どうしてセラピーを??そしてゲシュタルト療法とは?? ~電子書籍版『やさしさの夢療法』あとがき(前半)

原田広美

 本書は、母による抑圧などを契機に、成人後も自信喪失や孤独感が解消できず、加えて管理体制の強い職場への勤務による鬱や、夫のモラトリアムなどに悩んだ私が、学生時代からの心身の解放と自己表現、および二〇代全般を通じての我身の〈苦悩の解消と人間理解・夢の実現〉を果たすべく巡り合った「ゲシュタルト療法」を中心とする心理療法の学びを経て、一九九一年に夫の原田成志と「まどか研究所」を設立して、三年後に上梓した本でした。

 思い返せば、特に親と難しくなった思春期以降の私にとって、学校が家庭からの逃げ場でもありつつ、地元の進学校(県立高校)に自然な形で進学したものの、家庭からの思うような理解を得らないまま学業に身が入らず、反抗的な少女時代を過ごした後、教師になるなら、という条件で大学に進学しました。

 そして教育学の先生方の指導の下、第三世界の芸術家達が始めた、識字教育ならぬ、民衆演劇運動と名づけられた、心身を解放しながら社会を知り、グループで即興演劇を創作するワークショップに身を投じました。それは一九八〇年代の、まだワークショップという言葉が一般化する前の時代でした。一方、心に痛みを抱えていた私は、卒論では仏教説話を扱いました。

 その後、高校の国語教師となり、演劇部や文芸部の顧問も務めました。最初の三年間は管理教育を看板にする新設高校に配属され、心身を追い込まれてしまいました。そのような職場では、意に沿わない職務命令に従わざるを得ないばかりか、教員同士も上下関係をもって息苦しく管理されます。

 その後の五年間は、地域密着型の穏やかな伝統のある学校で過ごしました。転勤後の二五歳で、上記の演劇ワークショップで知り会った夫の原田成志と結婚しました。

 成志は中学生の頃から「精神分析」の祖であったジークムント・フロイト(1856-1939)の著作を読んでいました。また私以上に、心身の解放や演劇にたしなみがありました。

 ですから成志が、フロイトの直弟子のカール・グスタフ・ユング(1875-1961)や、アルフレット・アドラー(1870-1937)よりもさらに一世代下で、ドイツ表現主義の核であった「心身融合」を大きなバネに、フロイトから離反したフレデリック・パールズ(1893-1970)の「ゲシュタルト療法」にたどりついたのも、道理であったかもしれません。

 

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 演劇ワークショップで知り会ったものの、成志に影響を受けてからは、「ゲシュタルト療法」を始めとする心理療法が、私の学びの中心になりました。ですが、「ゲシュタルト療法」を共通項としつつも、それぞれが好きなことを自在に学んできました。

 私は「ゲシュタルト療法」の他、「愛と癒しの心理学」を土台にしたブレスインテグレーション、現代催眠、その後のアメリカ西海岸への短期留学も含めて、POP(プロセス指向心理学)、NLP(神経言語プログラミング)、シャーマニスティックな癒し、加えてユングやアドラーの心理学、認知行動療法など。またマインドフルネスは、「ゲシュタルト療法」の〈気づきの三領域〉(本書第5章を参照)にほぼ重なりますし、もちろんのことジャック・ラカン(1901-1981)も読みました。

 そして余談になりますが、身体の解放としては、学生時代からの野口体操や即興に続き、橋本操体法、アレクサンダーテクニック、バイオエナジェティックス、フェルデンクライス身体訓練法、オイリュトミー、舞踏、ヨガ、太極拳、気功、ピラティスなどを経験しています。

 私は心身に関わる類似の領域を幅広く体験し、自らが柱にしているものを客観性をもって捉えるのが好きなのだと思います。

 

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 このような学びを含みながらも、「ゲシュタルト療法」の夢のワークを中心とした自己解放の内容が、本書の前半です。そして後半は、その後に成志と設立した「まどか研究所」で出会ったクライエントさん達のセラピー・セッションの記録を、Oさんへのインタビューを中心に執筆しました。

 また「ゲシュタルト療法」の、私達の師であったリッキー・リビングストン[一九九〇年代からは、ローズ・ナジアに改名](1945-)は、東京大学分院心療内科研究員として来日し、一九八三年に「東京ゲシュタルト研究所」を開設したアメリカ人女性でした。その後リッキーが日本を離れたこともあり、一九九〇年の半ばに閉所されましたが、ここで成志は計四年分と、私は一年半ほど学びました。

 ここまでに書いたような内容について、最近の私は「欧米に学んだサイコセラピー、二八年の実績。母親に抑圧されて育った少女が、やさしい彼に恵まれても解決できなかった問題を、二〇代ほぼすべての週末に、心身の解放、心の癒しを学んで幸せを手に」などと、表現しています。

 そして初めは何のあてもなくお送りした私の原稿を刊行して下さった日本教文社には、今回の電子書籍化も含めて、心より感謝しています。日本教文社は、フロイトや、ユングの選集を日本で最初に刊行した出版社です。また私が原稿を持ち込ませていただく少し(二年ほど)前には、ユング派の秋山さと子さんに夢についての著作を依頼していたところが、ご逝去により果たせなかったという事情もあったようです。

 

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 さて本書のベースである「ゲシュタルト療法」を創始したのは、ユダヤ系ドイツ人で、元はフロイト派の精神科医だったフレデリック・パールズです。ベルリンに生まれ育ったパールズは、第一次世界大戦時にはベルリン大学在籍中に招集され、ドイツ兵(衛生兵)として従軍し、塹壕戦の毒ガスの中からやっとの思いで帰還しました。

 フロイトの診療室はオーストリアのウィーンにあり、ユングはスイスのチューリッヒを拠点としましたが、パールズや妻のローラ(1905-1990)が青春期を過ごしたのは、ドイツの首都ベルリンだったのです。

 当時のベルリンは国際的な最前線でした。パールズも一時は師事した「表現主義演劇」の巨匠マックス・ラインハルト(1873-1943)が活躍し、ローラが学んだ身体に対する二つの潮流、ヨーロッパ初のモダンダンスであった「ドイツ表現主義舞踊」と、身体に対する「アウェアネス(気づき)のワーク」が興隆した時期でもありました。

 このように「身体に対する新たな時代の関心」が開示された空気の中で、子供時代から青年期を過ごしたパールズやローラにとって、彼らの「身体と無意識(深層心理)」をつなぐ関心が、フロイトを遥かに凌ぐ「広範囲の視野」を備えたものになったのは、自然ななりゆきであったと思います。

 パールズにとっての「身体」は、「無意識的な〈動作や身構え〉、〈表現・表情・症状〉」などを含み、フロイトが提唱した「リビドーの抑圧と神経症(ヒステリー)」の関係に対する視野をいわば拡張する形で、〈日常動作の演劇性の中に潜むリアリティー〉から、深層心理に抑圧された〈感情や病理〉の実態を探ろうとするものでした。

 加えて豊かなユダヤ系の中産階級に育ったローラは、子供時代からシュタイナー教育など、当時の最先端の内容を兼ね備えた自由教育の学校で学び、パールズもやはり自由教育の学校に学びました。

 ローラは学生時代には、実存主義の祖であるハイデガー(1889-1976)を師としたのみならず、「ゲシュタルト心理学」やマルティン・ブーバー(1878-1965)の哲学を学びました。一方、青年時代のパールズは、医学や哲学の他に、演劇も学んだのは前述の通りです。その後、一九三二年にフロイト派の精神分析家の資格を得ました。

 

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 このような二人が一九四六年にはニューヨークに渡り、ユダヤ系アメリカ人のポール・グッドマンと三人で「ゲシュタルト療法」を創始する運びとなり、一九五一年にはパールズが『ゲシュタルト療法』を刊行。また一九五二年には、パールズとローラが中心となって「ニューヨーク・ゲシュタルト療法研究所」が開設されました。

 二人が渡米したのは、そもそも一九三三年にドイツでナチスの台頭があったためです。その時に、パールズとローラは、ホロコーストを逃れるためにドイツを脱出。オランダで一年を過ごした後、南アフリカ共和国のヨハネスブルクに渡り、そこで「精神分析研究所」を開設して一〇年を過ごしました。

 ですが第二次世界大戦後に、南アフリカ共和国の政局がアパルトヘイトの方向へ変化する中、新たな活路を求めて渡米を決意したのです。

 先にも述べたように、フロイトやユングよりも若い世代のパールズらの身体観は、先人達よりも広範なものでした。パールズがフロイトから冷淡な対応を受けた原因も、そのような所にあったようで、パールズは一九四二年の著作『エゴ、飢えと攻撃性──フロイトの理論と方法の修正』の中で、「精神分析」からの決別を宣言。そして渡米後に、明確に「ゲシュタルト療法」という名称を提唱しました。

 

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「ゲシュタルト療法」は、フロイト派の「精神分析」や「夢判断」の流れを汲みながらも、ゲシュタルト心理学、ブーバーの哲学、アウェアネス(気づき)のワーク、ドイツ表現主義舞踊や表現主義演劇に内在していた〈即興性〉と共に、〈激情〉から〈神聖な静寂さ〉までの〈感情〉の受容と解放を含んで成立しました。

 さらにパールズが影響を受けた同時代の周辺を見てみると、「精神分析」の兄弟子で、パールズの教育分析(分析家になるための教育として受ける分析)を担当したのは、ウィルヘルム・ライヒ(1897-1957)でした。渡米後のパールズとライヒに交流はなかったものの、ライヒの『性格分析──その技法と理論』(邦訳、岩崎学術出版社)や「筋肉の鎧説」、『性と文化の革命』(邦訳、勁草書房)は、一九六〇年代の終盤から一九七〇年代以降、日本にも大きく紹介されました。

 また二〇世紀初頭のドイツの精神病院ですでに始まっていた「絵画療法」、ヤコブ・モレノ(1889-1974)の「サイコドラマ」の他、渡米後のパールズは鈴木大拙(1870-1966)が伝えた「禅」の〈直観〉や〈今ここで〉の精神、および〈自己成長の概念〉にも影響を受け、それらも「ゲシュタルト療法」に融合されました。

 

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 そして晩年のパールズは、カリフォルニア州のビッグ・サーに開かれたニューエイジ(オルタナティブな人間性教育による人間の可能性開発運動)の実験場であった「エサレン研究所」(1962-)に、一九六三年から特別講師として招聘されました。その「エサレン研究所」の3大柱は、パールズの「ゲシュタルト療法」と、来談者中心療法でも知られるカール・ロジャーズ(1902-1987)の「エンカウンター・グループ」、そしてパールズが推薦した二つのボディー・ワークでした。

 ボディー・ワークの一つは、ドイツで身体への「アウェアネス(気づき)のワーク」を始めたエルザ・ギンドラー(1885–961)の弟子で、渡米後にそれを発展的に広めたシャーロット・セルバー(1901-2003)の「センサリー・アウェアネス」、そしてもう一つは、アイダ・ロルフ(1896-1979)による「ロルフィング」です。

 またパールズが「エサレン研究所」に入る前の初期に、責任者とされていたのは「家族療法」のヴァージニア・サティア(1916-1988)でした。サティアは、「エサレン研究所」に集まる者達の人脈がヒッピームーブメントと重なる所もあったために、生徒達のルーズなマナーに我慢ができなかったようです。

 ですがパールズは、秀れた療法家であったサティアの名前が、その後それほど広く知られなかったことについては残念に思っていました。(この項の参照:フレデリック・パールズ自伝『記憶のゴミ箱──パールズによるパールズのゲシュタルトセラピー』原田成志訳、新曜社)

 

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 またパールズはこの頃、「ポストモダン・ダンス」の母と呼ばれる、サンフランシスコの郊外を本拠地とするアンナ・ハルプリン(1920-2021)に出会います。そして約2年間にわたり、〈即興〉の最中に噴出する〈感情〉の処理や、〈クレヨン画〉〈夢〉を用いたワークなどを、ハルプリンと彼女が主宰するダンスグループに教えました。

 ハルプリンは、一九六八年に公民権運動の指導者だったキング牧師が暗殺された時には、白人と黒人間の関係を取り上げたワークショップと公開パフォーマンス(『私達(アメリカ合衆国)の儀式』)を行い、一九八〇年代の半ば以後は、エイズやがん患者と健常者が分かち合い、支え合うためのワークショップと公開パフォーマンス(『サークル・オブ・ジ・アース』)を行ったようなダンサーです。

 そして、砂場の続く海岸ではワークショップの参加者の一人一人が、自分を主人公にした人生の「儀式」を創作して演じました。このようなワークショップやパフォーマンスにも、パールズの影響が感じられます。

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『やさしさの夢療法』電子書籍版は、2022年7月の刊行でした。次号に「あとがき」の後半を掲載します。
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