憂国の士、市ヶ谷事件についても読める「私の舞踊史Ⅳ」

柴﨑政夫

 幸か不幸か父から書道の手ほどきは受けていた。

 小学校5年生からは臨書に取りかかり、虞世南、欧陽詢らの書風にふれながら、千字文を習っていた。

 これは強制だったため、弟妹はすぐに離脱。後々これがなぜか、学校掲示の看板書きに役立った。もちろん賞状揮毫にも。

 小学6年の学級では、発作の持病持ちの転入生がいて、担任が午前中の半分をその子に対応せざるを得なくなった。不在時の学習指導伝達等や、ガリ版刷りの印刷物を配布実施回収まで、私が担当することになった。

 つまり、私に子ども時代はなく、ほとんど担任助手という生活だった。当然ながら、友人もできにくい。

 中学校入学時は1番で入りながら、体操部設立に動き、問題児扱いされた。

 1年担任は事なかれ主義、2年担任は卓球部顧問で、県大会出場を目指していたため、彼からは敵視された。3年次に統合があり、その学校から来た人が担任。高校入試は「私に相談なく」区域外受験を親に勧め、県内2番目の進学校へ。

 その高校には時代の風が吹いていた。むしろ悪い意味で「自由」を謳歌する集まりだった。

芸術科目は割り振られ、音楽希望だったが人気のない書道へ→10段階評価10を獲得。→コンク-ル参加がいやで、再び音楽へ。この時、ベ-ト-ヴェンの全交響曲を聴かされた。同時に、音大受験の裏話も。

 1年担任は無駄話が得意。2年担任は国語、東京教育大出身。島崎藤村の3大詩集、夏目漱石の作品と人生について熱く語った。本人は、太宰治に共感したり、青春時代を熱く語る人だった。個人と人生との関わりや生き方に気づかされたのは、この人からだった。

 実は、私の従兄弟が東京教育大学院に進んだ頃だったから、教育法に関する考え方に強く惹かれた。

 従兄弟は後年「坊ちゃん賞受賞」。つまり、東京理科大学夜間部に入り、2年次に昼間部へ。坊ちゃんさながらの受験合格を経て、業績を上げ、紫綬褒章受章という人生。

 しかし、高校時代は農学部。つまり、「金なら俺が出すとまで言い切った担任」が見かねて、勉強させ、奨学金取得で希望の道へ。という人生設計だった。

 そこへ2年次にこの担任。定期面接の際、何を言われたかというと、「劇団へ行け。やらないと、後悔するぞ」というものだった。「おまえの人生だが、こういう話を考えない手はない。」「事情はいろいろあるだろうが、考えに入れとかないと後悔する。」私には微笑み返すしかなかった。おそらく彼がやりたかったのだろうが、背丈不足であきらめ、教員になったのだろう。真面目で熱意に満ちた人だった。

 1年次の教師達は「ここまでやっとけ!」という指導。2年の担任だけはきちんとカリキュラムを組み、詩集、文学、古典などの構造的考察に基づき、カリキュラムを組んでくれた。3年担任は新人で優柔不断。頼りになったのは2年の担任だけだった。

 学級ではできるだけ体力温存→体操競技練習という毎日だったが、周囲からは目立つ存在だった。

 時折放映されるソビエト選手の動きを垣間見て、ラジオ体操的な日本選手との違いに考えさせられた。クラシックバレエ重視の女子選手、民族舞踊的つなぎ方を工夫する男子。それらに対して、チェコのモダンバレエ的な柔軟と量感を重視した表現。その一方で、堅牢な硬い表情のドイツ選手達。私にとっては、腰の柔軟性の使いすぎ、胸椎の使い方不足が課題だった。

 それまで坊主頭だったのが長髪に変化←それを気にする周囲の男子たち……という目で見られる毎日。意図的かどうかはわからぬが、フランス文学その他、様々な質問を投げかけて、私にその気があるかないか!? 顔色をうかがうような者が増えた。ランボ-等の詩についてよく話しかけられた。

 この頃、池袋にあった予備校受験するように誘われ、1度だけお付き合いした。10番以内が張り出されるしくみなのだが、結果は3番。←たまたま学習内容が当たってしまったというわけ。友人が見に行っただけなのだが、知的レベルが高いと認知され、後々周囲からのLGBTからの対象者として見られるきっかけになった模様。青春期は異性に興味を持つ直前に、自らを省みて、同性側として好まれるかどうかに関心が及ぶ。その標的にされかかったというわけ。部活では短パンの軽装だったが、周囲は毎日試合用の服装で練習してると勘違いされ、妄想を膨らませる対象だった。

 この頃の政情は不安定。「書を捨てよ。町に出よ。」とか、「時には母のない子のように」といった既成概念を振り払おうとする価値観が強く叫ばれていた。新劇関係者達も、海外作品の紹介だけでなく、新世代の親子関係や夫婦関係を問題作として取り上げる機運が強まっていた。←それだけでは集客力がないので、演劇映画というジャンルにおいては、終末直前に裸体表現を組み込んでいた。今日、私より上の世代はいいおじいちゃんやおばあさん役を演じているが、皆、その洗礼を受け乗り越えていった。現代舞踊、クラシックバレエも同様で、練習着だけの表現、衣装の短縮化が進み、舞踏の実験的挑戦も胎動していた。

 この時強く言われたのが「その芸術の場に、裸体表現が必然性があるかどうか」という点だった。主題に関して必要ある裸体なのかどうかという点がポイントだった。映画「ロミオとジュリエット」はL・ハ-ヴェイ主演版では舞台での語りで展開→ゼフィレッリ監督版では集客力向上を期して、従来の映画や舞台にない裸体表現を組み込んでいた。同時に、劇場形式から、町中のロケ中心のつなぎショットの連続といった即興的演出に変わっていった時代だった。フランス・ヌ-ベルバ-グやイタリアの素人抜擢による日常的演技は、存在感を示すことに重点をおいた時代の産物だった。カンヌ映画祭はそれに拍車をかけた。物質的には豊かになったが、心のよりどころのない「愛や心の満たされない不毛な時代」を描く手法が評判を呼んだ。

 それに振り回されてる余裕もなく、私は親の勧めで仕方なく国家公務員試験初級受験合格→130通を超える2次試験案内到着。育英特別奨学金取得。といった流れをこなしてゆく中、1年先輩の東大入試中止→安田講堂事件。次が市ヶ谷駐屯地三島由紀夫事件と続く物騒な時代に変わった。

 舌鋒鋭かった文化知識人・芸能人達が、ことごとく無言を保つように、表舞台から消え去った。テレビ出演で今をときめく大御所達の裏側を垣間見た想いだった

 結果的に前年度受験者と一緒に東大受験→2次試験不合格。となった。

 通常、国公立大学受験には5教科、私立大学は3教科。だが、東大受験は7教科→5教科の準備が必要だった。←文系、理系を先に決めていれば5教科。英国の知識人ラッセル卿は「若いうちに文化系と理数系に分けて人生設計しなければならぬ現代社会は、将来において禍根を残すことにはならぬか。」との名言を残した。今、その時代のつけが回ってきているとも言えよう。

 今思えば、論文対策、思想信条面において、全くの無防備だった。理数系と暗記力は自前で用意できたが、急激な社会構造の変化に無頓着すぎた。このあたりは、予備校経験すれば、対策を考えることはできたであろう。

 政治信条・学力至上主義等への対策は全くしてこなかったため、「誤解されやすい人間」と思われたかもしれない。

 その一方で、田舎生活にこもることは「自分の視野を狭めること」と感じていて、地元の大学に行くことはいやだった。後々、父から「おまえ親をだましたな!?」と言われる行動をとった。従兄弟と同じ方策で滑り止め、東大受験。地元大学を不合格。というやり方である。

 前年の東大入試が実施されていれば、合格の可能性はあったと思う。ただ、貧乏故に、親族の家から受験というやり方。1週間を要する受験。体力消耗もある。

 同級生や資金繰りの豊かな家庭は受験対策を怠っていなかった。早慶大受験が主眼であったから。しかし、貧乏人の私には、市ヶ谷駐屯地事件での自衛隊員を前にしての演説を聴いて、違和感を覚えた。

 彼らの言い分に道理はあるが、聴かされてる自衛隊員と私には、貧困にさいなまれながら、耐え忍んでここまでやってきた家族の願いが両肩にかかっていた。→自由だ!平等だ!等という一般市民はフランスでは当たり前であっても、この国では、彼らは上流階級の子弟であり、聴かされてる自衛隊員と私たちは皆が皆、手かせ足かせ状態のしがらみから抜け出せない家出身の子ども達だった。

 そういった大衆の生活水準が理解できずに、理路整然と述べる姿に、私たちは2・26事件の再燃を危惧した。だから追随する者はほとんどいなかったのである。

 市民というのは古代ギリシア社会において、社会的責務を果たした上で保証される自由人という存在であるが、当時は1割から3割ぐらいまでの人々だったはず。残るはほとんどが奴隷であった。日本においては成人年齢に達すれば、市民としての権利は与えられるのが当たり前という感覚である。私は、こうした社会構造の狭間を生きていくしかなかったのである。