連載小説『天女』第八回

南清璽

 


 診療所の勝手口。やはり、産婦人科ならば、玄関よりお邪魔するのは、控えるべきなのだろう。

 「すみません。急患です!」

 声をかけてみた。ドアの向こうの物音で少々気が止んだ。何分、数度は、試さなければならなと踏んでいたからだ。

 「頭を切ってしまいました。縫ってもらいたいのですが。」

 私は、身体を屈めて、頭の傷口を見せた。いつもこんな具合に用件のみを述べた。だが、それは特段の理由があってのことではなく、挨拶として時候に触れるのが得意でなかったからだ。

 「縫合の必要はある様ですな。診療までまだ時間があるからどうぞ表へ廻ってください。」

 ご婦人の居並ぶ産婦人科の待合室に、男がいるのも珍奇なものである。だが、まだ診察時間でなければ、勝手として表から診察室に入ることは許されるものだった。

 医師は、簡素な麻酔の後、縫い合わせてくれた。

 「少ししみるが我慢してくださいね。」

 医師は縫合した箇所に消毒を施した。
 「あんたのおっしゃるとおり骨には異常ない様ですな。それにしてもお館様は随分なことをされる。」

 「かまわないのです。あの手の御仁には何も通じませんから。」

 気がかりだったのは、医師から警察に通報されないか、だった。ただ、その様子からしてそんな考えはない様だ。もちろん、それを不条理に思う訳ではなかった。だが、医師は、私の心裡にある、やるせ無い想いを受けて幾分かは察した様だ。

 「警察にいったばかりに、君があの館を出る羽目になっても辛いことだろうし。」

 「全くもって。でも、警察への通報はお控えくだされば幸いです。」

 「そうですよね。私も今では、安っぽい正義に囚われないようにと思っています。」

 この産婦人科医が、お館様の助けたを受けたことはKから聴いていた。ただ、詳細といえるものは何も知らない。もちろん、複雑な事情が存することは察せられた。だが、ここは自身もKと知己があることは秘することにした。どうせ、訝しがられるだけだと分かっていたからだ。

 

 「それにしても、よくここまで歩いたというのに持ちましたね。」

 「傷口ですか。」

 「ええ。館からは此処まで少しありますから。」

 「そこのところは気をつけて参りましたから。いつもよりもゆっくりと。」

 「さすがですね。」

 

 一つの世辞であったのかもしれない。だが、私は、世辞を述べられるのが苦手だった。だから、無難な「恐れ入ります。」とだけ答えた。もちろん、これしきのことぐらい難なくできるという自負があった。

「館からもう少し近い処に診療所がありましたが、閉院した様ですし。」

 「サナトリウムですか。あの精神科の。」

 「そうらしいですよ。」

 「そうだったとは。」

 然程に関心のない事柄だったが、大仰に返事をしてみせた。何の思案もなく、こんな具合にして。そうして省みるのだった。時として、それが良からぬ方向に行くこともあったと。ただ、今回は、相手が、医師だけに、しかも聡明な御仁だけに、そう慮る必要もないといえた。しかし、医師は、私が興味を覚えたと思ったらしく更にその話題を続けた。

 「神経症だったとか。」

 「そちらの先生が。」

 「ええ。」

 余計なことを述べてしまった、そんな向きを医師は醸していた。自分も、これというほどの知己でないにも拘らず、

 「何か事情でも、あったのでしょうかと。」

と、形式を繕う様な物言いをしてしまった。

 「詳しい事情は存じませんが、失踪したとも聞きました。器具も備品もそのままだとか。」

 「それは、大変なことで。」

 お館様にいつもの気まぐれだったかもしれない。一つの保養施設を、診療所と兼ねた体裁で提供するはずだった。ただ、辺鄙なこの地で成り立たすためには、お館様の支援が必要であった。でも、それも十分ではなかったのかもしれない。

 

 「カシ何だったか、カシヤマ、カシモト、カシダ…」

 どうやらKのことらしい。医師もその名を覚えられずにいた様だ。

 「私は、単にKと呼んでいますが。」

 「そう、そのKが、近々、例の診療所を処分してくれるとか。」

 それにしてもKという奴は便利というか、使えるというか、閉鎖された診療所をどう周旋するというのだろうか。

 「ほんと、使える男ですよ。」

率直な向きを述べた。ただ、感心とも蔑みだとも窺わせない物言いにした。

 「どういったことで知己に。」

 「お館様の処へは、彼の口利きだったのです。もちろん、それ以前から彼のことは存じておりました。父も、開業医だったもので、色々と手助けを受けていました。」

 医師は、察しているに違いない。Kに関わっているということは、それなりの事情が存するということを。そうして、この医師も、自分と同様に何らかの事情があってお館様の土地で開業しているのだと。

 「お察しでいらっしゃるのでしょうが、その事情を他人様に申し上げるのは、憚れるものがあります。私は、高貴な家の醜聞に関わったばかりに、ピアノの教師としての職を失いました。そんな折、そのKからお館様の処で書生とも食客ともつかぬ身分でのピアノ教師の口を紹介されたのです。その他に父の金銭面の問題でも手を煩わしました。」

 だが、医師はそんな私の説明に何一つ関心を示さなかった。

「独立不覊。自分が望んだ道だというのに。」

 こんな風に医師は唐突に述べた。

「大学の研究室を飛び出し、病院の勤務医になったものの、そこでも診療に対する考えの相違から辞める羽目になりました。」

 一息つき、続きを述べた。もちろん、そこにあったいささかの躊躇いは、苦悩や葛藤の結果であると察せられた。

 「たとえ恩義があるにせよ、医者として、あるまじき行いを冒してしまいました。」

 「天女のことですか。」

 「天女?」

 

 「あの遊廓の女性のことですよ。彼女をその見た目から天女と呼んでいるのです。」

 「天女か。名付けとしては、申し分ない。」

 医者は、私の「天女」という名付けに甚く感心したのだった。だが、そう感心ばかりしておれない様で、さっきの話の続きを語り出した。

 「魔がさした。そういえばもっともらしいのでしょうか、実は、そうでもなかったのです。でも、確信を抱いてのことでもありませんでした。」

 「診断書のことですか。」

 医師が今話そうとしていることが例の診断書のことだと察せられた。だが、当の医師はそれからというものは、言葉を続けなくなった。図星だといえばそれまでだが、どことなく後ろめたいものを感じていた。

 そう思いつつも、適当な言葉も見つからず、少しは、困惑の表情を浮かべてみせて、様子をみるしかないと思った。医師も私の心底を察したかその続きを語り出した。

「確かに、医者としてあるまじきことだった。何分、虚偽の診断書を作成したのだから。」

 私は、医師をつぶさに見入るのは、かえって話しにくいだろうと思い、机の上に無造作に置かれたカルテの、そうして、何も解さない独逸語の字面に視線を落とした。

 そうした折、Kの名が出たとはいえ、知己のあることを告げてしまったことを不用意だったと顧た。もちろん、それが自然の成り行きあったのには、違いない。だが、できたら伏せておきたい事柄だった。ただ、その話ぶりからして、私にKと何らかの繋がりがあったのを察していたと窺われた。かえって医者の息子であると告げられたらおかげで、私をそうはぞんざいにできないというふうな成り行きになったのも確かだ。

 「その天女が脳黴毒に冒されたとの診断書を書いてしまったのだから。大いに蔑んでくれることを望んでいるよ。」

 この大仰な面に医師の作為があると悟った。私は、ここは一つ気の利いた質問を投じてみようと思ったのだ。

 

 何か気の利いた質問でもと想いを巡らした。だが、いざその段になると思いつきそうで、そうとはならなかった。というか然程に親しくないこの医師に気の利いた質問などできうることではなかった。だが、大胆にも、ハッとさせる様な冗談を述べてしまった。

 「人を殺めても、その診断書如何では、その罪を問えなくすることだってできますよ。」

 この背徳な向きを医師はどう捉えたであろうか。心底では、どうして、こういったか。むしろ、つい口をついてしまったといった方がいいのかもしれない。これに対しては、医師は苦笑し、取り合うべき程のものでもないという感を、その蔑んだ笑みで表した。

 「つくづくつかみ処のない御仁だと思いました。お館様ですが。あのとき、深みのある声で話されたのです。いつもは、語尾が聴き取りにくく、しかも脈絡もなく話すという具合なんですが。」

 もちろん、その節は無きにあらずだった。奥底では、お館様のことを蔑んでいるにもかかわらず、時折、話が心に響く物言いをされるのだった。

 「救ってあげてくれないか。確かそんな言い方でした。」

 医師は、淡々として述べた。感情を抑えたのは、真実味を増すためであったのだろう。裏を返せばその後ろめたさの顕れでもあった。もちろん、推し量れるものではあったが、医師がどう弁明を施すか興味が持てた。

 「救い。その言葉を自分なりに都合よく解釈しました。」

 この間合い。絶妙だ。沈思し、とつとつと語るという繰り返しの間合いが。そうしてこのアルコール臭。それは、幼い頃の、記憶にある、父の診察室のあの匂いだった。消毒液に浸けられた注射針。その無造作な様に、なぜか視線がいった。それは、注射をあまり好まなかったことに所以するのだろうが。ただ、父に諭され素直に注射に応じた。その折は、いかめしい面持ちで注射を施したのは確かだ。不思議にも、成人に達した後も医師に勧められると、父からの注射のことを思い出すばかりに、表情に翳りが出、注射は嫌いなのかとよく訊ねられたりした。

 

 「その救いですが。そう、お館様が発した言葉のことですが。お館様は、女郎屋が、悪どいから、単なる黴毒ではなく、脳黴毒にしてほしいと。そうすれば彼女、いや、あなたのいうところの天女が遊女の身から解放されると。」

 私は、その医師の言葉に対し、「そういった事情があったとは。」と大仰な物言いをした。それは、一つの迎合であり、同時にもうこれ以上何も糺しませんという自己の意思を示すものでもあった。お館様は、何故、この医師に脳黴毒という虚偽の診断書を求めたのであろうか。推察を及ぼすとすれば、天女を身請けする額の点かもしれない。きっと身請けの額で折り合いがつかなっかたため、天女の黴毒の罹患が、瑕疵にあたるのだとしたのではないか。そうして、脳黴毒の診断書を見せて、渋々自身が提示している額に応じさせた、そういった想像をめぐらしたりもした。そんなこんなの考えが浮かび消えていく様に、遊廓に行ったことがない自身が、女郎の身請けなど、縁のないことであるにせよ、幾分の知識も持ち合わせていないことに気付くのだった。

 こういうお館様の癇癪をおこす稚拙さと、身請けの交渉を有利にするため、虚偽の診断書を作らせるあざとさが、矛盾であり、一方、それが何か得体の知れない魔物であるかの感を抱かせた。今日の様に人前での情事を拒んだがために暴行を犯し傷害を負わせる、そういった不埒な面は、いつ如何なる所以で変異を遂げるかもしれない。例えば、私が失踪したことにして、亡き者にすることも可能といえば可能なのである。私の亡骸をあの広大な屋敷の敷地に埋めたら、単なる失踪事件で終わらせられよう。

 「どうかされましたか?」

 この医師の言葉に我に返った。

 「つい想いが及びましたよ。お館様のある意味恐ろしさに。」

 私は、こう取り繕った。医師も我が意を汲み、「そうですよ」と述べてくれた。

 私は、その婦人科の診療所を辞した。その折、医師は次の診察で、傷口の様子を診させてほしいと。その一方で、医師の言葉にあった廃業した精神科のサナトリウムのことが気になっていた。のみならず、お館様が、私を亡き者にし、その遺体を屋敷の敷地に埋めてしまうという空想を、作為的に真実味があるものと捉えようとしていた。
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*編集部より、12月1日に、
南さんの新刊・小説『ファム ファタル』が、刊行されました。
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