『本当の音?本当の生(LIFE)?本当の時間?』—追悼・坂本龍一—(一)

田中聡


〈0〉導入—「時間」という通奏低音


 本年3月28日に亡くなられた坂本龍一さんは、音楽の多様な分野に、多彩な仕事を、それなりの完成度で残し、様々な刺激と創造の種子を残した。そうであるにも関わらず、何か未完成なものが残された気がするのはなぜだろう?

 1970年代の頃からの問題意識、例えば「時間」について、陰に陽に様々に音楽において模索されたにも関わらず、それを体系化してまとめる事は、現時点では多分ご自身でもされていなかった。 
 しかし近年、そうした若き日のご自分の問題意識に再び立ち戻り、これまでの年月の模索からの果実を援用しつつ、ご自分なりの音楽をまとめていく途半ばではあったのかもしれない。又、中咽頭ガンに罹患された後は、自分自身の「生」と「時間」に、正面から向き合いつつあった。

 例えば高橋アキさんにより1976年に初演された坂本さんのピアノ曲『分散・境界・砂』で、ピアノ演奏者が読み上げる(坂本さんの自作であろう)テクストに、

「時代背景は明確に提示されていながらも、数量化しうる時間の符牒が比較的少ないので,・・・・・・ああ,一体時間はどうなっているんだろう・・・・・・」

という問いかけるような言葉がある。

 この問いには、最近の坂本さんのインスタレーション作品『IS YOUR TIME』(2017年、高谷史郎さんとのコラボレーション)、シアターピース作品『TIME』(2021年、高谷さん、田中泯さんとのコラボレーション)、更に(高谷さんのFACEBOOKの記述によれば)これから坂本さんと高谷さんが作っていくとされていた、その『TIME』のインスタレーションヴァージョンでは、1970年代とはかなり変容している可能性がある坂本さんの時間観によって、応答が与えられている、あるいは与えられていたであろうと思われる。

 ただその事をもって、近年の坂本さんが「本当の」自分の「生(LIFE)」とその「時間」に向き合いつつあった、と言うと、何かが違うと言う気もするのである。
 それがなぜなのかを、先述の「未完成」への問いをも含めて、以下で「音」、「音楽」にまつわる形で少し検討してみたい。
 更にその検討を、「数量化」しうる時間について、物理学出身の哲学者として批判的に思索し続けた大森荘蔵(おおもり しょうぞう)さんの哲学との関連性を出発点として、私は行いたいのである。

  かつて(1980年代初頭)、坂本さんと大森さんは対談本『音を視る、時を聴く』(1982年、朝日出版社)(以下、『音視』と略す)を出版している。
 その中で、同時に、あるいは極めて僅かにズレて鳴る音をめぐってお二人は議論されていた。
 ところで大森さんは、その『音視』出版の8ヶ月程前に、『新視覚新論』(1982年、東京大学出版会)(以下、『新論』と略す)を出版している。その中で、「地球の公転によって恒星の見える方向が僅かにずれる(最大20秒程度)」(P138ページ)現象である光行差の現象について論じておられるが、上述の『音視』においては、そうした光や視覚についてのズレの現象とか虚像という事をめぐって大森さんが『新論』で思索した事を、音のズレや同時性と聴覚へ関連付ける中で探索しているところがある。
 この探索は、それから17年後の1999年に上演された坂本さんのオペラ『LIFE』と重なる部分がある。同オペラにおいて、東京の日本武道館で演奏されるバッハ風のコラールが、インターネット配信のライブ中継によって、地球を一周して戻って来て同武道館に鳴り響き、その響きは、生の演奏と僅かにズレるのである。そしてそのズレによって、「地球」という「もの」を感じさせていた。このオペラをめぐる座談会での坂本さんご自身の言葉をここで引用すれば、「インターネットで地球そのものをディレイ・マシーンとして使ってみよう」としたのである。
 大森さんと徹底的に議論していた、「音」をめぐるズレや同時性は、坂本さんの中での「生(LIFE)」の表現をめぐる探求に緊密な関連があってもおかしくはない。地球という「もの」あるいは「場所」における、光や音をめぐる「ズレ」への問題意識が、ご両人の底辺にはあるのかもしれない。

 坂本さんの「生(LIFE)」とその「時間」についての向き合い方を、音、音楽にまつわって探求するこの拙論を、大森さんの哲学との関連において進めてゆく事は、以上のような事情から、極めて有益である事が予想される。

 それではその探求を、拙いながら以下で始めてみよう。 
 

〈1〉「どこも本当だ」という肯定形で


 『音視』の冒頭で、同じ「時」、同時に鳴る音をめぐって、坂本さんは以下のような問いを発している。

(坂本) いま、音を作るほうも、聴くほうも、二つのスピーカーを、音源として使います。ステレオ・サウンドっていうのが、一般的ですね。あれは・・・(略)・・・ある音を同時に両方の音源から出しますと、その音は真ん中で鳴ってるように聴こえるわけですね。真ん中に音があるように認識される、それは錯覚なんでしょうか。」

    この問いに対して大森さんは、「私は錯覚とは思いません。」とした上で、そうして真ん中から聴こえてくるという現象は光でいうと光学的な虚像と言われるものだが、そうした光学的虚像は実は虚像ではなく、錯覚ではない、とし、音について虚像と言われるものが錯覚ではない事を裏付けようとする。

 又『音視』の、以下のステレオについての対話も注目される。

(坂本) ステレオでぼく達が作っても、喫茶店のこっちのコーナーにスピーカーがある。このへんにもう一方のスピーカーがある。そうすると、へたするとある種の音はこの人には聴こえてない。じゃ、どこで聴いたらいいのか。ここが本当なのか。どこも本当はない。だからどこも本当じゃないよという提出の仕方を・・・・・・。
(大森)その言い方はちょっと私、提出させていただきたい。どこも本当じゃないという否定形で言うべきじゃないですね。どこも本当だという肯定形で・・・・・・。
(坂本)そういう意味です。うっかりしました。

 どこも本当ではない、と坂本さんが言うのに対して、いやどこも本当なのだ、と大森さんは言う。
 どこかで発せられる音の位置、音色。それらがたとえ幻聴であろうと、錯覚ではなく、どこの音も本当である、

 こうした事を、40年以上前に大森さんと坂本さんは話し合っていた。

 一方で、大森さんはかつて『流れとよどみ』(1976年、産業図書)の「真実の百面相」という章で、ステレオのハイファイについて取り上げ、どこかに「本当の」音の像を求める事を否定的に捉えると同時に、本当の「人柄」がどこかに一面相的にあることも否定し、千変万化する斑な模様のように、人間の人柄がある事を論じていた。例えば以下のように。

「ステレオのハイファイが音キチの間でやかましくいわれるのは、その装置が出す音が演奏現場の生の音をどれだけ忠実に複製しているかということであろう。しかし演奏会の生の音自身が座席によって様々に聞こえる。そこでこの座席で聞く音こそ本当の音なのだ、といえるような座席があるだろうか。座席によって料金が違うのは高い席ほどより真実の音が聞こえるからだろうか。そうではあるまい。・・・(略)・・・真実とは貧しく偏屈なものではなく豊かな百面相なのである。」 
「例えば知人の人柄をあれこれ品定めするとき。彼は本当はいい奴なんだ、一見人付き合いは悪いけど本当は親切な男なんだよ・・・(略)・・・こうした評言はどこにいても聞かれる。こうした言い方の中には、人には『本当の人柄』というものがあるのだが屢々それは仮面でおおいかくされている、といった考えがひそんでいるように思われる。」
 
 こう述べた上で大森さんは、様々な状況で変化する斑模様の振る舞いが普通であるとした上で、「もししいて『本当の人柄』を云々するのならば、こうして状況や相手次第で千変万化する行動様式がおりなす斑なパターンこそを『本当の人柄』というべきであろう。」とし、「人の真実はどこか奥深くかくされているのではない。・・・(略)・・・人の真実は水深ゼロメーターにある。」とする。

 ここでの大森さんの人間観、他我観は、坂本さんの多様な音楽活動にも重なっていく。
 坂本さんは現代音楽、テクノポップ、ボサノバ、アンビエント、映画音楽等々の分野で(先述のように)、或る程度完成度の高い仕事をこなしていった。どこかに本当の坂本さんが単一的にいて、というよりもそれこそ百面相的に活動していった。大森さんの言葉を援用すれば、「水深ゼロメーター」の「状況や相手次第で千変万化する行動様式がおりなす斑なパターン」にこそ、坂本さんの音楽活動の真実はある。


〈2〉「もの」があるところから、実際にその「もの」の音を聴く


 ところでその坂本さんが今から6年程前に、「Wired Audi INNOVATION AWARD 2017」受賞記念のインタビューに答えて、先述の『音視」での大森さんとの対話について問われ、先述の「錯覚」についての対話に密接に連関する形で続いて行われた、森の狩人のたとえ話での対話に言及しつつ、以下のように発言している。この発言の後半は、先述のステレオの話に直接絡むものである。

「森の中に狩人がいて、2匹のオオカミが狩人から等距離、同じ音色で同時に啼いたとき、狩人は真ん中にオオカミが1匹いると認識して、左右どちらに逃げても食べられてしまうという問題ですね。・・・(略)・・・

でも、ステレオに対する不満や疑問は最近すごく強くなってきていて、『もの』の音を聴きたいというのも、そうした関心と結びついているんです。ステレオで聞くということは、音を発するスピーカーは真ん中にないのに、何もないところの音を“幻聴”として聞いているわけなんですね。これは完全に人間のなかの“地図”というか、認識の問題です。そういう幻聴を用いることを、なるべくやめたい。『もの』があるところから、実際にその『もの』の音を聞くという本来の音楽のあり方に戻したい、という気持ちがとても強くなっています。50種類の音があれば、本当は50個のスピーカーを用意して、スピーカーという『もの』の音を聞かなければならないはずなんですよ。」

   この、ものにはそれぞれの音があっていいはず、ステレオに対する不満や疑問が高まっているという坂本さんは、かつて「本当の」音、音の位置を求める事を否定的に捉える大森さんの意見に、或る程度同調するようでもあった、その方向性とは少し異なる方向性を打ち出していたのだろうか?
 坂本さんはどこかに客観的に「本当の」音があるとするわけではないのかもしれない。先述の対談本で、暗に批判的に検討されていた、「もの」と「心」とを二元論的に分けてしまう、近代的主客(主観ー客観)二元論を復古させようというわけではないだろう。
 しかし、音の位置を誤って認識していても、それを錯覚ではなく、本当の音の位置も、そうでない音の位置(幻聴的な?)も、平等な身分をもってこの世界に棲み分けているというところで完結する大森哲学ワールドとは、近年の坂本さんは少し異なる所に行こうとしていたのだろうか?
 「本当の音/音の位置」が、「主観」とは別の所に「客観」的にあるというのではないけれど、しかし「もの」それぞれにそれぞれの「音」が在る。

 この微妙な立ち位置に、我々は細心の注意を払うべきだろう。

 これは脱近代的でも近代的でもないような方向性と言って良いのだろうか?
 
 そしてこの事は、近年の坂本さんの音楽的活動の在り方自身にも響いているのだろうか?

 音楽家としての「本当の」坂本が、真の坂本の「音楽世界」を一面相的に築こうとしていた?というとそうでもない。例えば、今までポップ音楽に多くの曲を提供してきたけれど、本当は難解な「現代音楽」ばかりを作りたい「本当の」坂本がどこかに単一的に存在して我慢していて、実はこれからの人生の「時間」で、そういう「現代音楽」を作ろうとしていた・・・、という訳ではないだろう。
 しかし多様な音楽活動が見せる、自らの多様な側面が、どれも「本当」であり、大森哲学風に言うなら、百面相的でありつつ活動していく、というだけではなく、それぞれの「もの」に、それぞれの「音」がある、その事自体に何かを語らせる。 
 しいて言うなら、そうした「もの」へのスタンス、それぞれの「もの」にそれぞれの「音」がある、とする中で、坂本さんは自分の人生の時間も含めて、リニアな時間を壊そうとしていたのか?この宇宙に単一的な「本当の」時間が、一つの直線上に(リニアに)流れている、という時間観自体を。

 してみれば、坂本さんが亡くなった翌日が第一刷発行日となっている福岡伸一さんとの対談本『音楽と生命』(2023年、集英社)で、坂本さんは、以下のように書いておられる。

「・・・ユクスキュルの言うように、生物それぞれにとっての世界がある。人間には人間が認識できる世界が、ダニにはダニの認識している世界がある。人間とダニが同じ世界を認識している、とは言えない。
 このように生物として持つ存在的条件は越えられないのではないだろうか、と。・・・(略)・・・「時間は存在しない」と言っても、時間の矢はどうしても一方向に進んで行ってしまうのです。」

 リニアで単一的な「本当の」時間が存在しないと位置付けても、それでも一方向に進む「時間」と、あるいはそのような時間概念と、坂本さんは最後まで格闘していたのではないか。そうしたリニアな時間を壊そうとする度に跳ね返されつつ。

 ところで大森さんは、『音視』出版の数ヶ月後に脳梗塞で倒れられた。そして左半身麻痺の重い障害を残しつつ執筆復帰され、私見では1985年発表の「過去の制作」(初出は新・岩波講座『哲学』第1巻『いま哲学とは』(1985年、岩波書店)、後に単著『時間と自我』(1992年、青土社)に収められる)という論文あたりから1997年に膵臓ガンで75歳で逝去されるまでの約12年間は、線形時間、リニアな時間について、坂本さんと対談された頃とは、ある種異なる方向へ転回するのである。
 そしてそれは、今回の冒頭で書いた『新論』での議論の内実からの転回をも意味する。光をめぐるズレについての大森さんの『新論』での論究と、『音視』での大森さん坂本さんご両人の音や光をめぐる議論が、その転回によってどう変貌する可能性があるかをも、我々は考慮しなければならないかもしれない。

 その転回は、正にリニアな時間の成立そのものを根本的に問うものであった。

 次回以降は、この転回と、坂本さんのリニアな時間への取り組みとを関連させつつ考察を進めてみよう。

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(なお写真は、2017年4月2日に神宮前のワタリウム美術館にて、私が坂本さんのイヴェントに参加し、今回の文章に関連の深い「時間」の問題について質問した際に、坂本さんがそれに答えてくださった場面を一緒にいた知らない方が撮影してくださったものです)



以下のリンクは、今回の拙論の冒頭で言及した、坂本龍一さんのピアノ曲『分散・境界・砂』の高橋アキさん演奏のYouTube映像である。おそらくは1984年の『題名のない音楽会』でのもので、だいぶ演奏時間はカットされている。