内藤多仲―東京タワーリバイバル “無骨な鉄塔”から「記憶の再生装置」へ

矢崎秀行

 改めて述べるまでもないが、構造建築家・内藤多仲(たちゅう)(1886~1970)は戦後日本を代表する建築家で、東京タワーの設計者である。

 彼は明治19年山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)に生まれた。旧制甲府中学、第一高等学校を経て東京帝国大学工学部造船科に入学。後に建築科に転じ卒業。1913年には早くも早稲田大学教授になっている。24年に『架構建築耐震構造論』で工学博士を取得。学生時代から数学に才を発揮していた先生は学会で「構造学派」の佐野利器(としかた)の教え子であり、彼の後を継ぎ日本における耐震構造技術の生みの親として建築界で知られる存在となった。当時の社会情勢を考えると1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起こっており、10万5千人の死者を出した東京の惨状を目の当たりにした彼は地震多発国日本における耐震構造建築の重要性を改めて認識することになった。前述の耐震構造論の博士論文も大震災の翌年東京帝国大学に提出されたものである。

 戦前戦後、内藤は日本の耐震構造や構造設計のパイオニア兼トップランナーとして名声を博することになる。例えば彼の代表的な建築としてよく取り上げられる日本興業銀行本店も構造設計は彼だが、意匠デザインは東京帝大の先輩・渡辺節(せつ)である。41年には日本建築学会会長、43年には早稲田大学理工学部長に就任している。

 第二次大戦後の内藤多仲の活躍は、やはり日本各地に建設した電波塔や観光塔に集約されるだろう。その数、実に69箇所。世に言う《塔博士》の誕生である。そして何といっても昭和33年(1958)12月に開業した東京タワーがその代表である。芝公園に立つ東京タワーは、元々は芝の増上寺の境内。この塔を建設したのは戦前は「新聞王」、戦後は「メディア王」と呼ばれた産経新聞の創立者・前田久吉(ひさきち)(1893~1986)である。

 1950年代は日本のテレビ放送の黎明期で,NHKが53年2月テレビの本放送を開始、同8月には民放初のテレビ局として日本テレビが開局した。そして東京放送(TBS)が55年、

57年には日本教育テレビ(テレビ朝日)と次々に開局していく。

 こうした状況下、広域をカバー出来る高い電波塔の必要は緊急を要し、東京タワー(日本電波塔)が建設された。構造設計の第一人者と当時目されていた内藤に白羽の矢が立つのは当然の成り行きで、既に54年に名古屋テレビ塔、56年には大阪に二代目通天閣の構造設計と塔建築の実績もあった。この3塔に、別府タワー・さっぽろテレビ塔・博多ポートタワーを加え、彼が50~60年代手がけた鉄塔は、後に「タワー6兄弟」と呼ばれることになる。

 東京タワーは高さ333メートルで当時世界一。1889年パリ万国博覧会の時にギュスターブ・エッフェルによって建設され、パリのシンボルとして有名だったエッフェル塔が312メートルだったので東京タワーはそれより21メートル高かったことになる。

 経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したのが昭和31年(1956)。それから2年後に完成したこの塔はまさに戦後日本の象徴になった。竹中工務店の現代技術と日本が培ってきた優れたとび職人の職人技が融合したこの塔は、工期はわずか1年半。それで世界一の電波塔が完成したのである。しかも使われた鋼材量はエッフェル塔の半分。それで耐震強度も十分な電波塔を建設できたことに内藤ら技術陣の誇りがあった。

 現代のように高層ビルが林立する東京と違って、芝公園に出現した333メートルの東京タワーは東京のどこからでも良く見えた。新聞テレビのマスコミも大きく取り上げ、この塔の人気の後押しをした。多くの国民はわずか21メートルとはいえ、有名なパリのエッフェル塔を抜いて世界一になったことも誇りに思ったことだろう。

 当時の日本社会の状況を庶民の哀歓をうまくすくいとって描いた映画に『ALWAYS三丁目の夕日』という映画があった。2005年山崎貴監督(原作は漫画家の西岸良平)の作品だ。

 大ヒットして数々の映画賞を受賞、テレビ放映され22.5%の高視聴率だったのでご記憶の方も多いだろう。この時代設定がまさに東京タワーが着工して完成する50年代の末。場所も東京の下町、東京タワー近くの町という設定だった。青森から集団就職で上京した少女、

 しがない自動車修理工場の親父、売れない小説家等々。まだ終戦から12年ほどの下町を舞台に喜怒哀楽が入り交じり哀歓こもごもの庶民の暮らしが描かれる。この映画では日に日に高さを増す東京タワーがもう一人の“主人公”だった。折につけ高さの違うタワーが登場する。建設中のタワーに向かって走る路面電車。三輪自動車ダイハツミゼットを運転する鈴木オートのおやじ(堤真一)は「東京タワーだ。完成すれば世界一になる‼」と誇らしげに叫ぶ。豊かではなかったけど、明日への希望があった時代の雰囲気がうまく描かれていた。

 実際、完成した東京タワーは人気を博した。開業の1959年1~12月の1年間で入場者は513万人。

 ところが、国民人気に反して東京タワーに対する建築専門家や美術家の評価は必ずしも高いものではなかった。建築学会の機関紙『建築雑誌』がタワーがオープンした1958年12月号でこの塔について座談会を組んだのだが、当時建築界の第一線にいた気鋭の建築家たちの東京タワー評は一様に手厳しい。「ものすごく背の高い化け物」「(エッフェル塔を真似た)東京タワーはもの悲しい」「造形が美しくない」。さらには「構造屋さんがやるとああいうふうになる」といった意見さえあった。つまり要は「意匠デザイン性がない」といった指摘。わが国を代表する工業デザイナーの柳宗理(1915~2011)(民芸運動を主導した柳宗悦の長男)は「エッフェル塔やドイツ・シュトゥットガルトのテレビ塔に比べ何の新しさも美しさも感じられない」(柳宗理エッセイ集)と酷評した。

 私は1975年大学入学のために上京したのだが、タワー完成から17年、確かにその頃には開業時の熱狂は冷め、何か東京タワーは“時代遅れの近代遺産”の雰囲気をまとっていた。当時の最先端は、新宿西口淀橋浄水場の跡地に次々に建っていった高層ビル群であり、同じモダニズム建築でもフランスのル・コルヴィジェの薫陶を受けた坂倉準三や前川國男の建築に光が当たっていた。さらには64年の東京オリンピックの貝殻型の国立代々木競技場で名を挙げた丹下健三やその門下生たち(槙文彦、磯崎新、黒川紀章)らが“メタボリズム”などを掲げて建築と美術や哲学との連動を唱えながら国際的にも華々しく活躍していた。

 そんな中にあって内藤多仲の東京タワーや大阪の典型的な下町・天王寺に建つ通天閣は、いかにもあか抜けないイメージで、タワーに蝋人形館、通天閣には“ビリケン像”という大衆路線を取ったこともあり、時代から取り残されたイメージが付着していったのである。

 さらに70年代後半から80年代、アカデミズムの世界には「ポストモダン」の大波が襲う。この反近代主義、反近代合理主義を正面から掲げる現代思想は、元々フランス現代哲学から派生したものであり、しかも建築をテーマにして盛んに論じられ世界に広まった。80年代の日本のバブル期にかけ東京の街にはこの考え方を基にした一見奇妙な建物がニョキニョキと立つことになった。近過去なので年配の方には記憶に残っているだろう。いずれにしても、構造設計を純粋化し、装飾を排して費用と効率と用途を追い求めて建てられた東京タワーはこの風潮の中、いかにも分が悪く、実際のところ入場者も漸減していった。70年代から言われていたが「東京タワーはお上りさんと外国人が行く観光名所。東京の人間は行きはしない」と言われるようになったのである。

 しかしながら、日本のバブルが最盛期を迎えた1989年を境に、この風向きが大きく変わる。東京タワーが再度脚光を浴びたのは、この年照明デザイナーの石井幹子(もとこ)(1938~)が東京タワーのライトアップデザインを手がけてからだといわれている。オレンジ色の高圧ナトリウムランプを装着した投光器148台、エメラルドグリーンのイルミネーション696灯。無骨と言われたタワーは東京の夜空にくっきりと浮かび上がった。「一本一本の鉄骨は、全体として大樹のように組みあがり、空に向かって仄かに溶け込んでいく。その姿は妖しいほどに美しかった」(建築評論家・細野透)。

 芥川賞作家で都市小説の第一人者日野啓三(1929~2002)は「タワーのライトアップは、品があって聖なる気品さえ帯びている」とその短編で記している。さらに石井幹子自身も「最近のもので感動したのはリリー・フランキーさんの小説『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2005)ですね。手術をして動けないオカンが、オトンとボクの前で、手鏡に映った東京タワーを見て、きれいやねと微笑むシーン。人と人の結びつきといったシーンに、暗示的に東京タワーが用いられるようになってきたことに、私は東京タワーがランドマークとしての意味を持ったのかなということを感じますね」(『東京タワー50年』)と語っている。多才なタレント、リリー・フランキーのこの小説は「本屋大賞」を取り、200万部を超すベストセラーになったのでお読みの方も多いだろう。そしてこの小説と同じ年に公開された前述の『ALWAYS 三丁目の夕日』である。

 無骨な構造建築と揶揄されてきた東京タワーは、照明デザインによって復活したのである。あるいは時間の経過の中で、市井の人々がこの塔に日々の小さな物語を付着させ、それが結晶化することによって再び命が吹き込まれたというべきだろうか。

 内藤多仲が心血をそそいだこのタワーは、現代において様々な視点からその意味の読み解きが続いている。その中で興味深かったのは、東京タワーは東京の裏鬼門(西南)に建つ塔で、2012年に完成した東京の鬼門(東北)の「東京スカイツリー」と並び立ちツインタワーとして巨大都市東京を守っているという説である。確かに芝の増上寺は江戸の裏鬼門の押さえとして江戸幕府が作ったものだし、江戸城の鬼門の押さえは上野寛永寺。その延長線上にある、東京スカイツリーは期せずしてそうした役割を負うのかもしれない。不思議な感じがするが、こうした民俗学的な読み込みさえされるようになった。

 いずれにしても、建築から64年を経た東京タワーは、確かにリバイバルした。『ALWAYS三丁目の夕日』監督の山崎貴は、この映画のヒットの理由は「作品が日本人の“記憶再生装置”になったことだ」と発言している。確かにそうなのだろう。そしてこのことは映画のもう一人の主人公東京タワーにもそのまま当てはまる。

 復興日本の象徴として完成した東京タワーは、様々な毀誉褒貶を経て評価の上でも復活した。それはおそらく計算尺を片手に内藤多仲が成した堅実な構造設計と、とび職人をはじめとする職人の誠実な仕事ぶりのたまもので、根底にそうした質実さがあったからこそ、照明デザインを身にまとって現代に復活することができたのである。しかも私たち日本人の記憶の再生装置という重要な役割をともなって復活したのである。

 2021年の東京オリンピックでは、盛んに「レガシー(記念碑的遺産)」と喧伝されたが、はたして時間の経過に馴染んで人々に愛される遺産が作れたのかどうか。国威発揚が前面に出すぎていなかっただろうか。

 内藤多仲の建築は、どことなく親しみやすさや庶民性があったと思う。東京タワーにしても、いかにも大阪的な通天閣にしても。そういう建造物には日々生きる人々が個人個人の“小さな物語”を仮託しやすい。50年代の日本の復興という“大きな物語”の象徴であった東京タワーは繊細な照明デザインをまとうことで、一見無骨な姿の下に隠されていた「すっきりしたモダンデザインの美しさ」を私たちに改めて教えてくれた。さらには市井の人々の喜怒哀楽と言おうか、哀歓を込めた“小さな物語”の舞台としての要素も取り入れながら、今や人々の心の琴線に触れる存在となったのである。

 内藤多仲は、日本近代建築史に名を残し1962年には文化功労者にも選出されている。けれども、こうした名誉叙勲だけが彼の偉大さを証明するものではない。タワー建築から64年経って、多くの日本人が「大切な己の記憶を呼び起こす縁(よすが)」としてタワーを仰ぎ見るようになった。そうしたことはどの建物でも起こることではない。その時々の流行やトレンドに乗ることも重要かもしれないが、人々の「記憶再生装置」になることははるかに大切で、とても人間らしいことである。

 内藤多仲は時代が一巡し「日本の伝統職人のような構造建築家」と評されるようにもなった。計算尺を使った虚飾のない愚直な仕事。そうしたことが根底にあったからこそ、その仕事が再評価される時代を迎えることができたのだろう。