短編小説『コールドウォーター・ルール』

求道鞠

 ©松岡祐貴

 

 泳ぎながら、それが背後から猛スピードで追いかけてくるのがわかった。

 わたしはできるだけ速く水を掻いて必死に逃れようとしたけど、やはり追いつかれてしまった。目の前がどんどんくもりだす。それは背後から、バタフライでやってきた。わたしはクロールだった。だから時間の問題だった。そう、いつも時間の問題だった。

 ゴーグルのなかになまぬるい水が溜まってしまう前に、やっとのことでプールの縁に泳ぎ着き、銀色の手すりに手をかけた瞬間、それは、どっ、と背中から覆いかぶさりわたしの身体を支配した。重い、ただひたすらに重い。優雅に水に浸っている三人分の重力を引き受けたかのように重い。プール監視員の目の前で、身を裂くような悲痛はひと思いに心臓を止めてはくれない。ただ厳粛に身体を、ただならぬ重みで支配をするだけだ。たすけて! プールサイドでひとが溺れて——。水の中のひとりひとりに、水揚げされた魚の眼で訴えるが伝わるはずもない。

 悲しみは、いつもたっぷり遅れてやってくる。それでいて、わたしをとらえ損ねたことは一度もない。スロー・スターターの冷静な潜水でひたひたと迫り、おそろしく情熱的な水しぶきをあげてわたしに追いつき、あっさりと抜き去って、茫然とする暇(いとま)をしばし与えたあと、また背後からわたしを訪れる。濃紺の水着は鉛を含んだようにどっと重くなり、わたしの手足は小刻みに震えだす。不毛な言い争いの後のように、やり場のない、ふつふつとわきあがる感情が暴力的な徒労となって押し寄せる。もう、温かいシャワーを求めて這うように歩き出すしかない。

 わたしはなぜ、こんなところでぐったり冷えて重くなり、貴重な時間を浪費しているのだろう。クロールではなく、かろやかに液晶画面をスクロールして、たくさんの証拠をとるべきなのに。若い弁護士が言ったように。本当にそうしたいなら。

 わたしたちふたりの間には、コールドウォーター・ルールという掟がある。

 一方がものごとに情熱を注いでいるときに、水をさすのはやめよう。うしろから冷や水を浴びせるような真似は、倫理違反だ。何より。夫はわたしの目をひたりとみて言った。

 それは愛じゃない。

 きみのブレーキは強烈だ。俺はトラックみたいな奴だから、きみのブレーキで何度か命拾いはさせてもらった。でもいつだって、本当は待ちたくないんだ。もうきみに与えてやれるものは何もないけれど。時間だけは、あるだろう? 世間の人間が捻出しようと躍起になっている、万金に値するほど優雅な時間だ。羨ましいよ。俺を憎む時間だって、たっぷりあったはずだ。その気になれば、許す時間も。

彼は笑った。白い歯がこぼれた。浅黒い、陽になめされた肌によく映えた。

 わたしの。

 かろうじて、ちいさな声が絞り出された。

 わたしの時間をなんだと思っているの。ずっとあなたに尽くしてきた——。

 それは嗚咽のように不手際で、惨めな声だった。

 そうだね。でもブレーキは、健康な肉体にとってストレスなんだ。わからないかな。 

 彼は握りしめた拳をひらいた。

 わたしは夫の眼をみた。澄んだ遠い眼をしていた。そしてそれはすぐ、手元の液晶画面に落ちた。その瞬間、眼元がふっとやわらいだ。映っているのはあの、若く愛らしいひととのやりとりだろう。まだたっぷりガラスのうちに残っている、砂時計のきらめく白砂のような。

 物事に注げる人間の熱量は、厳密に限られていると、わたしは思う。こうしている間にも、わたしの底のちいさなプールが、ゆっくりと枯れ、空想上の骨壺へ、ひたひたと感情が溜まってゆく。いつかは湖に、人知れず遺棄しなければいけない、骨に浸(し)みる悲しみ。シャワーを浴びながら醜い嗚咽を殺す。そんな日々が、連綿と続いてゆく。

 ある日、いつものようにクロールで水を掻いていると、背後からそれが迫ってきた。わたしはプールの壁面まで必死で泳ぎつき、水の中で意を決して、後ろを振り返った。

 そこには、夫のかたちをした水があった。反射的に手をのばして、抱きとめようとした。そして、真っ暗な、なまあたたかい闇にのまれた。