思い出エッセイ「祖母と着物」

西之森涼子

 

 母方の祖母の生きがいは、おしゃれをすることだった。祖母には似ず、おしゃれが苦手な母は半ばあきれながら、それでも亡き祖母に愛着を覚えながら、懐かしそうに話す。

 明治生まれの祖母は、最初の結婚で娘を授かるが、スペイン風邪で夫と子供の両方を失ってしまう。                                       

 その数年後に、背が高く男前の大工だった祖父に一目惚れし、二度目の結婚をした、と、母と私達姉弟は祖父の遺影を見て思うのだが、祖母によれば

「お祖父ちゃんは面食いだった。」

要するに、お祖父ちゃんの方が美しかった自分を、先に好きになったと言いたいらしい。    

 自分の容姿に確固たる自信を持つ祖母は、この上なく着物を愛する人だった。     

 祖母の生まれた村は、東京でも西端の村であり、現在はダムの底だ。しかし、そんな田舎で育ったことを全く卑下することもなく「私はおしゃれがしたいから、都会へ出る。都会ならおしゃれができるから。」と言って、豊島区に暮らす叔父を頼って祖父と都会暮らしを始める。初めは慣れない生活に戸惑っただろうが、都会は華やかだった。段々と伝手も広がり、仕事が切れ目なく舞い込む祖父は大忙しだった。祖父が働いている間、祖母は次々新しい着物を作っていたらしい。裁縫が得意だった祖母は流行の生地を買っては着物を仕立てていると、流石に物事に無頓着な祖父も気づいたらしい。

「また新しい着物を作っているのか。」と祖父が尋ねると

「ああ、これは人から頼まれたの。」といつも胡麻化していたらしい。母はそれをかなり後になってから、祖母から聞かされた。

 いつも流行の着物を着て、芸者衆のように首を白粉で塗り花札を覚えた祖母は、東京生活を満喫していた。そして一人娘をお嬢様にしようと企み、母を大学まで一貫教育の幼稚舎に入園させた。母を無事に卒園させて七五三の晴れ姿を家族三人で撮った時の写真は、祖母のお気に入りだった。

 順風満帆に見えた都会での暮らしだが、忍び寄る戦争の暗い影からは逃れられない。

 母が小学校に入学後から、次第に東京下町は空襲の危険に晒されるようになる。そしてとうとう、東京大空襲によって家を失ってしまう。やむなく仕事がある祖父を一人巣鴨に残し、先に疎開させた娘が住む東京の西端に逆戻りした。生まれた村は既にないので祖父の親戚が住む町で新しい暮らしが始まった。

 祖父からは、まとまった生活費と白いお米が送られてきたこともあり、周囲に比べれば恵まれていたらしい。しかし流石に戦後の田舎の町で、祖母はもう都会の下町に暮らしていた頃のように、新しい着物を沢山作ることはできなくなった。戦争は終わったが、徐々に生活は質素になっていく。

 それでも、家の中や庭をきれいにするのが好きで、裁縫も得意な祖母は無駄なく家計を管理していた。着物も毎年きれいに虫干しして、大切に保存しておいたのだ。

 妹や私は、小学生の頃から冬になると祖母が縫った綿入れ袢纏を着ていた。いつもきれいな布で作られていたのを想い出すが、もしかしたら祖母の若い頃の着物をほどいて作ったのかもしれない。

 祖母はその袢纏以外にもいろいろなものを作っていた。例えば、幼稚園の頃に履いていたサクランボやイチゴの柄の私のスカートは、履かなくなると子供用の小さな座布団になっていた。また細長く残った布で、着物の腰紐などが何本も作られていた。それだけではない。靴下に少しでも穴が開くと、次の日にはきれいに繕ってあったのである。次々と新しい着物を作っていた祖母は、いつの間にか倹約が得意な主婦になっていたのだった。

 また着物の着方にもとてもうるさかった。まるで祖母のためにこの町に来てくれたのか、と母は思ったそうだが、近所に赤坂の芸者だった女性が美容院を開いたのである。当時祖母は、着付けや髪を祖母好みに仕上げられる美容師がいない、と憤懣やるかたない様子だったのだ。祖母は早速その美容院に通い始め、九十六歳で天寿を全うする少し前の年までお世話になっていた。私も一度成人式の時にその方に着付けをしていただいたが、なるほど襟足の抜き方が玄人で、これなら祖母も納得したに違いない、と思ったものだ。というのも、祖母は襟の抜き方が野暮ったい、着物の着丈が短い、などとうるさく、仕舞には

「七五三じゃないんだよ。」と怒ったからだ。未だに私も妹も自分で着物を着ることができないのだが、着付けをしてもらうときは、

「着丈を短くしないでください。」と頼むのだ。着物を粋に着こなさないと、

「野暮ったいね。やり直してもらいな。」

という祖母の声が、どこからか聞こえてきそうだからである。