やしたいと言われてしまった。土日だけでも月2回。大学のレポ-トがあるから限界なのに、これ以上は引きずり回されるのは無理だった。半年以上付き合ったのだから、今後も。という理屈である。

 経済学部の彼の好みは、時代の変化に敏感で、あっさり系ではやりすたりの変化がすき。論理的なくどいものは大嫌い。私は逆で、くどいところの理由が知りたいタイプ。水と油である。

 1~2年間の気晴らしや遊びで終えるなら、それもよいかもしれない。だが、人生は長い。家族の面倒が肩に掛かる立場でもある。

 振り返ってみれば、今までが全くの我慢で彩られた不遇な人生。才能がないと言われた経験さえない。何らかの形を残したい。その方向性を見つけようとしている先に、またまた私を振り回すのか!?

 これじゃいやだ、もう我慢できない!おつきあいの度合いが深まるにつれ、気配りが増えたに過ぎない。

 お正月過ぎまで気分は晴れず、しばらく考えているうちに深夜放送が耳に入ってきた。「君もやってみないか」近石伸介の声だった。演劇養成所の募集だった。おまけに学徒援護会の30m奥の場所。

 気晴らしのつもりで申し込んだ。テストは3月。項目を見て、昔の自分が捨ててきたものを思い出した。

 2月に入り、学部転換の説明会が開かれた。応募しようとしたが、今年から「物理は外し、数学のみ転換の対象とする」と告げられた。←おそらく、実験準備等の予算付けができなかったのであろう。数学なら机上で解決できるから。

 この大学は2年に上がるのに約51%ほどが留年する。追試験もあるが、その後は不明。高卒後、都内一流企業に就職し、会社からの派遣で大学生兼任の者もいるが、専門科目は得意でも、一般教養で苦労していた。

 1年次に法学の単位が取れないと、後々、カリキュラム選択に不都合が生じ、教職単位履修と卒業が難しくなる。

 何はともあれ、いい加減な扱いを受け続けた大学だが、学部転換の希望もないまま、2年次の課程へと進んだ。

「坊ちゃん」では夏目漱石が「無試験で入れる大学」として紹介したので、多くの人が「楽だろうと思っている大学だが、ここは理科教員養成の専門大学なため、実技とレポ-トが必須。いや厳守。締め切りに間に合わないと単位が取れない。

 実は、バイトせずに、昼も夜も大学に通い、図書館に行って調べ上げれば、それなりのヒントが本の中に棒線で引いてある。

 多くの他大学の場合、先輩にこびを売って、サ-クル活動の仲間に入り、レポ-トの切れ端を情報源にして、作り直して対応するのが多くの学生のやり方なのだ。

 だが、私の場合、理系の友人は皆無だった。

 3月、演劇養成所の試験→合格、直ぐさま入所。(羽佐間道夫が「君は絶対に来い、来るべきだ。」で決めてしまった。)他所を検討する気もなかった。今日の養成所といえば商業系をさすが、本格的な新劇が学べるだけでよかった。こうして、下宿、養成所、大学は一直線。ただ、その通過点で1時間ほど大学の図書館にいることができた。

 それ故、義務としてのカリキュラム取得の方向性も徐々に固まっていった。だが生きる希望は見つからぬまま。そこで開き直った。

 実際、卒業する気がないのだから、できるだけ多く単位取得しようと考え直した頃だった。(ほとんどが5年で卒業なのだが)8年居続けようと考えた。しかし、現実は最短の4年。真面目すぎた。30単位以上取得超過したため、目をつけられ、6月に呼び出され、強制的に卒業扱いにされてしまった。

 パソコン実習の提出物である「二次方程式の一般解法」のプログラムが卒論代わりとして受理され、追い出される形となってしまった。

 大学側は経営の方針として、例年新入生の入学金を値上げし、在校生のは据え置きだから、私を卒業させて、1人募集枠を作ったのは実利的だった。というわけ。

 養成所は各種学校扱いだった。当時、大学との掛け持ちは認可されてない時代だった。学割に使えば、直ぐさま判明しただろう。

 しかし、この養成所、途中でお休み期間が生じてしまう。募集応募のシステムが上手く機能しない時期があった。私はその間に田舎に帰って、アルバイトで腰を痛めてしまった。翌年になって、新規募集と前年生の募集時を私は知らされてなかった。おそらく、転居したためであろう。事実を知ったのは後のこと。

 こうして次の年に再度通うこととした。養成所の事務員は「また来たの!?」とあきれかえっていた。覚えられていた上に、既にベテラン風の態度だったから。