東洋医学とは何か——あるいは文化の壁について

糸数七重

 東洋医学とは何か。

 東洋医学、というよりは伝統医学というべきなのだが、ともあれ、私の考えるところを単刀直入に表現すると、それはすなわち「ものがたりの医学」「解釈の医学」そして「歴史に磨かれた医学」である。

 東洋医学の対義語となる西洋医学は、ごく若い。17世紀にオランダのレーウェンフックが微生物の存在を記述してからとしても350年ほど、それとも19世紀半ば過ぎのフランスでルイ・パスツールが自然発生説を完全に否定し、腐敗は空気中の微生物によって起こり、感染症は悪しき瘴気ではなく病原菌によって起こるのであると証明した時点から数えるなら200年も経ってはいない。この“若造”があっという間に“この世の真実”に躍り出られたのは、物質的な証拠を積み上げてゆく科学の手法を用いて「なぜ病気になるのか」「どうやって治るのか」を、他の文化圏の人間にも納得し得る形で説明し得たからである。異なった文化圏の間で——つまりより多くの人間の間で“証拠”と“手法”が共有できれば、より多くの知識と技術を集約できる。同じ場所に知識を積み、積みあがった場所を共有することで他の人間がそこからまた知識を積み上げてゆける。共有できたもの、あるいは共有するための手法は“科学”と呼ばれた。そして、その“科学”を用いて西洋医学は急速に発達した。

 が、そこで問題が生じる。

 文化圏が異なるがために共有の難しい部分——他の言語では説明が難しかったり、概念の理解に至るまでが困難だったりする部分は取り残された。取り残された部分でもって治療されていたものが“非科学的である” “治ったというのは気のせいだ“などとして打ち捨てられていた時期もある。例えば日本の漢方医学は、明治時代の脱亜入欧を目指した時期に「未開の医学である」として、一時、打ち捨てられた。1874年の医制の制定時に西洋医学のみが医学とされて以来、漢方は“正当のものでない民間医療”となったのである。その後、紆余曲折を経て1976年漢方エキス33処方が薬価基準に収載されるまで、日本では漢方は公的に認められたものではなかった。医学・薬学教育のコア・カリキュラムに漢方の概念が現れたのは、実に2001年のことである。

 このように“科学”以外の(つまり文化圏の壁を越えない形での)手法で構築された医学は、非科学的なものとされ、傍流のものとみなされた。

 が、伝統医学に対する“非科学的”とは単に“離れた文化圏の人間に伝わりにくい”ということにすぎず、少なくとも医学においては、それが劣ったものであることを意味するものではないと私は考える。医学は病を癒すための学問である。もちろん、文化圏の外に伝えるための努力は必要ではあろうが、第一義として重要なのは、その知識と技術の体系によって病者が癒されることである。

 そして、伝統医学は確かに人を癒してきた。癒してきた実績が積み重なっているからこそ、伝統になり得たのである。どのように人は病を得て、どのように癒されていくのかを、分解・分析して物的証拠を取り出すのではなく、観察し、病を得る過程、癒される過程を解釈し、そこに“ものがたり”を与え、そして(ここからが重要である)別の事象が起こってその“ものがたり”に矛盾が生じた際には、事実に対して謙虚に、そして至極丁寧に語り方を変え——ついには数千年(少なくとも2000年)の長きにわたってものがたりを潰えさせなかった結果が現在の伝統医学、つまり西洋医学に対しての東洋医学である。

 物質的な証拠の共有という点においては、実は東洋医学は弱みを持っている。例えば「“気”とは何か、説明せよ」と問われたときに、(関係者に喧嘩を売っているのを承知で言うが)この文章を読んでいる人をランダムに3名連れてきて語らせたら違うことを言うだろう。科学の文言を扱うときには、そんなことは起こらない。一時的に起きたとしても、最終的には必ず“ひとつの事実”に着地する——というより、着地させるための手段が科学なのだ。

 だが「気とは何か」への答えが様々であるのは、これまた数千年にわたって様々なままなのである。それでも破綻しないレベルで、例えば気血水理論は現実に起きている事象を表現しており、それに従って治療を行なえば病は治る。そういった“ものがたりとしての強固さ”を持ち合わせているのが東洋医学である。

 西洋医学は急速に発展した。ヒトを分解し、分析し、世界中で知識を共有しながら不可能と思われたことを可能にしてきた。が、人はそれぞれの文化の中で有機的に生きているものであり、決して“分解・分析可能な無数の部分の寄せ集め”ではない。よって、文化圏を越えられないからといって“科学でないもの”を排除したとき、それは人にとって(比喩的な意味でなく、相当に具体的に)重要な、“健やかに生きるための手段”を捨てることになる。

 西洋医学で対応しきれない事象というのは、物的証拠にまだ辿り着けておらず、ものがたりによってしか語り得ないものとも言えよう。その“ものがたり”の部分が東洋医学(伝統医学)であるわけだが——では、これは本当に文化圏の壁を越えられないのか。

 そう考えた時、表現者という存在は、”科学“の言葉に翻訳する以外にも文化圏の壁を越える手段があることを示唆する希望のようなものに、私には思える。
 では、具体的に何をどうするべきか、ということについては、まだ試行錯誤の最中なのではあるが。