音楽家が文章を書き、発表するということー自身の経験を振り返ってー

小森俊明

 今はネットで文章を気軽に発表することなど当たり前のことになっているが、少し前まではそうではなかった。ネット媒体の発達云々以前に、話し言葉と比べて書き言葉は難しいと考えられていたことも、無論背景にはあったのかも知れない。しかし、この20年ほどの文壇を見てみれば、新進作家をはじめ、話し言葉は立派に文学潮流の一角を占めている。文章を書くにあたって、模範的とされていたり美文とされている文章を意識する必要性はとうに薄れていると言っても良いのではないか。こうした2020年代の状況を考えてみてもなお、どうやら音楽家が文章を書き、発表することは、他の領域の表現者と比べて少ないように思える。勿論、音楽家である筆者が帰属し、よく知る領域であるからこそ、そのように思えるだけであるのかも知れない。発表するかどうかはともかくとしても、文章を書くことそのものは、古今より文字を持つ文明の人間にとって言わば本能的な営為であると同時に、最も初歩的な知的営為であったに違いない。音楽を表現するということがもし知的営為の一つなのであれば、表現の仕方は異なっても文章を書くということもまた、音楽表現者によって自然に行われても良いのではないか、と考えるのである。

 ところで音楽表現の段取りにはおよそ2つの方法があるだろうか。現代において最も多く行われているのは、作曲→演奏という方法である。これは当たり前のように思われるかも知れないが、必ずしもそうであるとは言えない。この方法ではない方法は、作曲と演奏を言わば同時に行う、「即興演奏」と言われるものである。筆者が活動の拠点とする現代芸術音楽(以下、単に「現代音楽」と記す)とその前史を構成する西洋クラシック音楽(以下、単に「クラシック音楽」と記す)の表現は、ほとんど前者の方法で行われて来ており、後者の方法による表現は限られた場面でしか行われて来なかった。ジャズにおいては周知の通り、アドリブと称される即興演奏が極めて重要な位置を占めているほか、オーネット・コールマン、ジョン・コルトレーンらが中心となって推し進めて来たフリー・ジャズと、その流れを汲む広義の即興スタイルである、フリー・インプロヴィゼーションによる音楽表現の発展をも促して来た。もっとも、即興演奏によって結実した「作品」を「作曲」された作品として定位させるには、狭義の「作曲」という営為と照らし合わせつつ、作曲の再定義をめぐるラディカルな議論を必要とする。しかしここでは、音楽表現の段取りにおいて、作曲と演奏という2つの大きな営為が存在することのみを確認しておくことに留め、先に進みたい。演奏を専業とする表現者(=演奏家)にとっては、何よりもまず作曲されなくては音楽を表現することが出来ないことは言うまでもない。作曲そのものは、過去や同時代の作品を参照しつつ、あるいは無意識にそれらやそれらの集合によって抽象化された様式から影響されつつ行われるものであるにしても、営為自体は白紙から起こされるものである。したがって、その点では文章を書くことと相似的である。つまり、演奏家よりも作曲家の方が、文章を書く契機を持っていると言えるのではないか。

 さて、作曲家が文章を書く時、その契機は何なのであろうか。現代音楽の領域においては、近藤譲がこのことについて記しているのはよく知られているかも知れない。彼にとっての契機を非形而上学的な観点から見れば、それは内的契機というよりも外的契機でありそうだ。それはともかく、彼と同じ領域の末席を占める筆者は、これまでに書籍、学会誌、雑誌、機関誌(および機関紙)、フリー・ペーパー、ウェブサイト、CDライナー・ノーツ、コンサート・プログラム等、さまざまな媒体に依頼原稿を執筆して来たほか、自身のウェブサイトのブログに自発的に執筆して来た。幼少の頃より文章を書くことを好んでおり、青少年期以降は関心分野が拡散したので、執筆という営為はごく自然な成り行きでもあった。現代音楽の作曲家によって最も要請されることが多いのは、自身が発表する作品についてのプログラム・ノートである。現代音楽の作品は一般的に難解であると考えられており、分かりやすい言葉による解説が求められるのが通例なのである。しかし、現代音楽の作品ほどには求められていないクラシック音楽の作品の解説にしても、作品そのもの理解を十全に助け得るものであるのかどうかを判断するのは難しいものである。ましてや、現代芸術音楽の作品を理解するのに、作曲家自身の言葉がどのくらい役立っているかどうかを判断することは、もっと難しいというべきであろう。そうであるのにも拘らず解説が求められていることに、現代音楽の難解さが殊更意識されていることは否定出来ないであろう。そうであれば、コンサート主催者にとって、まさに現存する作曲家に解説を依頼するのは最も安心であるのかも知れない。そして興味深いのは、それを拒絶する作曲家がまず存在しないということと、作曲家が熱心に執筆していることが容易に推察される文章が少なくないということである。もっと端的に言えば、作曲家は自作について語ることに積極的でさえあるのだ。それは、コンサートという聴衆にとって最も一般的な生(なま)のメディア以外の場である、レクチャーや対談等の場に居合わせてみると分かることである。プログラム・ノートやCDライナー・ノーツのみならず、多方面から自作について書くことを求められ、それらが広範に読まれている近藤譲は、自作の解説執筆に嫌悪感など持っているとは到底思えないのであるが、かく言う筆者もまた、少なくともプログラム・ノートを執筆することに苦痛を覚えることはないのである(ただし筆者は、作品そのもののみで理解出来るように作曲しているつもりであり、自身の解説はなくても良いという立場ではあるが)。有り体に言って、作曲家が少しでも自作を理解して欲しいと思う時、ほんの少しでもその一助となり得る執筆に手を染めるのは、ごく自然なことであるのかも知れない。

 それでは、自作についての解説の執筆以外では、作曲家はどのような執筆を行うのであろうか。比較的多いのは現代音楽論であろう。実はこれについては作曲家よりも、現代音楽に知悉した音楽学者や音楽批評家が担うことの方が多いのであるが、それでも作曲の当事者から聞ける肉声に大きな関心を寄せる層が存在することは容易に想像出来る。作曲家というのは畢竟研究者ではないので、学術的な視座から現代音楽について執筆する最適任者は、音楽学者や音楽批評家ということになる。しかし、作品の技術的な部分については、それが自身のものであれ他者のものであれ作曲家の方が知悉していると言えるであろう。そして、学者や批評家よりも作曲家の方が、経験と技術を持っているがゆえにリアルな論を持ち得るであろうこともたしかである。以上のことを考えれば、作曲家が執筆する現代音楽論には、学者や批評家とは異なる経験論的・技術論的視点からの文章が期待出来るということになるであろう。

 そろそろ「まとめ」を兼ねて、筆者自身の執筆上の立ち位置についても記しておきたい。本稿のタイトルには「作曲家」ではなく「音楽家」と意識的に記してある。筆者は先述のように現代音楽を活動の拠点としてはいるものの、「作曲家」であるというよりも「音楽家」であるという意識の方が非常に強い。それは、現代音楽の領域において分化してしまった、作曲と演奏という営為を結び付けて活動しているということと、他の芸術領域との関係をパラレルに、あるいは相似的に、はたまたアナロジカルに捉えつつ活動しているからである。その点ではどちらかと言えば、ジャズやロック等のミュージシャンの立ち位置に近いと言えるかも知れない。筆者がこれまでに執筆して来たさまざまな媒体の文章は、そうした立ち位置を大なり小なり反映したものである。勿論筆者の専門は音楽、わけても作曲なのであるが、それらの外の表現知に言わば素人としての視座から言葉を介して参画することは、本稿の最初に記した本能的な営為そのものにほかならない。加えて、自身の音楽表現にそれら表現知の何ものかが還元されることもまた、認識しているのである。表現者というのは、表現を止めてはならない。筆者は音楽表現と並び、他の芸術領域を含む執筆もまた、今後行っていくつもりである。それが仮に現代音楽作曲家としては異端的な在り方であろうとも。