笠井叡新作ダンス公演「『櫻の樹の下には』カルミナ・ブラーナを踊る」の笠井休演を巡って考えた事。

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山家誠一

 普通こういう事は、世の中的にはなかなかあり得ない話だと思う。2022年11月23日~27日の東京・吉祥寺シアターでの笠井叡新作ダンス公演「『櫻の樹の下には』カルミナ・ブラーナを踊る」で、その当の笠井叡自身が体調不良のため全日程休演になってしまったことだ。当然公演中止か延期になると思った。特異な舞踏家笠井叡と5人のコンテンポラリーダンスのダンサーたちが交差することで、笠井言うところの「ポスト舞踏派」の舞台を作り出そうとしていたと思われるからだ。しかし、拮抗する一方が欠けてしまえば、表現をせり上げる力は生まれ得ず、片肺飛行のような表現空間にならざるを得ないだろう。5人のダンサーの1人が、笠井っぽい白いドレスふう衣装を着て笠井の代役を務めていたように思われるが、やはり笑ってしまった。5人のダンサーはユリアヌス大植、カリオストロ島地、ジニウス辻本、ド・モレー未來、ジャンヌ柳本だ。 

 ではなぜ笠井はこうした舞台を容認したのだろうか。

 笠井の独特な空気がない分、筆者のようなかなり高齢な、笠井のそう熱心ではないが、彼の表現に刺激を感じてきた者には、「なんだこれは?!」という驚きがあった。しかし、下駄を突っ掛けて踊る4人のダンサーたちは、会場に少なからずいたと思われる若い観客からは、大いに受けていたようだ。

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「ポスト舞踏派」の表現とは何だろうか。舞踏と言えば薄闇の中から、身体の放つ気配が浮かび上がるという感じだが、この舞台は真逆のこうこうとした明るさの中にあった。そんな中で、例えば、ダンサーの1人、ド・モレー未來の身体の動き出す一瞬前の、身体の内なる力が痙攣し出す様は、観客の中にもぎりぎりの緊張感として伝わって来た。ここがカッコイイのだ。コンテンポラリーダンスが、ポストモダンダンス=意味性の深度の喪失すなわち平面化だとすれば、ポスト舞踏派の表現とは社会のポストポストモダン状況に対応するものではないか。言ってしまえば、論理性ではなく、何でもありの想像力=創造力の世界だ。

 たまたま同時期に東京都美術館で開催されていた「展覧会 岡本太郎」を見て、その中で、岡本が縄文土器の造形の中に論理性を越えた生命力を見いだしていた事が語られていた。論理性を越えるとは言語の持つ無矛盾的構造性を越える事だ。ポストポストモダンとはそういう所に通じる思想だろう。何でもありという感覚だ。

「『櫻の樹の下には』カルミナ・ブラーナを踊る」の会場が、笠井叡の不在にもかかわらず受けていたのは、ポストポストモダンの社会状況が作る観客の時代精神に上手く響いていたからだろう。「ポスト舞踏派」の表現とは、そういうものだったのではないかと思った。ならば、公演が中止もされず、延期もされなかった理由が、もちろん今更チケット代金の払い戻しはできないという経済的現実も大きくあったとは思うが、個人的には納得した気分になったのだった。

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編集部にて追加
(笠井叡について、ホームページより)

 

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