夢日記『風景』

ゴーレム佐藤

 

 気がついたら煙草がフィルタのところまで灰になっていた。

あわてて灰皿に押し付けた時、いきなり風景が見えた。

蒼い海。蒼い空、風までもが蒼い。

 

 などということは微塵も無く、眼前には渋い顔をした女が一人。ナチュラルに魅せようとしている化粧やマニキュアが悲しい。こいつは何を言おうとしているのか、いや言おうとしていないのか。アップにした髪、その正面ではなくうなじがどうなっているのか、の方が気になる。

まあおそらくは、虚ろに映るであろう私を、何も聞いていない奴と判断したんだろう、その渋い顔。

 

 風景は女の輪郭の外側に見えていた。輪郭の内側はぽっかりと僕の視界から落ちていた。 子供の頃、漁船に乗ってメバル釣りに行った風景がそのシルエットの向うに浮かぶ。朝4時半起きで小さな漁船の舳先にちょこんと坐って何メートルも上下する快感に浸っていると船頭が目的地に着いたことを知らせる。凧糸の様なテグスにコマセを入れるちっちゃな網がいくつもついていて、その先にはいくつもの釣り針がついていた。メバル釣りは、オキアミのコマセだ。凍ったコマセをそのちっちゃな網に押し込んで海面に落とす。底に着いたらフタ尋、いや私は子供だったので、三尋あげろと言われたっけ。

  あとは波に上下する船にまかせてテグスを握る。深い海の底のほうでコマセが溶けて流れるのを想像していると、急にグググっと手に反応がある。海の底から呼ばれているようだ。グググっ。引き込まれてしまいたい。

 しかし船頭はすかさず、行ってしまいたい僕を引き止めるのだった。

 「ボク、引いてるぞ。もういくつかアタリが来るから、そうしたら一気に引き上げろ!ボクが一番だな」

 我に返った私は船頭の言うとおり暫く感触を楽しみながら待っていると、次々と海底への誘いが襲ってくる。

 「ホラ!いまだ!」

 すかさず声をあげる船頭の言葉にまたはっとなった。夢中で引き上げる。ビクビクする感覚がどんどん近づいてくる。覗き込む船頭の視線を背後に感じながら一気に引き上げる。

 

  スズナリだ!メバルがスズナリだ!

 

  言いようのない快感が身体を突き抜ける。海底からの誘いはすっかり忘れていた。

 船頭に振り向いて感激の表情をしてるであろう子供の私のその顔は、シルエットに隠れて見えなかった。

 

 風景はそれで終わりだった。風景にも時間があるのだ。

 陰鬱な空気と視線だけが残った。シルエットはいまだにシルエットであって、そう、私が見ようとしていないからに違いない。風景が浮かぶ前の、化粧や爪や服や表情までもが、風景が消えても見えることはなかった。シルエットから何か発せられる音が頭の上あたりで雲になってしのつく雨を降らせるだけだった。

 この陰鬱な空気は梅雨だからかなぁ、そんな勝手な思いに身を任せていたけれど、やがて背後からどんどん大きくなっていく夜に押し潰されそうになっていく。つげ義春のマンガだったかなぁ。その背後から忍び寄る恐怖に比べたら何も怖くはないはずだと。でも、いま私にはその恐怖が多分。そう多分だけど、私を包み込むのを感じている。

 それでもあなたの声は聞こえないのだった。あなた?そうか!あなた、だったのだね?あなたと呼ぶ人だったのだね?

 遅かった。

 老眼のくせに眼球から1センチの距離で渦巻く色彩の狂気の渦に、あの時呼ばれていた海底に、狂おしいほどの音の洪水に、飲み込まれ遠のき揉まれ千切れて、私はひとつの原子になるような気がした。

(夢日記)

 


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