[特別寄稿]舞踏小説『鹿のヴァイオリン』

大輪茂男

     1

 城壁の街ポロロの祭の晩のことである。

  湖のある丘陵を渡る風の中でバターや果実を作り出す草原の住人や、遥かな雪山の峰の彼方に神々の水浴場があると信じている森の住人たちも、この日ばかりはポロロの街を目指してやってくるのだった。

  彼らは街に着くと、親類や古い友人たちと抱擁をかわし、一年ぶりの再会を祝福し、豪勢な夕餉を共にする。それから先祖の武勇伝や受難の歴史話に花を咲かせながら酒を飲み、やがて手に手に銀の杯をたずさえて露店商の天幕でにぎわう街の広場へとくりだすのであった。

 しかし、草原の祖父である砂漠に生まれた夕陽が、雪山に赤い光の絨毯を敷きつめるはずの時刻になっても、なぜかこの日に限り、時は物憂げな初夏の歩みを下界の広場にとどめていた。そこで人々のためにと、遠い道のりを越えてこの街までやってきたジプシーたちは、早くも楡の木陰に焚火を燃やし、炎と夕陽の狭間で唄や踊りを演じなければならなかった。

 ジプシーたちはポロロ広場に集まって来る客のために祭りの日ばかりは太陽が一刻も早く峰の彼方に去ってしまうことを願った。夜の帳は彼らが人里で生きて行くために必要な危うげな商売の知恵を授けていたからである。

 暗闇では贋金が彼らのしなやかな腕の上で妖しい黄金の彫り物の輝きに変わり、山鳩の肉は彼らの快活な声で高値に売られ、安物の打楽器は見物人たちの寝台の快楽の道具として売りさばかれた。祭りの夜こそは、ジプシーの商いをそっと見逃してくれる手品師の黒い罠であり、彼らの音楽はその商売を手助けするための客への麻薬でもあったのだ。
 この日、ポロロ広場に集まってきた群衆も又、美しい空の神がその素肌を金色の水浴に染め、しばし下界に休息する間はジプシー達の奏でる物悲しくも狂おしい音楽や怪しげな商売に身を委ねても良いだろうと思っていた。

 と言うのも彼等の誰しもがその心の中に、やがて訪れる夜の帳の中で一輪のバラのように咲き誇る一人の娘の踊りに酔いしれたいという、ときめきにも似た期待を抱いていたからである。とすれば、それまでの間、街中のあちこちに点在するジプシーたちの商いや音楽は、彼らと同じ人種の中に咲いたその妖艶なバラを見るための格好の前座であったとも言えよう。

 こうして放浪の民たちの調べに人々は夕暮れをやり過ごし、ほろ酔い気分で路地から路地を散策し、時には露天商をひやかしたりしながら、今か今かと夜の主役の現れるのを待ちわびていたのである。

     

      2 

 この祭りの夜を飾るにふさわしい祝祭の花、 人々が胸に期待の炎を燃やしながら待ち続ける一人の娘の名はナーダラと云った。

 彼女はポロロの街から数キロ離れた草原に住む、十八歳になったばかりのうら若かいジプシーの娘であった。
 しかし、ひとたび彼女の踊りを見たものは誰もが口を揃えて、その舞いの素晴らしさを誉めたたえたものである。 

「あのような若さで、あのように踊れる踊り手などは、この草原には、まずはおるまい」

「彼女の踊りの炎は、たしかにわしらの森の氷を溶かし、わしらが手にした杯を呷る前に、すでにこの胸を酔わせる美酒さ」

 こんな評判が村から村へと吹く風にのって広がって行った。ナーダラ本人の耳にこの噂が届いた時、多少の戸惑いを覚えながらも、娘は一笑に伏して言ったものである。

「買いかぶりだわ。私は特別他の人と変わった踊りなどしていないのに」

 たしかに数年前までは、ナーダラの踊りはその言葉通りのものであったと言ってよい。

 草原の放浪生活の中で育ったまだ幼かった娘の踊りは風のように自然で、大空の雲のように自由に見えた。彼女はジプシーが奏でるギターやタンバリン、マウスハープ等の音色に素直に耳をそばだてて育っていった。そしてジプシー特有のメロディの底に沈められたある種の、自然が垣間見せる一瞬の哀しみといったようなものを野性的に捉えることに卓越した、自分の種族の音楽を愛して止まなかった。野アザミが草原の星を見上げてその赤い光を吸うように、柳の葉が太陽の光のガラスの粉に輝くように、ナーダラの若い心は伸び伸びとジプシー音楽に育まれ、その恩恵を浴びながら自らの若い肉体を仲間達の間で無心に踊らせていれば、それだけで充分幸せだったのである。

 だが、こうした彼女の踊りが他のジプシー達とどこか異質であった特性をあげるならば、それは彼女の身体の中に流れるジプシーの血が、彼女の愛してやまなかったヴァイオリンの音色に誘発された時に沸き起こる感受性の激しさだったといえようか。                         

 実際、ナーダラはどんな楽器よりもこのジプシーヴァイオリンの音色を深く愛していたのだ。

 風のようにどこからともなく忍び寄って来ては人の心に哀切の恋心を植えつけ、その埋火を激流の炎に燃えたたせようと激しいリズムが揺さぶり、やがて恋の成就のためならば命すら投げうつことも辞さないパッションへと昇華する弦の旋律の嵐。男と女の恋の駆け引きに忍び寄る危険なナイフ、流星にも似た快楽への迅速な阿片・・・。ジプシーヴァイオリンの織りなす豊饒な音色にナーダラが感応した時、若い娘の生命は、他の誰よりも激しい奔流となってその形態を踊りの上に再現したのである。

 そんなナーダラの内面に著しい変化が生じて来たのはつい最近のことである。

 それは人々が彼女の踊りを以前のように褒めそやすだけではなく、遂には、偉大な踊り手アマヤとその技を比べるようにまでなったからであろう。秋の干し草の上で、森の切株の上で人々はアマヤの後を継ぐ者はもうナーダラしかいないだろう、いや、すでにナーダラの芸はアマヤを凌いで己の芸風を築いているかも知れない等と言い交わした。

 アマヤとはナーダラと同じジプシーの踊り手であり、その芸のなすところは民族の枠を越えて、広くこの国の民衆の胸に刻まれた伝説上の舞踊家であった。彼女の踊りの姿は南の風によって海を渡り、北風は神々の住む峰にもその便りを届けた。そこで神々はアマヤのその誇らしい胸を飾るために雪で織ったレースのショールを授けたとさえ伝えられている。こうした彼女の優れた舞踊はこの国の人にとって勇気の象徴であり、希望への情熱を孕んだ帆船として今も民衆の心の中に深く息づいていた。

 幼い頃から彼女の話を両親から聞かされて育ったナーダラもまた、見たこともないその人の舞いを思って泣きじゃくり、敬慕し、ついには夢にまでもその幻の姿を追い求めたものである。

 このような舞姫とついに比べられるようになったのだから、笑い転げながら人々の評判から逃げ出していたナーダラの心根も、少女から大人へと成長した今となっては、決して悪い気がするはずもなかった。しかも彼女自身、最近は仲間達と群舞を踊るたびに何かしら他人の踊りとの間に横たわる、ある種の隔たりを肌で感じはじめていた。それが一体何であるのか、ナーダラ自身はあえて知ろうとは思わなかった。

 ただ世間がこのように自分への賞賛で騒ぎだしたことに彼女は敏感に反応した。娘はたちまち世間の評判に合わせたかのように、石榴のような胸をそらし、筋の通った高い鼻で仲間達を見下すかのように振るまい始めていた。

 ナーダラは、まだ若かった。

 彼女にとって、自分の踊りを人から誉められ、他の踊り子との違いを指摘されることは、自分の芸の真価を知る上での唯一の拠り所となった。その個性の違いにこそ自分の創造の独創性を磨くことが何よりも大切であるという考えが芽生えてきたのも不思議ではない。

 評判が立つーそれは芸を売るものの身上であり、芸の魅力を増すためのまさに特効薬であった。

 こうしてナーダラは自分の中に育った新しい創造への情熱と人々の評価へのサービスを抑えることが出来なくなってきた為、踊りの技術は格段の上達を見せ、その華麗な舞いは人々の心をますます酔いしれさせていったのである。

     

      3

 時は、ポロロの街の広場に集まってきた群衆との競争をあきらめたかのように、ついに青い吐息を大地に吐きながら退却し、夕暮れの金色の半月はビーナスを引き連れて東の空に待機し始めた。それは天上の女神が下界を忘れ、みずからの濡れ髪に飾る多くのかんざしを星たちに求めた印であった。

「ナーダラだ!」

 その時、一人の男の叫び声があがり、手にする杯の酒が夜空に蒔かれた。

「ナーダラだ、ナーダラが来たぞ!」 

 城門の方からも歓声が湧き起こった。城門から見える遥かな草原には夜が降り、露が星よりも早く灯り始めている。そんな草原の暗闇の中に一台の幌馬車の灯影が浮かびあがり、馬車は静かに街の広場をめざして進んでくるところであった。

「ナーダラ!ナーダラ!」

 熱い人々の歓声が、今しも波のようにポロロ広場の方まで流れ渡って行ったかとおもうと、やがて幌馬車は広場の大きな楡の木陰まできて、静かに止まった。そして人々は幌馬車の上にひとりのまだうら若いジプシーの娘が、手綱を握った老人の脇にぽつんとすわっているのを見た。

「おお!」

 人々の口からため息にも似たどよめきが起こったのはその時である。彼等が待っていたのは本当にこのうら若き娘だったのだろうか。今、眼前にいる娘は、どこにもいそうなごくありふれたジプシーの小娘に過ぎないように見えた。そればかりか、広場に集まった群衆に怯えたかのように、彼女の小さな肩は、広場に焚かれた松明の灯影をあびて、心なしか小刻みに震えているようにすら見えた。

 しかし、それはほんの一瞬のことに過ぎなかった。娘の様子を見て、人々の心に僅かばかりの失念がよぎるかと思えたその時、娘は、観客達の視線が自分の上に充分に注がれるのを待ってでもいたかのように、すっくと幌馬車の上に立ち上がった。

 その姿は月光の雫をあびて、今しがた蘇生した薔薇が、凛々しい容姿を天空に向けたのかのようである。それから娘は口元に少しばかりの微笑を浮かべると、広場に集まった群衆を静かに見まわした。と、同時に娘の腕は水魚のように弧を描いて夜空に掲げられ、つづいてピーンと鞭のような響きがその指先から放たれた。

 それが、合図であった。

 楡の木陰で、先ほどからナーダラの動きを寸時も見逃すまいと待ちかまえていたジプシー楽団が、彼女の指の音をきっかけに、ギターのトレモロを激しく刻んだ。その瞬間、ナーダラの身体がヒラリと宙に舞ったかと思うと、彼女の姿は瞬く間に見物客の真只中に降りていた。群衆からは、一斉に喝采が巻き起こった。そして嵐のような口笛と手拍子がギターのリズムにあわせて客の間からも鳴り響いた。

 ナーダラはスカートで土煙を舞い上がらせながら、興奮した観客の間をまっしぐらに踊り抜けると、やがて広場の真ん中に進み出た。ギターの音は激しいリズムの足並みをなだめるかのようにしだいに遠のいて行き、ナーダラが小刻みに足を踏むのに合わせ、トレモロの音もすでにもの狂おしい情念をたたえた哀切の調に変わって行く。

 今や、焚き火に照らし出されたナーダラの影は古い城壁に大きく浮かびあがり、観客たちはふたたび静まり返ると、その足捌きの揺らめきに息をこらした。

 タララッタッタ、タララッタッタ・・・。

 水引草のようにしなやかな指先の動きにあわせ、ナーダラの打ち鳴らすカスタネットが、見る者の心臓をさかなで始める。

 タラララ、ラッタッタ、タラタッタ、タラッタッタ・・・。 
 呪縛された見物人は、カスタネットの次に奏でられるであろうヴァイオリンに合わせたナーダラの嵐のような舞いを想像して、あたかも獲物を待つ猟犬のように鳴りをひそめてその時を待ち受けた。今年の秋の収穫を祝う祭事の意味を確認し、日々の仕事からの解放を仲間たちと共に分かち合う号令でもあるかのように、今か今かとカスタネットの音が止む刹那を待ちわびたのである。広場には一瞬の静寂が訪れた。

 と、その時のことである。

 クックック、フフフッ・・・。

 ほんの微かではあったが、どこからともなく含み笑いの声が、張りつめた沈黙の水面を戦がせる小波のように広場の片隅からナーダラのいる方に向かって流れ出た。

 笑い声の起きたすぐ近くにいた客たちは、驚いたように、声の主を確かめようと一斉にそちらに顔をむけた。見れば、そこには一人の薄汚い身なりをした老婆がすわっていた。小さな笑いは確かにこの老婆から発せられたようであった。そこで老婆のまわりにいた客たちは、再び含み笑いの声を起こさせないようにと多少のためらいを感じながらシーっと口に指をあて老婆をたしなめると、すぐにもまたナーダラの踊りに視線を戻した。

 だがこの時すでに、ナーダラの隙のない踊りの糸は老婆の発した笑い声にわずかなほつれを見せたのである。もっともその乱れはあまりに微妙なものであったため、その変化に気づくような者は観客の中の誰一人としていなかった。だが、ナーダラの心の中に忍び寄った笑いの影は確かに彼女の統制された神経を一瞬ではあるが逆なでるように通り過ぎていった。

 そのことを何よりも強く意識していたのはナーダラ自身の心であった。彼女はこのわずかな笑い声によってもたらされた緊迫の切断を拭うために、カスタネットの腕をもう一度大きく天に伸ばさねばならなかった。       
  すると、そんなナーダラの仕草を見ていた先ほどの老婆が何を思ったのか今度は、ユロユロと立ち上がったかとおもうと広場の真ん中にいるナーダラのほうに向かって歩きだした。そして彼女のすぐ脇まで進み出ると大胆にもその場で奇妙な踊りを始めたのである。

「おお!」

 群衆からは驚きにも似た大きな溜息があがった。ナーダラは静かに手をあげて楽団の音楽を静止させると、彼女自身もまた踊るのをやめ、老婆に近づき囁いた。

「ねえ、お婆さん、さっき笑ったのはあなたなの。お願いだから、私の踊りの邪魔をしないでちょうだい。今はね、私が、このナーダラが踊っているんだから」

「ジプシーの踊りはみんなで踊るものだよ、気にしないで、一緒に踊らせておくれよ」

 老婆はこう大声で叫ぶと、ナーダラの制止を聞くどころか、さらに奇妙な踊りを無伴奏のまま舞い続けたのである。その姿がよほど面白かったのであろう。見物客たちはこの突然の出来事を喜びと笑いの渦で迎えいれていた。

「ナーダラ、一緒に踊ってやれよ!」    

「ナーダラに負けるなよ、婆さん!」

 こんな歓声までがあちこちから沸き起こっていた。ナーダラはそんな野次のする方をキッと睨み返した。彼らの軽々しい浮立った囃しに彼女の胸は今や煮えくりかえらんばかりだった。だがこのような事態にどう抗するべきか、若い娘はその術を知らなかった。そこでただ老婆に向かうと、もう一度言い放った。

「お婆さん、いい加減にしておくれ!」

 その時、ナーダラはギクッとした。

 老婆の瞳がキラリと鋭く輝いたように思えたからだ。そして次の瞬間、老婆の沼のように深い瞳の奥に、今、眼前にいる老婆よりもっと醜い人間の顔が浮かびあがり、その顔にクシャクシャっと皺が寄ったかと思うと、大きく口が裂け、真っ赤な舌が動いた。

「いい気になりなさるな、娘よ。まだこんなもんさ、お前さんの芸などは。わずかな忍び笑いにも惑わされる、隙間だらけの舞いだよ」 

 こういう嗄れた声がナーダラの耳に響いたのである。彼女の全身にいい知れない恐怖に似た戦慄が走ったのはその時だった。と、同時に、

「あんたみたいな婆さんに、私の踊りが解ってたまるものか!」

 ナーダラは思わず老婆に向かって罵声を浴びせていた。そして老婆の頬を打とうとして手を振りかざした姿が、大きなシルエットとなって城壁に映し出されたのである。

 一瞬、青い月がその瞳を地上に向けて静止したかのような静寂が、群衆のいる広場を包みこんだ。

 ハッと、ナーダラが我に返ると、

「怖いよ、この娘は、怖いよ!私がなにをしたっていうのさ!」
 そう泣き叫ぶただの普通の老婆の姿と群衆の興ざめしたようなどよめきが広場に満ちているのにナーダラは気づいた。彼女は一目散に馬車に向かって走り出した。何人かの群衆にぶつかり、その中を走り過ぎてやがて馬車にたどりつくと、彼女の肩はあの馬車の上にいた時の小娘のようにふたたび小刻みに震え始めていた。そしてそのまま幌の中に子鹿のようにその身を隠してしまったのである。

 広場に取り残された見物人たちの顔には、明らかな失望の表情が見て取れた。それから、彼らの心が不満の色に変わって行くのに時間はかからなかった。

 やがて、群衆の波が退いて行くと、広場にいたジプシーたちも口を噤んだまま帰り支度をはじめた。

  

      4

 草原を渡る夜風は、いつものように穏やかであった。
 それは悠久の時を渡って、ジプシーの誇り高い物語を優しく紡いできた織物のようにしなやかであった。そしてこれから何千年と流れゆく草原の時間と巧みに調和してゆく術を知り尽くしたような、まろやかな静けさを運んでいた。ジプシーの幌馬車隊がこうした風の中を、天幕のある谷へと進んでいたのは、もう真夜中のことである。

 ジプシーたちは馬に帰り道をまかせたまま、誰もが祭りの疲れで眠り込んでいた。ナーダラを乗せた老人の馬車もそんな隊列からぽつんと離れて進んでいた。ただナーダラだけは眠っていなかった。馬車の最後部から足をたらしたまま遠のいて行く草原の道をぼんやり眺めながら、彼女の頭の中は今日ポロロ広場で起こった出来事でいっぱいであった。

―何でもないあのお婆さんに手を挙げたのは、私の過ちだわ。それは言い訳できない。でもお婆さんとは違う誰かが、確かにこの私の踊りを笑った気がする・・・。

 ナーダラの胸には幾度となく誇り高い踊り子としての血が押し寄せたかと思うと、それは再び潮のように退いていった。

 あの老婆の顔の底から発せられた不思議な声を思い出すたびに、ナーダラは今も心の底からやってくる得体の知れない不安に胸をうち震わせるのである。観客に与えた失望はいつか取り戻すことができるだろと彼女は思った。だが、何よりも深く胸に突き刺さったあの言葉―。

「いい気になりなさるな、娘よ・・・わずかな忍び笑いにも惑わされる、隙間だらけの舞いさ」

 目立とうなんて・・・人々におだてられて特別に変わった踊りをしようなどと私は心がけてきたわけではないとナーダラは呟いてみた。彼女は彼女自身の胸に自ら問いかける踊りへの疑問が、ふと見上げた夜空の星の明滅と重なりあい、今や不協和音となって寄せては返すのであった。

 その時、ナーダラはどこからともなく響いてくる美しく澄んだヴァイオリンの音色を耳にした。その音は鋭く、さてもの悲しく、それでいてどこかおおらかな気分に満ち溢れた響きを湛えて、草原の彼方からやってくるのである。

「なんて素敵な音色でしょう・・・」  

 おもわずヴァイオリンの音に聞き入ったナーダラは、その響きがあの老婆の言葉でかき乱されている今の自分の心を、優しく包み込んでくれるかのように感じた。そう思った瞬間、彼女の身体はとっさに馬車から飛び降りると、もう不思議な音色が流れてくる黒い森の方に向かって一目散に走り出していたのである。

 夜の草原には月光が黄色く降り、夜露が星の数ほどにきらめいていた。ナーダラの幾重にも重ねたスカートが草むらを走ると、キリリンと露の星は音を立てて彼女の素足に弾けた。

「一体、誰が弾いているのかしら?」

 ナーダラはさらに森への道を急いだ。

 やがて彼女が森に辿りつくと、森は鏡のように静まり返り、水底のように青ざめていた。そして人間や動物の影を模したような様々な木の枝や幹が、紗幕のように奥へ奥へと連なっている。ヴァイオリンの音はその森の深部から静かに流れてくるのである。ナーダラは少し歩みを緩めると呼吸を整え、今度は音がしないようにと足音を忍ばせて、森の奥へと進んで行った。

 次第に夜の闇に慣れてきた彼女の目には、あたり一面が宝石のように輝きに満ちている様が飛び込んできた。露草は彼女の耳を飾る金の輪よりも輝き、茸たちはナーダラが人目を引こうと買い求めた腕輪よりも琥珀に踊っていた。そして命のように大切にしていた胸飾りよりも、なお美しく樹木の周りを飾っているものは、エメラルドのように光る苔や蔦の線状であった。         

―私の飾り物なんて、こうしたものにくらべれば惨めに思える・・・。                   

 ナーダラは森の織りなす夜の宝石たちを見ているうちに、なぜかしら自分の心が街で起きた出来事を離れて次第に清らかな泉のように澄んで行くのを覚えた。それから彼女はさらに森の奥へと行くと、やがて小さな広場の入り口のような茂みに出た。

 その刹那ナーダラは思わず息を飲み込むと、ぴたりと足を止め、目の前の広場の光景に釘づけになってしまった。ナーダラがそこに見たものは一頭の年老いた大鹿の不思議な姿だったからである。

 広場の周りには樹木が生い茂り、木々の葉が天蓋を覆うように夜空を遮り、折しも木の葉の間からは漏れ出た黄色い月の光が竪琴のように幾筋も幾筋も広場に降り注いでいる。その月の光の糸を、何と鹿は自分の角の切っ先で緩やかに、時には激しく擦る動作を繰り返していた。突いては引き、また突いては引く、こうした鹿の角捌きの度ごとに生まれ出てくる調べ、それこそがナーダラがヴァイオリンの音とばかり思っていたものの正体だった。鹿の角の弓によって奏でられた月光のヴァイオリンの弦音―。

 この不思議な光景に胸を打たれたナーダラはすぐさま鹿に気づかれないようにと、近くの茂みに素早く身を隠した。その時、彼女のスカートの裾が木の枝に触れ、ほんの、ほんのわずかだが、カサッという音を立てた。 

―いけない!

 ナーダラはハッとした。

 鹿という動物がとても臆病で、その鼻はどんなに遠くにいる人間の香でもかぎ分け、わずかな物音にもビクンと反応し、たちまちその場から逃げてしまうことを知っていたからだ。今の物音で老いているとはいえ、きっと目の前の鹿はもう逃げ去ってしまっただろう。そう思いつつナーダラは物陰からそっと首をもたげて再び広場の様子を伺った。

 だが、ナーダラがそこに見たものは、逃げ去るどころか先ほどと寸分も違う事なく同じ動作を淡々と繰り返し続けている雄々しい大鹿の姿だった。 

―あの物音に気づかない訳がないのに、逃げもしなければ、なんの乱れもないわ!

 ナーダラは鹿の姿から、目をそらすことが出来なかった。

 それは種族の争いに勝利した時の祝祭の舞の訓練でもあったのだろか。いずれにしろ鹿が奏でる光の弦の音は激しいパッションをもって鳴り響き、ナーダラの心に極度の誘惑を覚えさせるものだった。と同時に一途な角捌きに身を委ねている鹿の身体からは、絶えず辺りを意識する細心の注意も働いているように見える。それでいて不思議なことに鹿の緊迫した舞い姿は見る者を不安に陥れるような神経質な空気を漂わせてはいなかった。鹿自身の動作は、何も繕わず、極めて自然であり、そしておおらかであり続けた。

 もったいない美しさ、これこそ森の王者だと、ナーダラは思った。見る側の我と我を忘れさせてくれる、神々しい生命の舞い姿だと思った。深い感動がやってきてナーダラを包みこんだ。

 その時、彼女はさらに鹿の背後の暗闇の森からスーッと立ち現れてくるもうひとつの淡い陽炎のようなものを認めた。そこに仄かな月の光があたると陽炎は一つの影となって青白く空中に浮かび上がり、やがて影は一人の人間の姿を現じて、鹿の背後に近づいて来るのである。

「アツ、あれは、先程のお婆さん!」

 ナーダラがそこに見たものは確かに、あのポロロ広場にいた老婆その人に違いなかった。

「いいえ、違うわ!あのお婆さんは仮の姿。あれこそは、アマヤだわ!」
 思わずそう叫んだナーダラの目の前で、幻影の人は鹿のヴァイオリンに合わせ静かに舞いを踊り始めていた。幼い頃からどんなにかナーダラがその幻の姿を追い求め、愛しく思い続けてきたかしれない舞姫―。

「そうよ、まさに、あの方が舞っているんだわ!」

 鹿が奏でるアダージオに合わせてその人は風となり、色づき、流れて、激しく燃え立ち、それから青く澄み切って、やがてその姿に鹿が透かされてしまったのか、人影が鹿に透かされたのか、二つの影は重なりあい、いずれがこの世にあるものであるかと定めがたい空蝉の羽根のような交差を繰り返しながら幻想の舞曲を現じたのであった。

 すべてが瞬時の出来事であった。ナーダラの胸を、はっと突くものがあった。

―人に見せなければ勿体ない、違うわ、人知れずともあんなにあの方の周りには美しい音が自然に生まれる、しかも、この鹿のように何事に惑わされる事なく自在に・・・。

 ナーダラの黒い瞳には感涙があふれた。月のヴァイオリンが今一度、高鳴った。それを合図のようにアマヤの幻影はナーダラに向かって一瞬優しさに満ちた頷きの微笑みを送ったかと思うと、鹿の姿を広場に残して森の中にスーと消えて行った。

 ナーダラの中に流れるジプシーの血はたちまち誘われ、彼女は我知れず広場の中に愛おしい人の影を追いかけるように走り出していた。そして鹿の前に跪いた。

 鹿は逃げなかった。鹿は踊りをやめると、ゆっくりとナーダラの顔を見つめ、その優しい瞳の中に、ジプシー舞踊の伝承を今まさに授けられた一人の娘の喜びに満ちた清廉な涙を写し出していたのである。                          

 それから月光の広場に、娘を残すと、やがて鹿は悠然と森の奥深くへと立ち去っていった。

       了。

     

*この作品は、2023年1月31日と2月1日に、南青山MANDARRAにて、「大輪塾」によってリーディング上演された。