独創的な作曲家、木村雅信氏のこと 

小森俊明

 

 「君の曲、素晴らしかった」。見知らぬ白髪の紳士から肩をポンと叩かれた後、「でも、この曲の良さを理解出来るひとは少ないだろうな……」と半ば独り言のような呟きが聞かれた。20年ほど前、筆者がまだ駆け出しの作曲家であった頃、日本語による歌曲を発表した折りのことである。紳士は一昨年逝去された札幌在住の作曲家、木村雅信氏であった。実は歌曲演奏会よりも半年ほど前に行われたある室内楽演奏会で氏の作品を拝聴しており、お名前を存じ上げてはいた。しかもその作品の解説文にあった、「この曲には人に伝えたい内容・感情などない」というくだりには大層驚かされると同時に、思わず首肯したものである。氏とは歌曲演奏会以後、文通によってお付き合いが始まり(氏はコンピュータや携帯電話を使用しておられなかった)、東京と札幌でお会いするようになったのであるが、その端緒となったのが氏の著書『作曲家の手仕事』(みすゞ書房刊)を拝読したことである。人物を知るにはその著書や作品を繙くのが一番である。氏を理解しようと思った矢先に、みすゞ書房刊の大部の著書があることを即座に知り得たのは幸いであった。ところで筆者は、氏以外の日本人作曲家で同出版社から著書を上梓しているひとを寡聞にして知らない。畢竟、作曲家という職業は文化人ではあり得ても知識人ではない。しかるに木村雅信氏は日本人作曲家としては珍しく、その知性と教養、行動を拝見するに第一級の知識人であった。音楽への関わり方も、作曲、編曲を筆頭にピアノの演奏、指揮、執筆、演奏会の企画、教育と多岐にわたり、他に詩や絵画の制作を常に行い、積極的に発表しておられたし、陶芸を中心とする美術全般、文学、歴史、仏教、政治にも造詣が深かった。そして、単に知識が膨大であるのではなく、芸術作品の創作と生き方が一つのものとして繋がっており、常に日常の出来事に新しい発見を見出そうとしておられたのである。また、札幌大谷短期大学(のちに札幌大谷大学)での音楽諸学科に加え、札幌大学では韓国文化論も講じるなど、韓国文化と日韓関係について通暁し、かつての日本による植民地支配への贖罪の意識と反核反戦への強い思いを持って、作品発表を続けておられもしたのである。

 

 やや話が先走りしすぎたようだ。筆者は『作曲家の手仕事』を拝読し、その感想をしたためたことを契機として氏と文通を開始し、音楽や美術、文学、社会、政治等の在り方やそれらについてのお互いの関心事について、頻繁にやり取りをするようになったのであるが、やはりその中心となったのは「作曲作品」であった。すなわち、氏が作曲された楽譜をいただいたことを皮切りに、筆者もまた近作やその発表演奏会のチラシをお送りするようになったのである。筆者にとって氏は作曲の直接の師匠ではなかったものの、音楽や作曲を中心にさまざまな分野において大きな刺激を受け、氏の作曲姿勢についても大きな共感を持って来た。氏は権威主義からは最も遠いかたであったが、氏が指導しておられたお弟子さん以外の若輩者のかたがたや、周囲のかたがたは皆、尊敬の念から「木村先生」と呼んでおられた。筆者にとってもそれは例外ではなく、例えば国会議員を慮りから「先生」と呼ぶ態度の類とは無縁のものであったこと——それは氏を慕う全てのひとびとにとってそうであったに違いない——を懐かしく思い出すし、今もってそうである。ところで『作曲家の手仕事』は、とりわけ道民から「道新」と親しみをもって呼ばれる北海道新聞への連載記事——それらの中には体制批判がすぎて掲載拒否となったものも含まれる——を中心にまとめたものであり、その話題は音楽に留まることなく、広範囲にわたっている。みすゞ書房から出版の話があったのは、木村雅信先生の文章には慮りがなく、言いたいことを言い切っていて新鮮かつ貴重であったからであるそうだ。そのことは、実際に読み進めてみると実によく分かるうえ、筆者にとっても強く共感するところがあった。例えば先生は文体一つとっても、「~であると思われる」という表現を決して用いられない。文章を書くということの投企性と倫理を身を持って分かっておられていたがゆえであろう。筆者もまた例えば小学校1年生以来、他動詞の代わりに自動詞を用いることで、本来帰せられるべき責任の所在を曖昧にさせる文体に対して強い違和感を抱き続けている類の人間であるゆえ、先生やみすゞ書房の編集部の意向には強く共感するのである。

 

 さて、今度は肝心の音楽の話題から大きく逸れてしまった。何であろうとやはり、木村先生が残された作品の内容が最も重要である。先ほど、「この曲には人に伝えたい内容・感情などない」という先生の作品解説を引いたが、これは勿論、他の作品においてもそうであったということではなく、この曲(『トリオin B』/クラリネット、バス・クラリネット、テナー・サクソフォンによるトリオ作品)について言えることであった。遅くとも40代から60代の半ば頃には、芸術音楽の領域で日本で最も作品数が多い作曲家と言われていた木村先生の膨大な作品群は、実にさまざまな相貌を持っており、分類や解析をするにあたっては一筋縄でいかないところがある。木村先生とのお付き合いの中でその楽譜を読み、聴いて来た作品群に通底する共通の性質を一点だけ挙げるとするならば、迷うことなく「生命感」であると確言することが出来る。内容と感情がないという件のトリオ作品においても、それは例外なく息づいているのである。西欧近代的価値観に基く進歩主義と主知主義が袋小路への迷い込みを招来した現代芸術音楽(一般に単に「現代音楽」と呼ばれる)の領域にあって、それは稀少かつ貴重なことである。決して急進的ではないものの、先生の一見地味な技術的工夫が新鮮な感動と驚きでもって施されたに違いない職人気質の作品は、作曲家にとって興味が尽きない。そこで、筆者の手元に残されている木村雅信先生の数多い作品の中から特に重要と思われるもの、特徴的なものを選び、次号より分析を少しずつ試みようと思う。なお、最後に先生の簡単なバイオグラフィーを以下に掲げておく。

 

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木村雅信(1941~2021、作曲家/ピアニスト/音楽教育者)

 

中国石家荘に生まれ、引き揚げ後は種子島に育つ。幼少より音楽に親しみ、高校時代に最も得意な科目は国語であった。

東京藝術大学音楽学部作曲科に入学し、長谷川良夫に師事する。在学中の1964年、第33回日本音楽コンクールに入選。同大学院音楽研究科作曲専攻修了。卒業後は谷桃子バレエ団の伴奏ピアニストとして活動しながら、作曲・指揮活動を行う。1972年より札幌大谷短期大学音楽科専任講師に就任する(のちに助教授、教授。同短期大学の4年制大学移行後は教授)。

1973年、第2回モスクワ国際バレエコンクール最優秀伴奏者賞受賞。

1982年より「札幌現代音楽展」を主宰。同年、札幌市民芸術祭賞受賞、第5回北海道青少年科学文化振興賞受賞。

1985年、再び札幌市民芸術祭賞受賞。

1986年、札幌冬季アジア競技大会ファンファーレ作曲。

1999年より「詩歌の会」主宰。

2006年、札幌芸術賞受賞。