短編小説『悦っちゃん』

矢野マミ

「そういえばさ、悦ちゃん、亡くなったんだって……」

 久しぶりに会った同期からの報告に驚きながらも、いつかその日が来るのを予感していた。

 

『悦ちゃん』は、3人目の育休明けに出会った上司だった。社内の有名人だった。50代半ばで金髪のショートカット、いつも黒のスリムなパンツにシャツの裾を出したカジュアルな着こなし。でも誰よりも仕事ができた。課内のマネージメントも上手だった。30代半ばからずっと主任的な立場にいたのに、管理職にならなかったのにはいくつかの理由があったと思うが、彼女の毒舌もその一つだろうか。

初めて会った時、30代、3人の子持ちの私に彼女は言った。容赦なく。

「で、アンタ何ができるの?」

「……」

 

 何とも答えようがなく「いろいろ教えて下さい」とお茶を濁した。

 子どもの発熱や保育園の行事で早退や欠勤が続くと、ある時、悦ちゃんは真顔で言った。

「両親とか、近くにいるんでしょう? 子ども、預けたら? 私ね、子どもは両親に預けて働いていたの。ラクよ~ 」

 

「いいわよ~。月曜の朝に預けて、金曜の晩に迎えに行くの。土日は親子でゆっくり過ごして、また一週間、お預け。子どもの心配、何にもしないで働けるよ~ 」

 本気で勧めているようだった。

「はぁ、すごいですね。でもウチは三人いますから、ちょっと無理です」

と、かわして、給湯室で愚痴を言った。

「何なの? アノ人。子どもを何だと思っているの? 他人のことに口挟まないでほしい」

「悦ちゃんは、トクベツだから……。仕事が大好きだから」

 彼女は社内では特別枠らしく、愚痴をこぼされた相手は「気にしない、気にしない」と言って笑った。

 

 本社から来る支社長は決済の判だけ押し、書類はほとんど事前に悦ちゃんが見ているようだった。

私より若手の、前から一緒に働いている子たちの何人かは、二十も年上なのに『悦ちゃん』と彼女のことを呼んでいたけれど、私は最後まで『悦ちゃん』とは呼べなかった。

職場のみんなは時々外にランチに出かけたけれど、『悦ちゃん』はいつも一人残っておにぎりを食べていた。「ランチに行く時間がもったいない!」と息巻いていた。

 

 子どもが小学校に入り少しは彼女とも気軽に話せるようになった頃、携帯の待ち受けを見せられた。

「ほらっ!」

 受験番号の張り紙だった。

「娘がさぁ、医学部合格したのよ」

「あ、あのご両親に預けていらっしゃった」

「そうそう」

「おめでとうございます」

「うふふ……」

悦ちゃんは、本当に嬉しそうにしていた。

 

 その理由は、別の人から聞いた。

「『悦ちゃん』さ、癌なの、乳がん。おっぱい片っぽ切ってるの」

それは知っていた。ずっと前の飲み会の席で、彼女は酔っ払い、(いつもたいがいよっぱらう)

「わたし、おっぱい片っぽ切ってるのよ~。シリコン入ってるの、見たい人~」と、大声で叫んでいたから。

 

「で、娘が医学部受かったって、言ってたでしょ? 」

「うん」

「五浪してたの、五浪。五浪だよ? 女の子なのに、五浪」

「すごいですね」

 聞けば、娘は悦ちゃんが乳ガンにかかって手術をしてから「医者になる!」と決めて受験を決意したそうだ。高3の夏。担任には「冗談でしょ? 」と言われて相手にしてもらえず、余計にガムシャラになったそうだ。現役で落ちた後、東京の予備校の寮に住み込んで通ったけれど、1年目は都会の悪いオトコに引っ掛かって恋愛にどっぷりはまり、2年目は本気になったが足きりに合い、3浪目は家に戻って来たけれど、当日風邪を引いて力を発揮できず、4年目は2次まで行ったけどあと一歩及ばず、5年目でようやくの合格。

 聞けば聞くほど感動する話だ。そして、うわさ話の主は続ける。

「でもさ、五浪して医学部入った医者に診てもらいたい? なんか、頭悪そうじゃない? 」

「そう? そんなことないでしょ? 地方とはいえ国立だし。国家試験に落ちる人もいるよ? 」

「まあさ、『悦ちゃん』の娘だから……」

「そうだね」

 何が「そうだね」かわからないが、その話はそれで終わった。

 

 やがて『悦ちゃん』は退職していき、すっかり過去の人になった頃に「亡くなった」と噂が流れて来た。娘さんは、悦ちゃんの病気を治すのに間に合わなかったんだな、でも近くで看病できたのかな?

 

『悦ちゃん』は幸せだったのかな? 仕事ばっかりしていたけど、そんなに出世もせずに、子どもと過ごす時間も削って働き、癌になって手術したけど、おそらく再発して亡くなった? 何が幸せだったのかな?

 

「何をゴールに決めて、何を犠牲にしたの? 誰も知らず。」これは悦ちゃんの歌だ。そして私の歌だ。

 

『悦ちゃん』の幸せ、『悦ちゃん』のゴール、『悦ちゃん』が犠牲にしたもの、何も聞かなかった。

もっとたくさん話を聞いておけば良かった。たった数年、職場で偶然、隣の席に座っただけの『悦ちゃん』

 金髪にシャツの裾はためかせ、社内を颯爽と歩いていた笑顔と、あの「問い」が耳に残っている。

「で、アンタは何ができるの? 」