『漱石の〈夢とトラウマ〉』はじめに(後半)

原田広美

 

 だが二ーチェが、それまで「教会」に束縛されてきた「肉体」――たとえば教会では伝統的に歌唱は許されたが、舞踊は許されず、マリアの処女懐胎によるイエスの出現が説かれたように、「肉体」は封じ込められてきた――にこそ、キリスト教の教えを超越する各々の「個」の可能性が秘められているだろうことを想定し、「私は踊ることを知る神だけが信じられるだろう」と(『ツァラトゥストラ』に)書いたことは、重要だった。

 

 その後の二十世紀初頭に誕生した精神分析は、「肉体」に関わるリビドーを重視した。だが、そこから取り残された「身体」と「無意識」に股がる広範な領域を扱ったのは、心理(および心身にまたがる)療法だった。具体的には、身体に注目する度合いの差異からフロイトと袂を分かち、大戦前後には、ユダヤ系であったために欧州から米国へ逃れたウィリアム・ライヒ(オーストリア出身)やフリッツ・パールズ(ドイツ出身)などが、それらの筆頭である。

 

 しかし付け加えておきたいのは、これまで私が、古今東西の「宗教的な心意」にも自然な形で親しんできたことだ。漱石もそうだが、これは、近代以降の人間が、なかなか一つの宗教、あるいは一つの累積的な思考の集合体である各「社会機構」には回収仕切れない「個」を感じ、苦悩しつつも、たとえば「敬虔さ・尊厳」などという、ある種の「宗教的領域に関わる心意」を保持しようとする「願い」を持ち続けてきたことと無関係ではないだろう。

 

 我国においては、一九八〇年代以降、各々の足下に広がる「社会機構」に対するアンチテーゼとして、「アウト・サイダー」という発想や、「脱構築」といった思考法までの理解は、ある程度定着した感がある。だが、大宗教あるいは社会の大機構へのカウンター・カルチャーとして、それらを内部から支える最少単位である「個」の「脱構築」と相互の関係性に関与すべき、エンカウンター・グループを始めとする、心理・精神・身体療法などにまたがる分野の輸入的な紹介や消化、および社会的な認知は、一九九〇年代の半ばに一たび停止状態に陥った。

 

 それは、エンロールを伴う自己啓発セミナーや、精神世界と呼ばれた領域から輩出されたグルイズム(ヨーガや密教において、指導者を絶対視する信仰・修行実践)、特にオウム真理教の凶悪な一連の大事件などのイメージと混同されたためである。そして、「臨床心理士」制度などの中へ、全体から見れば矮小化されて回収されてしまったようにも見える。

 

 漱石と「冒険」の視点に戻ると、本書のテーマは、深層に内在する「抑圧」と「トラウマ」と、それにより制限され得る「人生そのもの」というクリエイションを含む、漱石によるクリエイションの全体(特に小説など)に、「冒険」がどのように関与したかについての探求でもある。「抑圧」を解放し、「トラウマ」を癒すために、漱石は、まず「(自らの創作としての)文学への夢」を発掘して生成し、その後、「創作」に「冒険」を取り入れることにより、さらなる自己の深層解明と、内包する「夢」を基盤にした創造性の開花を試みたのではなかったか。

 

 長兄に「(創作としての)文学は職業にならない」と言われて(「処女作追懐談」〈談話〉明治四十一年九月『文章世界』)以来、一度は「文学への夢」を放棄した漱石だが、正岡子規との交流をきっかけに抑圧されていた「夢」を発掘し、その生成を始める。その「冒険」は、すでに『吾輩は猫である』を書いた時から始まっていた。その後、「朝日新聞」の小説記者になり、職業作家としての第一作目は、『虞美人草』だった。だが、それは魅力的な作品ではあるものの、漱石は心理的抑圧を多く抱えた者として、その中で、一度はルサンチマンを晴らさざるを得なかったようにも見える。つまり、それは勧善懲悪的な作風である。

 


 その後、あたかも主人公が無意識下へ降下するように坑道を降下する『坑夫』の方向性を引き継ぎつつ、クリエイションのための新たなエネルギーを補充するべき時期を直感的に察知した漱石が、「夢」を題材に、あるいは「夢」という形式で作品を描くことにより、深層の「トラウマ」を浮上させ、作品を書き進める過程で、無意識のうちにそれらを癒そうとしたように見える。それが、『夢十夜』である。そして『三四郎』では、無意識という語を意識的に用いて「美禰子の無意識の偽善」を描こうとした。そして、その後の『それから』に至り、ようやく、主人公・代助がかつて友人に譲渡した恋人を取り戻そうとする「冒険」が意識される。

 

 そして、この『門』を脱稿後、漱石は「修善寺の大患(三十分の仮死)」を体験しなければならなかった。病床から回復後の『彼岸過迄』では、敬太郎による「冒険」小説を試みるが、その「冒険」は、小説の前半で前座のような形で頓挫し、とうとう『行人』では意識的に、「死ぬか、気が違うか、宗教に入るか」の間を彷徨する一郎を書かざるを得なくなる。

 


 つまり漱石としては、おそらく小説の登場人物たちと同様に、その「冒険」を支え切れない自らの「性質や状況」を打破する道を模索するべく、「創作」に「冒険」を取り入れたものの、「抑圧」を解放し、「トラウマ」を癒すための道筋をあらかじめ確保していたわけではないので、「創作」に「冒険」的な要素を取り入れて以降、それがうまく扱い得なかった分だけ、「死」や「神経衰弱」「病」が、創作上に、また漱石の実人生に、現われ出たようにも見える。

 

 このような「冒険」を支えるために、内包された「夢」を創造的に開花させようとする「生の方向への動向」と、それを「抑圧」する「トラウマ」に基づく「死の方向性」を軸にすえた、漱石と漱石作品の関係性の詳細については、本論に譲る。だが、ここで特記しておきたいのは、「冒険」小説『彼岸過迄』を書き始める直前に、かつて漱石が「朝日新聞」に入社した際の良き仲介者であった池辺三山が、「朝日新聞」を辞職したことだ。

2019.6.14. 漱石カフェ(ダミアン・フラナガン×原田広美)於:神保町 サロンド冨山房フォリオ

  
 その発端は、漱石の弟子の森田草平が「朝日新聞」の連載した小説『自叙伝』が、社内で不道徳との悪評を得たためだった。漱石は、自分にも責任はあるとして、三度も辞表を出したが、受理されなかった。

 


 つまり、この時、漱石の側にはすでに、「朝日新聞」を辞職するという、より「冒険」的な道を選ぶ準備が整っていたにもかかわらず、結果としてそこへ留まることになった。かつては大学教授の椅子が用意されたのを断わって、より「冒険」的な「新聞屋」になる道を選んだはずの漱石が、その後も社内での発言権を弱められたまま、思いもがけず「癒着」的に、「朝日新聞」に残留することになってしまった。

 


 そして、この潜在的な「癒着」の関係が、その後の漱石の「冒険」を相殺する要素として働き続け、漱石が「手にあまる問題を扱おうとした冒険」の難しさをさらに助長する要因となったにように見える。特に「癒着」の関係が始まった直後に執筆した『彼岸過迄』と、絶筆となった『明暗』においては、ストーリーの中に「冒険」を相殺する「癒着」の要素が明確に現れる。

 


 さらに、『こころ』は漱石が体調を崩すことなく執筆できたものの、Kの自殺があり、主人公の先生の「死」で作品が閉じられる。その後、漱石は自らの「夢」と「トラウマ」の巣喰う深層を耕すかのように、続く『硝子戸の中』では、身辺の雑記と共に、生母にも及ぶ数々の思い出を浮上させ、『道草』では、実父との関係で漱石の深層形成に大きな影響を与える元凶になった養父を扱った。

 


 と同時に、『道草』では、それまで描くことのなかった英国から帰国後の、妻・鏡子との生活の思い出を振り、結果として、「幻想のマドンナ・コンプレックス」というべき「トラウマ」の周辺を耕した。

 

 この『こころ』から『道草』までの流れは、『虞美人草』でやはり主人公の「死」を描かざるを得なかった漱石が、その後に『坑夫』や『夢十夜』を描き、自らの深層へ降りて行こうとしたことに類似している。つまり、作品世界が「死の方向」へ傾いて閉じた時に、漱石が自らの深層世界を改めて耕し、無意識のうちにクリエイションの新たなエネルギーの補充を成し得たようで、目を見張るべきものがある。

 

 
 そして、その補充によって、漱石は「生の衝動」=「個に内包されている夢」と「冒険心」を新たに育て、『明暗』で新境地を開き得たのではないかと考えられる。

 

                     *

 私が、本書の原稿に着手したのは二十年ほど前であった。たまたまその頃、吉本隆明から「作家論と作品論を分けた方がよい」との示唆を得る機会があった。それを生かし、漱石が『吾輩は猫である』を書くまでを扱った第一章から、『夢十夜』を読み解いた第四章までを「作家論」として読むことが可能なように加筆した。

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 また『三四郎』については特に蓮見重彦、小森陽一、石原千秋の著作から、『明暗』については大岡昇平の『小説家・夏目漱石』、水村美苗の『続明暗』から、貴重な示唆を得た。その他にも、小森、石原両氏の著作からは、ほぼ同世代であるため、数々の示唆を得てきたように思う。

 


 漱石のテキストと共に、諸氏の先行研究や漱石の周囲の方々が記した記録などを参考に、心理療法家としての視点を生かして書いたのが本書である。

 


 なお執筆を開始したのは、夫の小石川の実家に居候をしていた時だった。夫の祖父母の代には本郷の菊坂で、戦後には祖母が小石川に移転して、学生相手の下宿を営んだ。義父母とも、現在は故人となったが、ここに感謝の念を記したい。
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**刊行元の新曜社のご協力を得て、掲載しています。

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