舞踏の即興、振り付け、作品について思うこと

長岡ゆり(Dance Medium主宰、舞踏家、振付家、演出家、鍼灸師)

 今年(2022年)の秋、私はモダンダンサーの方に40分間のソロ作品を振り付けるというチャレンジをして、一応成功を収めたのだが、本来私は振付家というよりは、即興コラボを得意とする舞踏家である。

 これまでのDance Mediumの公演でも、人に振り付けるパートは、長くてもせいぜい10分弱くらいのものであり、40分間という、文学で言ったら直木賞レベルの長編は初めてだったのだ。

 実際、これまで40分間のソロ舞踏公演を緻密に振り付けた振付家はいるのだろうか?

 が、無謀なチャレンジとは知りつつも、ダンサーの方から提示されたキーワードを元に、自分のソロ公演を創る時の方法論を駆使し、物語を捏造してパートを構成し、作品を創り上げ、何とか出来上がった時はほっと胸をなでおろしたものである。もちろん、ダンサーの方の読解力と努力も素晴らしく、相乗効果でなし得た結果であることは間違いない。

 自分自身は即興が得意で、コンセプチュアルな作品は、ダンスでも美術でも嫌いだが、再演可能な作品として舞台にあげるならば、当然作品の世界観やテーマ、振り付けは必要であると思っている。

 また、構成された物語の持つダイナミックな世界観が好きで、グループ作品を創るにあたっても、ある日アイデアが突然降ってきて(もちろん日常の思考が積み重なって出てきたものではあるが)意識がそこに集中すると勝手にイメージが湧いてきて物語が醸成されてゆくというその過程が面白くてたまらず、それがDance Mediumの作品に繋がっていると言える。

 舞踏に振り付けってあるのと思っている人の為に、ここで即興と振り付けの問題について少し語ってみたい。

 私は、即興と言いつつ、単なる体の欲求(不随意運動や、ストレス開放欲求の為に運動を利用するもの)によるタコ踊りになってしまうことをなるべく避けたいと常々思っており、故に即興をする時に自分が無意識にやっていることを端的に書いてみることにする。

 即興というのは、その場の環境(空間や音など)、時間の流れ、そこに存在する人々のエネルギーを敏感に調整した体で感じつつ、過去の動きの記憶の集積を利用してそれらすべてを瞬時に解析し出てくる動きに任せるという表現方法である。

 まあ、普通に生きてる時に誰もがやっていることではある。

 が、その際脳が何を選択しているのかは人それぞれで、面白い即興というのは、そういったデータを解析して瞬時に最適なものを選択するセンスだと思う。踊りの場合は、特に過去の動きの記憶の集積が重要だ。それは、過去に訓練してきた振りのデータがものをいう。

 何が出てくるのか自分でも予測不可能な謎であり、その謎が面白くて即興をやっているようなところがある。

 そして、あえて言うならば、見ている方の感じ方や解釈は人によりそれぞれ違っていて、人前で踊ることを前提にしている以上それもまた面白いと思わざるを得ないだろう。

 で、振り付けに話をシフトすると、そういう作業を客観性を持ってテーマに沿って整理し、再演可能なものに構成するのが振り付けだと考えている。

とある限定された世界観の中で肉体を使って時間と空間を構築する作業である。

 しかも人に振り付けるということは、作品テーマを維持しながら客目線で体の角度から動きのスピード、動き、形などを決めていかねばならない。

 さらに私が大切にしているのは、その人の持つエネルギーの質、技術、体の癖、容姿、欲望なども考慮することである。

 つまり、その人という素材を使って、空間に絵を描いてゆくようなものだ。

 自分を素材にして無意識レベルで描いてゆく自動筆記のような即興とは全く違う客観的作業である。

 即興も振り付けもどちらもそれぞれの面白さ、良さがあり、両方を組み合わせて発展させたりするので両輪の輪である。

 次に、舞踏独自の振り付けについて書いてみることにしよう。

 ダンスには、それぞれの言語があり、バレエ言語、コンテンポラリーダンス言語、フラメンコ言語、日本舞踊言語など数々あるが、このそれぞれの言語が振り付けだと考える。

 そして、舞踏にも舞踏言語というものがある。それが舞踏独自の振り付けである。土方巽の創造した舞踏譜というものもそれである。

 私自身も、舞踏譜の振りをかなり使って応用している。

 舞踏というのは、所謂三次元では見えないものを見せるという事に特化している舞踊表現である。その為の方法論として、自分で動くのではなく動かされるという訓練を課している。何ものかに動かされることで、そのなにものかを見せることができるからである。

 例えば、風を表現するために、揺れるカーテンになる。カーテンの揺れる様を観察し風を感じ、風に揺らされるカーテンになるということだ。

 つまり、体の内外にある、見えないもの、気配、エネルギー、匂い、温度、風景、記憶、などを感じきることがまず初めの一歩であり、そこから丁寧に体をコントロールし動きにする。

 が、この見える見えないの話は、公演後の印象や感想を人と語る時に常につきまとう問題だ。

 例えば、私は過去数回UFOを見ているのだが、見えているのは自分だけで、他の人には見えていないということを知って驚いたことがある。自分に見えているものは人にも見えるものだと思っていたら、大間違いだったのだ。周波数が合わなければ見えないらしい。

 幽霊もしかりだし、匂いや音にしろ、それに類することは多々あると思う。

 舞踏の公演でも同様のことが起こりうることをしばしば経験する。

 人に見えないものが見えると言いはると、脳がやられてるのではないかと思われても仕方ない。

 なので、舞踏は見えないものを見せるものなんだよと言っても了解し難い人がいても仕方ない。

 しかし、はっきり見えなくても何となく感じることは誰にでもあるだろう。なんかあの人は顔は笑っているけど腹に一物ありそうだよねとか、この場所何となく不気味なんですけどとか(笑)。

 舞踏においても、踊り手が本当に感じ切って踊っていれば、観客は何となく感じたり見えたりするはずなのだ。そして、踊り手はそういう向き合い方を丁寧にやることが大切なのである。

 もっとも、ダンスは動きを見せるものだからと動きにしか興味の持てない人もいるが、それは人それぞれでよい。興味のないものは脳がスルーするからである。

 しかし、舞踏に興味があって関わりを持ち、その何となくをさらにクリアーに見せたいと思う場合には、強いエネルギーや形が必要なのだ。ゆっくり動いているだけで、それらしい雰囲気だけでやってるつもり、もしくは本人はやってるつもりだが観念のみで全く体が反応していない場合は舞踏にはなっていないと言える。

 エネルギーが不足していても何も見えなかったりする。土方巽の「疱瘡譚」を見ても、弱々しく細いものを表現しているのに、何故あのような強い表現としてあるのかと言うと、体を極限までコントロールして使っているからだ。その背景には、強いエネルギーがある。

 舞踏において見えないものを見せるということは、極端な形(必ずしも苦しい体勢ということではない)や複雑な動きを正確に行わなくてはならず、その形と動きから体の外にはみ出てくるものを見せるということ、その為の訓練は絶対に必要であるから大変なのだ。ここに、舞踏にも振り付けが必要な要素になっている理由があると私は考えている。

 とはいえ、やってみると面白いのでこの面倒くさがりの私でも何十年も続いている。

 やってみないとこの面白さは分からない。人によってはやってみても分からないから、舞踏を続けられる人って特殊な人なんだろうなと思う。

 見えないものが大好きなスピリチュアル系の人が舞踏に近寄ってくるのも分かる気がする。ただ、観念や感情的になりすぎて舞踏から逸脱してしまうことには注意したほうがよい。

 自分がやってる気になっていても、人に見えるようになるまでにはホント長い道のりが待ってたりするのだ。

 ちなみに、私のこれまでの舞踏歴史は、正朔著の「舞踏馬鹿」の解説に書いてあるので、興味のある方はアマゾンで購入できます!

 この本は、舞踏の真髄を知ることのできる本としてオススメです。

「舞踏馬鹿」 正朔著 https://www.amazon.co.jp/舞踏馬鹿-正朔/dp/4846021386_