即興について

MIRIE

©David CT O’Connor

 私は2009年頃、ロンドンで即興演奏を始めました。

 当時、私は日本の会社員を辞めた後、美大の1年生か2年生をやっているところでした。ある日、クラスメートのドイツ人の女の子から「おもしろい即興演奏のワークショップがあるんだって。行ってみたら?」と言われて、アートの勉強の役に立つかもしれないなと思い行ってみる事にしました。そのワークショップはEddie Prévostさんが主催して、90年代からずっと毎週、金曜日にやっているというものでした。

 

 その部屋に入ると、10人程度の人が輪になって座っていました。ほとんどが男の人で、それぞれ楽器を持って来たようで、ある人はギター、隣の人はバイオリン、その隣の人はサックス、という感じでした。何だか思ったより仲間内の感じで、ほとんど皆が知り合いのように見えました。特に指示もなく準備が進んでいました。私が「すいません。私は何も持たずに来たんですがどうしたらいいでしょうか。」と言うと、親切な人が余っていたベースギターを貸してくれました。私はそれまで即興というものはやった事がなく、せいぜい子供の頃に鼻歌を歌ったくらいでした。大丈夫か?と、不安になり、隣の人に「全く未経験だし、どういう風に演奏するべきかとか、何も知らないんですが大丈夫でしょうか?」と聞くと「全然大丈夫」という返事でした。

 

 「じゃぁ始めようか」とEddieさんが言って、部屋の電気を薄暗くして、簡単に説明を始めました。このワークショップは「フリーインプロバイゼーション」のワークショップで、隣同士の2人または3人で順番に一緒に演奏する事、即興であれば何をどう演奏してもいいし、順番を守れば、いつ演奏を始めるのもやめるのも自由との事でした。

 薄暗い部屋で全員が黙ると、何となく神聖な雰囲気になりました。やがて最初の2人が演奏を始めました。私はその2人がどうやって演奏するのか、説明されなかった決まりごとがあるのか、注意しながら聞いていました。演奏は静かにはじまって、決まったリズムやメロディはなくて、でも演奏は途切れずに続いて行きました。

 私は、そこにいる人達がこの空間を大切に思い大事にしている事を何となく感じました。その雰囲気は、東京で通っていた禅寺の座禅堂と少し似ていたので、何となく腹式呼吸をしながら、他の人の演奏を聞いていました。演奏する人が順番に代わって行き、特に何かがわかった感じもしないまま、自分が演奏する番になりました。何だか怖いと思いながらもベースを鳴らし始めました。戸惑っていても楽器に触れば音は出るので、一緒に演奏する人達の音を聴きながら、演奏が止まった感じにならないように音を続けて、続けて、自分の番が終わりました。大惨事などにはならず、私がやった事について文句を言う人もいませんでした。

 

 私はその時期、どうしたらいいのかわからなくてもとりあえず何かやってみるということが、他にもけっこうありました。

 日本で働いていた会社を辞めて、やりたい事も明確には何もなくて、何をしたらいいのかわかる人も教えてくれる人もいなくて、考えても誰に聞いても正解が何なのか、わかりませんでした。私の考えを良いと言う人もいれば、否定的な顔をしてみせる人もいました。

 色々な人の意見を聞いた後、少なくとも私がこれから何をすべきかについては誰の意見が特に正しいという事もないのだなと結論が出て「わからない」という状態を偽らずにいられる場所に行きたいと思って、多少の紆余曲折を経てロンドンの美大に行きました。授業でも特に表現したい事はよくわからないまま、それでも何かを描いたり作ったりしてみる日々でした。線を描くことにしても、テーマを決める事にしても、正解がわからなくても自分で決めてやってみると、わからないからといっても私の中に全く何もない訳ではなくて、良いか悪いかは別として、何かは作れるのでした。

 

 それから私はまた会社員になったりしましたが、ずっと即興を何かしら続けていました。舞踏などの体を使った表現をするようになって、パフォーマンスをするようになって、トランペットを少し吹けるようになりました。

 

 そうしながら「わかる」とはどういう事なのか、「決める」とはどういう事なのか、即興をしている時としていない時の違いは何だろう。そんな事を考えていました。

 

 そんな調子で10年以上が過ぎました。

 去年、そんなことをもっと考え続けられる環境を自分に与えたいと思い、心理学部の大学院に進学しました。勉強はとても大変ですが、同時に幸せでもあります。

Eddieさんは去年80歳になり、そのお祝いも兼ねたイベントの一環でコンサートがいくつか開催されました。そのうちの1つはワークショップのメンバーによるコンサートで、私はそこで他のメンバーと一緒にトランペットを演奏しました。ちょっとワークショップのような、でも違うような、神聖な熱を持った空間でした。

 素晴らしいコンサートでした。

 

 私はこれまで、レパートリーのない音楽を演奏し、振り付けのないダンスを踊ってきました。おそらく私は、私が知っていると思っている事や期待できる限界の外にも、世界は存在しているという事を感じたかったのかなと思います。

 

 人間は、期待した物しか見ない性質があると思います。想定外の出来事は、些細な事であれば無視して、頭の中にある筋書き通り、いつものやり方で物事を進めていきます。たぶん、その方が脳は楽だからです。それは音楽で言えばレパートリーだし、ダンスで言えば振り付けです。社会生活で言えば常識です。

 でも、現実の世界には、期待したもの以外にもいろんなものが存在しています。複雑で、美しかったり、醜かったり、荘厳だったり、そんなものが、見ようとすれば見えてくるし、見ようとしなければ見えない。努力しても見えない場合、出会えば見えるようになる。

 

 即興演奏では、自分の期待や準備の限界を超えた状況でも、自分でも自分が次に何をやるのかわからなくても、何かしら音楽的アウトプットを出し続けていくことができて、それでも世界は存在して続き、他の人とその音楽を共有していくことができます。

 

 私は即興を通し、私の知らない自分、私の知らない世界が存在していて、それと一緒に生きているという事を感じることが私自身に希望をくれる態度だと、なんとなく感じて来たのでした。

 

 さらに、音楽というのは、既存の曲やレパートリーの事ではなくて、人間がそれらの演奏を聞く時の在り方のモードなんだなと思うようになりました。音楽の演奏というのは、人の心身の中に音楽という現象が起こった時の音を記録し、再現してみせる行為なのだなと。人間の感性に、音楽を音楽たらしめる何かがあるということです。だから音楽は既存の曲やレパートリーではなく、私の身体の中にあると言えるのかもしれません。

 ダンスについても、同じような事が言えると思います。

 こういったことは、認識論(Epistemology)や神経科学を勉強すると、もしかすると考えが整理されるかもしれないので、少し調べてみようと思っています。

 同時に、私がなるべく長く、好奇心を持ってこういう経験と活動を続けて行けたらいいなと願っています。

 

*この文章は、Eddie PrévostのCD「BRIGHT NOWHERE – EDDIE PRÉVOST AT 80」のために書かれたものに加筆・修正したものです。