連載小説『天女』第七回

南清璽

 

 「待って下さる?」

 その声には幾分か重みがあった。でも、これは聞こえがいい様に言ったまでで、もう年増にかかろうとしている年頃だったから、生娘の様な声は持っていなかったのだ。だが、その声の深みには、何某かの知性を感じた。彼女には正直なところ幾分かの下賤さを感じていたのも事実だった。だが、それは天女が、傾城であったということからで、その一事をもってそう考えた自身の浅はかさを恥じた。いや、こうやって恥いるのも彼女への興味を覚えていたからだ。私は、こんな具合に、なんの根拠もなく高等女学校ぐらいは卒業していると思う次第になった。

 出血も幾分か収まった。このお屋敷からそう遠くない医師のもとに診察を受けに行くことにした。そこは結構深夜でも、急患には、応じてくれる処だった。だから、今すぐにそこに赴くのは何らのためらいのないはずだった。

 だが、その声の主である天女の方へ目配せをし、自分も何某かの応答を行うむきであることを彼女に了知させるのだった。寝台に座している彼女の様子からして、私の意図を解したものと承知できた。つまりは、私に対して何かを言おうとしていたことを。何よりその視線を私に向けていた。

 「驚きました。令室からは何も話さない人だと伺っていたものですから。」

 私は作為を施していた。深みのある声で柔らかい口調で述べた。

 彼女は、

 「そう装っているだけ。」

と答えた。素っ気ない口調ではあったが、それはある意味、私への気遣いだと思えた。そうお館様とのことでは、そう構ってほしくない、何らの同情をかおうとしないいう具合に。

 天女について、令室に聞かされている事情のあらましはこうだった。何でも性感染症に罹患し、そのため、膣や子宮も切除するものの、今や、脳も冒されていると。だから、言葉が発せられなくなったにだと。また、病に冒された身になったため、かなり痩せ細ってしまった。それゆえ、人からは「天女」と称されるのだとも。

 

 「病気で話せないのかと。」

 「狂言よ。」

 天女は、そう告げた。でも、それが狂言であったとは正直、思いたくなかった。何分、話さない事自体、彼女への同情の誘いであったからだ。むしろ、憐れみが失せないか気がかりだった。もちろん、そこに彼女に惹かれる一面があった。

 他方、その答え方は相変わらず素っ気ないままだった。あくまでも同情を拒もうということなんだろうが。一方、そうと察してしまうと、今度は、そこまでこの私と距離を取ろうとするその所以如何にという次第となった。もちろん、私に対し、おもんばかった気持ちからそうなったのであるものの、単に愚直だとも思え、その無粋さが、彼女一流の、でも、手管とは言い切れないほどで、かえって感傷を覚えさせた。もちろん、意地らしいのだが、そうともいえない大人らしい感じがした。そう、女という面を見せない。

 私は、サイドテーブルにあった水差しからコップへと水を移し替えていた。何か行き詰まるとこの様な意味のない所作を取るのだった。天女は私と同じく食客には違いないが、半ば執事として労働を課せられる我が身とは違っていた。だから、こんな具合に、お館様の身の回りだけでなく、この女性に対しても時折世話を施していた。

 もっともそういった折に、私は令室に対する様に、あの屈折した感情を顕にすることはなく、むしろ、天女には私なりの柔和な表情を向けていた。もちろん、それは愛想といわれる向きのものであって、一つの社交であり、見返り求めない、純粋な意味で奉仕ともいうべき性質の事柄だった。特段の由もなく、お館様と情を交わす間柄だけという事情を慮ってのことで、それ故の、忠誠心ともつかない、何か課せられたものだという意識と、いわば憧憬ともとれる感情で、自然に発露したという感じもしていた。

 「どうして打ち明けようと?」

 「人が良さそうなので。」

 ただ、その言には、辟易とした。私には、令嬢との、あの出奔の一件と同じ様に思え、好意的に捉えようにもそうできなかった。令嬢が、自分に頼ろうとした所以を述べたときと同じ言葉だったからだ。

 

 「こう見えても、恋仲に陥った人がいたんです。」

 私にとって何より聞きたくない話だった。この天女に恋をしているものでないというのに。むしろ、どうして女郎に身をやつしたかを知りたいぐらいだった。これから話そうとすることには、それなりの悲恋があったのだろうが、私はそれを聴いて彼女に同情が傾くか疑問だった。いや、むしろ懸念といえた。もちろん、嫉妬などはありもしないが、たとえ作為にしても、天女の身の上に対する同情、あるいは不条理な事柄に対する憤りを世間並みに表せられるか不安だった。

 私は、ある空想に浸っていた。その天女と恋仲になった男性の境涯についてだ。私は何の根拠もなく、その男が、自分と同じ芸術家で、未だ不遇にある存在ではないかと思ってしまった。そうして、天女は、訥々と顛末を語り出すのだが、そのしんみりとした感が、あの独特な雰囲気に適合した。そう、翳りという。天女自身、整った顔立ちをしていが、どちらかというと、美貌よりその翳りに惹かれた。 「何もせず夜通し話して過ごすことだって…」

 私は、その話を天女から聴き、ふと令室との間柄に想いが及んだ。何がといえば、天女とその男性の様に高潔な面を醸すことが全くなかったからだ。私は、ただ、令室の求めに応じ、その欲求の対象になっているに過ぎないのだ。もちろん、そうするのも、令室の機嫌を損なわないためで、いわば、令室を性愛というより物資として見てしまった結果でもあった。畢竟、その男性と天女の間に羨みとも妬みともいえない感情が生まれていた。だが、そこに潜むたわいもなさが、どうしても馴染めず、そういった事柄に対する反射的な意味で、蔑んでいたのも事実だった。

 

 「だからでしょうか。惚れたんです。決して、人を恋しく想うなんて許される身でないと分かっていましたが。ほんと、遊女ではなく、一人の女として見てくれたんですから。」

 意外だった。そのしおらしさ。天女の語り口にそれを感じられたのだ。そうしてある訝しさがつきまといした。天女の声の深みだった。もちろん、作為ではないが、なぜか素直に感覚として受容出来なかった。

 ただ、その相手の男性に対する私の人物像の予想は見事に外れていた。狷介ゆえの孤高、そして、何処か病んだ節のある、文人あるいは画家といった男性ではないかと思っていたからだ。

 その相手とは俗にいう成金の子息だった。だが、天女の話の端々から御曹司ともいうべき風合いの持ち主だったとも覚えた。

 「一夜を無為に過ごすときに本を読んだりしてくれました。アドベンチャーオブシャーロックホームズ、とても面白いんです。」

 「そら面白いでしょう。」

 その本は読んだことがあった。探偵小説であったが、本筋の謎解きより、むしろ、人間の背徳や業に興味を持ったものだった。こんなふうに原書を読んで聞かせられるのも、帝大を卒業したインテリゆえの所業というところなんだろうが。もちろん、自分にもそれぐらいの芸当はやって見せられる自信はあった。だというのに天女が屈託なく語る姿から、妬みを覚えたため、つい、「そら面白いでしょう。」という具合に素気なく言ってしまったのだった。

 そういった妬みとと共にその御仁の優しさに想いが及んだ。私は、それを一つの優しさと見てとったのだ。遊女といながら、情も交わさず無為に過ごすことを。そうして、お館様との差異、つまりは、天女との情交の在り方とをその男性と比べてしまっていた。人前でそれを行うとは、同時にそれは屈辱を天女にもたらすものに違いない。だが、同情という向きでそれに触れるのは、少々躊躇われた。それも、天女に遊女であったという意識が強かったとことに想いが及んだからだ。そして、それは、幾分かの自虐でもあった。

 「初めてというわけではないのでしょう?」

 「えっ?」

 「初めてではなかったわ。」

 それにしても察しがいい。私の問いかけが、人前で晒される情事のことだと察せられているのだから。

 「でも、辛いなんて、とても」

 今度は、私が天女の気持ちを察し、慮る番となった。ただ、彼女に対し、気になっていたことは尋ねた。

 「ある意味誇りからですか。」

天女は、怪訝そうにした。

 「交わっている最中にあれほど沈着でいられるので。」

 「所詮はつまらない意地。それにお館様憔悴する様子が見るのも楽しいし。」

 こういった会話が持たれたのなら普通、天女に何か小悪魔である感を懐くのだが、そうともならないことに合点がいったのである。やはり、それはお館様の人間性によるのではと思えてきた。そうどこか空回りをしている様な。下男、下女にはああもいばりちらかしながら、そこには常に頓狂な面があった。だからといってあの異様さを頓狂という範疇に収めていいのか分からなかった。一つには、天女への執着だ。その情の交わし方について、私は、相当異常に思えたのだ。

 「女学校でも卒業されているのですか?」

 「ええ。でもどうしてそれを」

 「あなたの言葉の端々に何とも言えない知性を感じたからです。」

 「そうよ」

 だが、天女は、私が次に発する問いを察していた。

 「女学校には通った。でも、父の事業が、傾いてしまって」

 「お父上の?」

 「父は小さいながら建設会社を営んでいたわ。欧州で大戦が起こって随分景気はよかったんですが。」

 そうして、彼女は沈黙を保った。私は、この沈黙に未成熟とはいえない、しかし、完遂されない天女との関係に想いが至った。変芸自在になれる、そんな向きにあるともいえる。いや、むしろ、令室との関係がまさにそうだった。あしらう訳でもなく、だけど受容しない間柄という。避けられない程の。令室の情を求める態度にはそういった面があった。一方、お館様のあの貪る様な求め方。資質において、二人のそれには、同様なものがあると思えた。

 ただ、天女とは、情を交わさないという点で趣きが違っていたのは、事実だ。確かに彼女へのある感情が芽生えていた。でも、それはむしろ、憐れみというより敬いに近い概念だった。というか、そう捉えるのが無難だった。私はここでも、この天女と呼んでいる女性と間隔を置く次第となった。

 

 「先ほど私を呼び止めたのは?」

 「額の血を拭いて差し上げようと」

 そうして、天女は、手拭で私の額の血を拭ってくれた。

 「血は止まっているみたい。」 

 「でも、縫合はしてもらおうと思っています。」

 「そうよね。あそこの産婦人科は、如何かしら。」

 「私もそう思っていました。」

 「診てもらったことがあるの?」

 「親不知を抜いてもらったときにたいそう腫れて。それで診察を受けると、事後の消毒十分でなかったと、消毒してくれました。そうしたら、腫れはひきました。」

 「其処のお医者さんには世話になったわ。」

 そうして、天女は、そこで子宮の摘出手術を受けたことを述べた。

 「そうしたらお館様って、その医師に、私の頭が梅毒で冒されているという診断書を書かせたの。」

 以前にこの館の付近で開業している医師たちはお館様の何らかの恩恵を受けていると聞いたことがあった。お館様の意向で虚偽の診断書を書くことなんて十分、察せられることだった。

 「お館様は、奥様の手前、私を身受けするにあたって、病気で話せなくなったことにするって。だから何も話せないふりをしたの。」

 「そうでしょうね。御令室は、お館様の愛情というより、自分の妻の地位が危うくなるのを恐れていますから。」

 「でも、こうしてあなたとお話していることには嫉妬を感じるのではないでしょうか?」

 「どうでしょうか?」

 こんな風にはぐらかしてしまった。令室の嫉妬という面に関しては、ある程度のものは確信が持てるというのに。そこにはそうなるであろう淡い願望があった。私は努めて令室とは、距離を置くようにしている。それは、情を結ぶ折、令室がマテリアルとなるという想いからで、だが、そこに自身でそう作話している向きも感じていた。こうして感情に溺れないのも、一つには、自尊心が介在していたのは確かだ。その自尊心とは、まさに令室の懸想から覚える愉悦。ふと、天女とのことを邪推し、令室が嫉妬を覚え沈着に振る舞う仕儀を愉快だと快感を覚えるのも一興であろうとの想いが浮かんだ。

 「私もピアノ習っていたわ。」

 この沈黙を嫌い天女は、良家の子女の嗜みとして、ピアノを習っていたことを話し出した。音楽に携わる者として一応の受け応えはしたものの、令室のことを漠然と思い浮かべていた。