『夢十夜』で漱石を癒す(2)

                  原田広美


 

*第二夜

 「こんな夢を見た。/侍(さむらい)なら悟れぬはずはなかろう。/そう何日(いつ)までも悟れぬところを以(もつ)て見ると、御前(おまえ)は侍ではあるまい。人間の屑(くず)じゃ。/口惜(くや)しければ悟った証拠(しようこ)を持って来い…」

 

 こう、和尚から挑発された侍(夢の中の自分)が、今宵この悟りをめぐる対決に、「死をかけて決着をつけよう」と、いきり立つ夢である。               

 このような和尚を夢に見るというのは、実は漱石の深層に、「自分で自分を挑発する」ところがあったということになる。つまり、このような和尚が日常的に、自分の中にいるようなものである。こうした人は挑発を呼びやすく、挑発に乗りやすい。そして相手の中に、必要以上に挑発を感じ取ってしまうものだ。あるいは逆に、人に対し、無意識的に自分が和尚の役回りになり、人を挑発することになる。「神経衰弱」時の漱石の姿が、あたかも浮かび上がって来るかのようである。

 漱石がこのように、「挑発する和尚」を深層に抱え込んだのは、成育歴に由来する体験が原因であろう。有言無言に、周囲の者が漱石を挑発したのだ。子供の人格形成に、最も大きな影響を及ぼすのは、親を始めとする身近な大人だが、そうした人々の声を、人は自分の中に内在化させるものである。挑発された者は、たとえその挑発に不審を抱き、反発したとしても、挑発された痕跡が深層に残る。そして知らないうちにそれが影響を及ぼしてくる。これが無意識の作用である。

 夢の中の侍は短刀を持っている。自分を侮蔑してきた和尚の挑発が許せないからだ。せっかちにも次の刻までに悟りを得て、自分の尊厳を示した上で、和尚の命を取ろうと算段する。そして、もし逆に「自分の方が悟れず」に和尚に負けるくらいなら、自刃するつもりである。「侍が辱(はずか)しめられて、生きている訳には行(ゆ)かない」と、夢の中の侍は思っている。

 とにかく、ここには「死ぬか生きるか」という、大層ボルテージの高い緊張がある。これを見ると、漱石が幼年時に受けた挑発は、時に「死の淵」に立たされるほどの痛みを伴う侮蔑だったということになる。たとえ表面的には、特に異様に見えるほどではなくとも、子供の心にこれくらいの痕跡が残ることは多々あるものだ。

 漱石について言えば、一つには養子に出されてしまい、かわいがってもらった覚えがないという実父からの影響がある。漱石に勉強を教えた時の長兄の様子が癇癪を起こしながらの厳しいものであったと言うから、おそらく実父もそんな性質だったのではないか。漱石は養父母の離婚で人間不信に陥った末に実家に戻った時も、実父からは不要扱いされた。母はおとなしい性格で、父から漱石を守ることはできなかった。そうした体験から漱石は、「自分は大事にされる価値がない、いわば人間の屑のような存在だ」という怖れと痛みを抱き、自分の深層に内在化させた可能性がある。

 しかし大人になれば力もつくもので、今度は自分が短刀を持ち、報復したくもなるものだ。特に精神的自立が果たせるか否かの思春期の頃、こうした短刀は最も振るわれやすくなる。この短刀は、もとは周囲から成育歴の中で、漱石に向けられていたものである。たとえば始めは父によって、後にはそれが癖となり、無意識的に自分で自分に向けるようになったものである。こんな育ち方をした者は、相手(和尚)を刺さなければ、そのまま自分を刺してしまいそうになる。だからこそ、ボルテージの高い緊張と苦痛の葛藤を伴いながら、夢の場面は進行するのだ。

 ところで和尚だが、一般に和尚と言えば、広い意味では教育者である。ところが夢の中の和尚には、侍に対する愛情がない。少なくとも愛情を感じさせる対応をしていない。「導く」のではなく、「辱め」ている。この和尚の深層にも、「トラウマ」があるのだろう。それは、「誰かを辱めていないと、自分の価値と尊厳を感じられない」という「トラウマ」である。このような人物にとっては、そこが死活問題なのである。成育歴の中で、漱石に侮蔑を与えた者(たとえば実父)は、この和尚と同様なこころの持ち主なのだ。

 一方、これらとは対称的な、慈悲ある教育者としてのイメージも、夢には登場している。それは、侍の部屋の床の間の軸に描かれた「海中(かいちゆう)文珠(もんじゆ)」である。この「海中文珠」は、侍と和尚の対立を癒す方向の、この夢に託された唯一の前向きのイメージである。傷ついた中にも、自分の傷を癒そうとする漱石のこころの底力が、こんなところに見られるのだ。この「海中文殊」は、愛情を持ちながらも父と漱石との確執に対しては傍観しがちだった、母のイメージではないだろうか。

 さて、こんな夢を見たらどうするか。一つには、今や自分の手で握りしめている短刀を手放すことだろう。つまり時には人に向けて突き付け、自分に向けても突きつけている短刀を手放すのだ。ただし、この短刀は、自分を辱めてくる人物に報復するための守り刀でもある。だからただ手放すのでは、自分が無防備になり過ぎてしまう。                 

 そこで大切なのは、成育歴の中で自分に向けられた挑発が、どんなに不当なものであったのかの確認と、そのような不当なことをせざるを得なかった父親の傷だらけの深層の把握である。つまり和尚のような父親の、実は誰かを辱めていないと、自分の価値と尊厳を感じられないという「トラウマ」のである。「自分が人間の屑だから」ではなく、相手のこころの傷のために、自分が受けざるを得なかった仕打ちを把握し、客観化することが大切なのである。

 どんな理由があるにせよ、子供を愛せないのは親のエゴである。一方、愛されなかった子供は、自分で自分を愛することで、自己の尊厳を回復させることが必要だ。その回復が進むと共に、短刀を握りしめていた手の力も、無意識のうちに解き放たれていくだろう。                      

 そのためには、夢に託された前向きのイメージを用いて、「自分がもしも海中文珠のような慈悲ある親に育てられたのだとしたら……」というイメージを感じてみることも役に立つ。そんな風にして傷を癒すうち、内面の「死ぬか生きるか」の葛藤エネルギーは、別の形へと変容してゆくに違いない。根源的な自己受容、もしくは、こんな和尚をあらかじめ自分に近寄らせなくするための外向きのエネルギーなどへの、変容である。

 すると侍は、多分こんな風に考えるに違いない。「そもそも《悟り》は、人に挑発され、意地になりながら求めるようなものではない」し、「人間の屑だという決めつけしかしない和尚など、相手にする必要はないではないか」と。

 最後に、漱石は町人階級の出身だが、武士出身の家系の出ではないことを気にしていたと言うから、この夢では、劣等感が侍と関係づけられたように思われる。

 

 

*第三夜

 「こんな夢を見た。/六つになる子供を負(おぶ)っている。慥(たしか)に自分の子である。ただ不思議な事には何時(いつ)の間にか眼が潰(つぶ)れて、青坊主になっている。/眼は何時潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。…」

 

 子供とは、どこか対等に父親を見抜いてくる存在である。子供は弱くて未熟だという点において、父親は優位な立場にいるが、子供は子供ゆえの純粋さで、見るべきものを見る。父親自身が隠してきたもの、見ようとしないもの、見えずにいるものをさえ、子供は見抜くこともある。

 夢の中の子供は、親の知らぬ間に盲目になっていた。それなのに、何でも見抜いて

来るので、気味が悪い。そして「どうも盲目は……親にまで馬鹿にされるから不可(いけな)い」などと言い、父親に百年前の子殺しを思い出させた。子供によれば、百年前に殺された盲目の子供は自分である。つまり、この子供は百年前には殺され、今は捨てられようとしているのであった。

 子供が対等に、もしくはそれ以上に父親の「過去、現在、未来」を言い当ててくるのはたまらないが、さらなる核心は、「盲目の子供を拒否する」という、自分の深層に潜む残虐性と、百年前の子殺しを思い出した途端、背中に背負った子供の「石地蔵のような重み」を感じたことに象徴される「罪悪感」を暴かれたことではない。父親としての自分が、子供を一人前の人間として尊重できないでいる点は、第二夜の和尚とよく似ているが、相違点もある。

 和尚の場合は、人を辱める際に、相手が悪いのだと思っている。「人を辱めないとバランスがとれない」という自分の内面の「トラウマ」を自覚していない場合、こちらのタイプになるだろう。自分の心の歪みになかなか気づけず、そもそも自分を振り返ることができないのだ。それとは違い、この夢の父親は、我が子を拒否するという残虐性を発揮せずにはいられないながら、自分の「罪」の重さを感じ、自分を責めもする。これが漱石その人の姿なのではないか。

 それでは一体、盲目の我が子を拒否したくなるような親とは、どういう人間なのだろうか。それは、いわゆる「コンプレックス(劣等感)」の強い人間であろう。「コンプレックス(劣等感)」とは、その人間が「劣等」だから抱くものではなく、その人間の真価とは無関係に、成育歴の中で、周囲から植えつけられるものである。何か勝手な理由で「お前は価値のない人間だ」という決めつけが行われ、それが内面化してしまったものである。つまり、第二夜の和尚による「人間の屑だ」という決めつけが、この父親の深層を支配しているのかもしれない。

 ところで、そんなふうにして「コンプレックス(劣等感)」を植えつけられた人間は、強い不安と怖れを内包する。だが誰もが、そんな気持ちにとどまっていたのでは生きるのが苦しくなる。それで、自分の「コンプレックス(劣等感)」を思い出すきっかけになりそうな要素、たとえばこの場合は健常者と比べて自分の基準で勝手に判断し、「劣る」と捉えた「盲目の子」を極端に避けたくなったのだろう。また漱石自身、青年期から眼を患うことが多かったから、失明への怖れを「抑圧」する手段として、なおさら盲目の子を避けようとしたとも考えられる。

 気の毒なのは子供だが、真実は、父親が自分の「コンプレックス(劣等感)」を覆い隠すのに精一杯で、子供の幸せを考える余裕がなかったということなのだ。

 では、その残虐な行為の原因である「コンプレックス(劣等感)」をどう解くか。とにかく「コンプレックス(劣等感)」とは不当なものであるから、まず自分に刺さっている「コンプレックス(劣等感)」のトゲを抜くことが肝心である。そのためにも漱石の成育歴の考察をして来た訳だが、それとは別に、この夢の中にも、役立ってくれそうなイメージがある。それは逆説的だが、「父親を脅かしてきた子供」である。

 夢の子供は、なぜかドーンとした落ち着きを持っている。父親に殺されたという過去を持ち、今、再び捨てられそうになろうとも、自己評価を下げてはいないようである。あっぱれな子供である。自分の真価は、外部からの評価にかかわらず、変わりのないものであることをよく知っているようだ。そして冷静な見地から、父親に返すべきものは、しっかりと返そうとする。

 夢の語り手である漱石にとって、自分がこの子供になったつもりで、夢全体を味わってみることは役に立つはずだ。それは自分の中に、夢で自分を脅かしてきた子供の側の、「自己肯定力」を取り込んで行く作業になるからだ。

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 本稿は、2003年に「文の京文芸賞」を受賞後、2018年に拙著『漱石の〈夢とトラウマ〉』新曜社の第4章に組み込まれた原稿です。今回、新曜社様のご協力を得て掲載しています。(漱石による『夢十夜』の本文は、岩波書店「漱石全集」より)
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