【特別寄稿】蕪村の発句に於ける時間の考察(五) —経過という時間—

桝田武宗

 

 四五人に月落ちかかる踊かな

 

 この句は、秋の盆踊りを楽しんでいる情景を詠んだものだと解釈している人が多いと思います。しかしこの句は、そのように表面的な景を詠んだ句ではありません。

 先ず、時間的な面から書きますと、キーワードは、「落ちかかる」です。「月が落ちかけている」ということは、夜明けに近づいたことを表しています。従って、踊りに夢中になっている内にいつしか夜明け近くになっていたと詠んだ句です。盆踊りが開始された頃は、踊り手もたくさんいたのでしょうが、一人去り、二人去りという具合に減って行き、夜明け間近には四、五人になってしまったという景を詠んだ句です。つまり盆踊りはある時刻から開始されていて、現在は夜明け近くになったという時間の経緯が読み込まれているのです。

 収穫期に催される盆祭りです。皆が、収穫の喜びを感謝して楽しく踊っているはずです。

 しかし、残った四、五人は、喜んでばかりはいられない何らかの事情があるように思えてなりません。不幸な出来事があったのかもしれませんし悔しい想いがあったのかもしれません。とにかく、夢中になって踊ることで忘れたい、発散したいという踊り手の内面が想像出来ます。そうでなければ、たったの四、五人になるまで踊り続けることはなかったはずです。

 時間の経過が、踊り手の心情を映し出していて、ある意味寂しさや辛さを浮き彫りにしています。この句が心に染みる所以はそこにあるのではないでしょうか。

 

 —一瞬という時間—

 

 俳句とは、自然をあるがままに再現するものであり、時の流れの一瞬の景を捉えて十七文音の形に固定するものだと正岡子規は定義しました。そういう意味合いに照らせば次に紹介する二句は、正しく自然主義芸術論を俳句に取り入れた子規のいう写生を実現していると言えます。

 

 菜の花や月は東に日は西に

 

 この句は、太陽と地球と月がほぼ一直線になった時に起こる天体現象です。東から昇って来る月は満月です。満月が東の地平線から昇り、太陽が西の地平線に沈むという天体現象は、春に限られた現象ではなく、夏にも秋にも起こります。しかし、一面の菜の花畑を目の前にして太陽が沈み月が昇るという景は、宇宙の一瞬の絶妙に捉えた句であり、そこにこの句の自然美と景の雄大さがあって多くの人たちの心を惹く句となっているのではないでしょうか。

 この句が何故、「一瞬の時間」なのかというと、時の流れの中の一点=時刻=というものは、古来より日の運行によって決められていたからです。前にも書きましたが、「日の出」と言う時刻、日が南中する「正午」という時刻、「日の入り」という時刻は、宇宙の自然を基に決まっていて、人々はそれを目安にして生活していたのです。従って、月が東から昇って、太陽が西に沈むというのは天体現象の一瞬なのです。

 

 春の夜や宵あけぼののその中に

 

 この句の前書きに「もろこしの詩客は、千金の宵を惜しみ、我朝の歌人は、紫の曙を賞す」と蕪村は記述しています。

 もろこし=唐=の詩客とは蘇軾のことで、我朝の詩人とは清少納言のことです。蘇軾は、「春の宵」に千金の価値があると詠い清少納言は、「枕草子」の冒頭で、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」と詠んでいます。

 蕪村は、春の夜の美しさは、蘇軾の「春の宵」でもなく、その真中に春の美しさがあると詠んだのです。これもまた、天体現象の「一瞬」を捉えた句と言えるでしょう。

 

*漱石も俳句を投稿していた俳誌「渋柿」令和3年11月〈1291号〉より、転載。