愛を阻害する日常品

北條立記

 人同士の愛情関係の一番中心となる場は、家族だろう。

 その家族内での愛情関係が持てない、崩れていることから、社会のさまざまな問題が起こっていくと考えている。

 しかし、そうであれば家族内の愛情関係を構築する方向に、社会の人々が動いているかというと、そうではない。

 そうではなく、社会に溢れるまやかしにより、崩壊している愛情関係を覆い隠そうとしているのが、今の世界だと思う。もしかしたら100年前も同じかもしれない。

 社会に溢れるまやかしの筆頭は、日常品。

 日常品を通じて接する世界。

 テレビという日常品を通じて観る、くだらないメロドラマの浮気ネタに、おば様たちは「ロマンティックでいいわねえ」と言う。

 「もののけ姫」にせよ「マトリックス」にせよ、アニメや映画も、結局のオチが恋愛ネタだったりし、脚本家は特別な仕掛けを考え出すことを怠っている。

 というか、金と性と健康と食べ物のネタは売れるから、その売れ線狙う、というメディア界、映画界、出版界がある。

 でもそこに描かれた世界は、物事の生産性とか、健康的な愛情関係とかとは違う。

 しかし、人の注意を引くから、売れるし、売ろうとされる。

 商品の作り手が、お客さんに愛情に包まれるような感覚をもたらすことを考えて、商品やサービスを提供するのは、一つの商売の理想であり、本来は、可能なことであると思う。

 だが、お客さんの気をちょっと引いて、買う気にさせて、実際に購入させてしまえば、それでその商品はお客さんから支持を得ていて商品としてふさわしい、だから売る価値がある、という理屈を立てて売っているだけの企業は多い。これは理屈ではなく屁理屈だろう。

 

 さまざまなものがエンタメ化され、気を引きやすいように、手を出しやすいようにした上で、社会の至る所、お店でもスマホやパソコンの中でも、売られている。娯楽、観光、旅行、ゲームといったもの。

 たしかに、娯楽物でも、中には仮面ライダーのように、児童養護施設で働く青年が変身して戦った後、また普通の姿に戻って子供たちの世話をする生活に戻るといった、人間ドラマを含む作品もある。

 

 エンタメで楽しんでいる多くの時間は、日常の家族愛が持てない状況に対し、気を紛らわせられるものとは言えるだろう。

 家族との愛情関係が薄い、少ない、思うように持てていない、という多くの人がいる。

 その状況に対し、エンタメに触れている時は、アニメなどその話題を用いて周囲と盛り上がれるし、お金を使って擬似的な満足感を得られるし、さらには、先に上げたように、性と健康と食べ物に結びつくネタに触れている間は、気分が高揚して気持ちよくなることができる。

 しかし、その高揚は一時的なものだ。

 だから繰り返し似たような、目の前に吊り下げられたエンタメ商品を買っては、聴いたり、観たり、遊んだりして、また続きの高揚を得ようとすることになる。

 そうして一過性のものにお金を浪費し続けることとなってしまう。

 その中で、企業により作られた価値観や、恋愛イメージなどに毒され、本当に意味ある家族愛を持つことから、離れてしまう。さらには、家族のために使うお金も無くしてしまっているのだ。